マタイの福音書第27章第57節~第66節:イエスさまの埋葬、墓の番兵マタイの福音書第27章第32節~第44節:十字架刑

2015年12月05日

マタイの福音書第27章第45節~第56節:イエスさまの死

第27章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Death of Jesus

イエスさまの死


45 At noon, darkness fell across the whole land until three o’clock.

45 正午に全地に暗闇が降り、それが三時まで続きました。

46 At about three o’clock, Jesus called out with a loud voice, “Eli, Eli, lema sabachthani?” which means “My God, my God, why have you abandoned me?”

46 三時ごろ、イエスさまが大声で叫びました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ?」 これは「私の神よ、私の神よ。どうして私を見捨てたのですか。」という意味です。

47 Some of the bystanders misunderstood and thought he was calling for the prophet Elijah.

47 居合わせた人の中には聞き間違えて、イエスさまが預言者のエリヤを呼んでいると考えた人もいました。

48 One of them ran and filled a sponge with sour wine, holding it up to him on a reed stick so he could drink.

48 そのうちのひとりが走って行き、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒につけてイエスさまが飲めるように掲げました。

49 But the rest said, “Wait! Let’s see whether Elijah comes to save him.” (And another took a spear and pierced his side, and out flowed water and blood.)

49 しかし残りの人たちは言いました。「待て。エリヤが来て彼を救うかどうか見ていよう。」 (他のひとりは槍を取ってイエスさまのわき腹を突き刺しました。すると水と血が流れ出ました。)

50 Then Jesus shouted out again, and he released his spirit.

50 それからイエスさまはもう一度叫び、自分の霊を解き放ちました。

51 At that moment the curtain in the sanctuary of the Temple was torn in two, from top to bottom. The earth shook, rocks split apart,

51 そのとき寺院の至聖所の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。地面が揺れて、いくつもの岩が二つに割れました。

52 and tombs opened. The bodies of many godly men and women who had died were raised from the dead.

52 そして墓が開きました。多くの死んでいた信仰厚い男女が死からよみがえりました。

53 They left the cemetery after Jesus’ resurrection, went into the holy city of Jerusalem, and appeared to many people.

53 彼らはイエスさまの復活の後に墓を出て、聖都エルサレムに入って行って、多くの人の前に現われました。

54 The Roman officer and the other soldiers at the crucifixion were terrified by the earthquake and all that had happened. They said, “This man truly was the Son of God!”

54 十字架の場所にいたローマ帝国軍の将校と兵隊たちは地震とすべての出来事を見て恐れを抱きました。彼らは言いました。「この男は真に神の子であったのだ。」

55 And many women who had come from Galilee with Jesus to care for him were watching from a distance.

55 ガリラヤからイエスさまの世話をするために一緒に来たたくさんの女性たちが離れたところから見ていました。

56 Among them were Mary Magdalene, Mary (the mother of James and Joseph), and the mother of James and John, the sons of Zebedee.

56 この中にはマグダラのマリヤ、マリヤ(ヤコブとヨセフの母)、とゼベダイの息子のヤコブとヨハネの母がいました。




ミニミニ解説

マタイの第27章です。

前回、イエスさまはエルサレムの市外にあるゴルゴタの丘へと連れていかれ、そこで十字架に掛けられました。イエスさまを十字架に掛けたローマ兵たちはそこでイエスさまの着ていた着物を賭けてさいころを振り、通りかかった人たちはイエスさまに向けてあざけりの言葉を容赦なく浴びせました。

今回の場所に対応する箇所は「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」のすべての福音書に見つかります。平行箇所を読むと実際に十字架の場面で何が起きていたのかがよくわかりますので、直接関係のない部分も引用します。順番に見てみましょう。

マルコはMark 15:33-41(マルコの福音書第15章第33節~第41節)です。

「33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」 37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」([新改訳])。

ルカはLuke 23:44-49(ルカの福音書第23章第44節~第49節)です。

「44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。」([新改訳])。

ヨハネはJohn 19:25-37(ヨハネの福音書第19章第25節~第37節)です。

「25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。」([新改訳])。

いつものように「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の式にあてはめると、今回のマタイの記述はほぼ「マルコ」から引用していることがわかります。

マタイには記述がありませんが、マルコでは前回紹介した第15章第25節に「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」([新改訳])と書かれていました。今回の部分は「正午に全地に暗闇が降り、それが三時まで続きました。」と始まっています。

イエスさまが十字架に掛けられてから約三時間が経った正午頃になると、辺り一帯が暗闇に包まれてその状態が三時間も続くのです。これは超常現象です。たとえば想像できるのはちょうどこのときに皆既日食が起こり、太陽の光が地上に届かなくなったのではないか、ということくらいです。

「辺りが暗くなったからと言って、そんなのは超常現象でもなんでもない。きっと雲が厚くて薄暗い状態で、さらにそこに皆既日食が起こっただけのことだろう。私たちのよく知っている現象だ。」などと言うのは容易です。私も皆既日食かどうかはともかくとして、何か科学的に説明できる背景があったのだろう、と思います。

でもたとえばこれが皆既日食だったとしたらどうでしょうか。現代では皆既日食の起こるタイミングは大変正確に予測できます。それはなぜか。星の運行には間違いがなく規則正しく常に正確だからです。私はこういうことを考えるたびに、世界の、あるいは宇宙の設計者の存在を強く感じます。

つまり皆既日食が正確に予測できるのなら、イエスさまの十字架の日付や時刻もいまから遡って、きっとこのときの皆既日食の時だったのだろう、と特定できるのではないでしょうか。そしてもしこの暗闇の正体が皆既日食だったとしたら、皆既日食は竜巻などのように突発的に起こる自然現象ではないのですから、イエスさまの十字架は皆既日食に合わせてタイミングがきっちりと重なるようにあらかじめ用意されていたと言うことになります。でもそれはいつからなのでしょうか。それはきっと宇宙が創造された日、宇宙の運行が始まった日からです。神さまはそうやって時間の流れと世の中の万物をコントロールされているのです。

聖書では「光」は神さまの象徴であり、「闇」は神さまの忌み嫌う悪の象徴です。十字架に掛けられたイエスさまを闇が覆うわけですから、神さまの息子のイエスさまが悪に包まれていることになります。イエスさまは最後まで神さまの目に正しく映ること、神さまの意志に沿うことを貫き通した人ですから、その存在と生き方は神さまに100%帰依していたはずなのに、その善であるはずのイエスさまを悪の闇が包むのです。

旧約聖書には神さまに対する「罪悪」が何なのかと(それは神さまの意志に背くことです)、その罪や汚(けが)れのはらい方、あるいは罪ある者として神さまに向き合うときの姿勢やあり方が詳しく書かれています。イエスさまは、私たち人間が神さまの意志に背く「罪」を犯したことで生じた、神さまに対する「負債」(=借り)を、私たちに代わる身代わりとして支払うために十字架にかかりました。旧約聖書によると、罪の負債を支払う方法は、いけにえとして捧げられる動物の「いのち」だからです。イエスさまは汚れや瑕疵のない清い「いけにえ」として十字架にかかり、私たちの負債を支払ったのです。三時間にわたってイエスさまを包んだ闇は、イエスさまに注ぎ込まれた全人類の悪を象徴しているのかも知れません。

さて十字架に掛けられた受刑者はどのようにして死ぬのだと思いますか。意外なことにその死因は「窒息死」なのです。

十字架が直立して完成すると受刑者の上半身の体重を支えるのは両手首に打ち込まれた釘だけになります。このため受刑者の身体は前へガクンと倒れ込みます。不自然に上体が前のめりになるために往々にして肩が外れて脱臼してしまいます。

これは大変な痛みを伴います。あまりの激痛に上半身が硬直して緊張し、肺の中の空気を吐き出せなくなります。私たちも何かの拍子に激痛を感じると(たとえば椅子の脚などを間違えて思い切り蹴っ飛ばして足の小指をぶつけてしまったとき)、思わず身体をこわばらせて「うっ」となって呼吸を止め、身体の緊張が解けるまで息を吐き出せなくなります。そして少しの間こらえて痛みが引いていくと、身体の緊張が解けて「フー 」っと肺から息を出せるようになります。

十字架上で前のめりに倒れ込んだ受刑者は激痛で身体が硬直して息ができなくなるのです。呼吸ができないと苦しいですから、受刑者は自分の体重をなんとか支えようと膝を折り、両足首を貫いて打ち付けられた太い釘の部分と、後ろの縦木に押し当てた腰の部分に力を入れます。それから下半身にぐっと力を入れて少しずつそろそろと膝を伸ばし、縦木に沿って自分の身体を少しずつ上へ持ち上げて行くのです。そうやって両手首と肩の激痛から来る上半身の緊張を解こうとするのです。それにうまく成功すると初めて肺の中の空気をフーっと吐き出すことができ、同時に新鮮な空気を肺一杯に吸い込みます。

この時点で両足首と腰で支えていた下半身が限界に達します。足首の支えは両足を貫く太い釘なのです。足首の痛みに耐えられずに膝をガクンと折ると、全体重は再び手首と肩にぶら下がり、元の状態に戻るのです。そしてまた激痛で身体が硬直して息が吐き出せなくなる・・・。しかも肺の中は先ほど思い切り吸い込んだ新鮮な空気で満杯なのです。受刑者は再び下半身に力を込めてノロノロと身体を持ち上げなければなりません。

果たしてこの上下動をいつまで続けられるでしょうか。受刑者は十字架に掛けられる前に最大40回のむち打ち刑を経て、そもそも瀕死の状態なのです。やがて体力の限界が訪れると受刑者は身体を持ち上げられなくなり、肺の中の息を吐き出すことができずに窒息するのです。なんという残虐な刑なのでしょうか。受刑者がゆくっりと苦しみながら死ぬように設計されているのです。これほど残酷な死に至るプロセスを誰が考えたのでしょうか。十字架が史上最悪の残虐刑と言われるのも当然だと思います。

第46節、イエスさまが大きな声で叫びます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ?」。これは「私の神よ、私の神よ。どうして私を見捨てたのですか。」という意味だと書かれています。これはイエスさまが神さまに悪態をついたり、不満をこぼしているのではありません。実はこれは旧約聖書からの引用なのです。Psalm 22:1(詩編第22章第1節)です。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」([新改訳])。

十字架のまわりで見ている人はほとんどがユダヤ人です。ですからイエスさまが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ?」と叫ぶのを聞いたとき、これが旧約聖書からの引用であると気づかない人はひとりもいません。そしてPsalm 22(詩編第22章)が、このあとどのように続くかも、みんな知っているのです。

Psalm 22(詩編第22章)はダビデ王が書いた詩ですが、神さまに見捨てられたと悲観するダビデが、こうやって悲しみを嘆き訴える言葉で始まり、その後も悲痛な叫びが何行も何行も続くのです。しかし章の終盤では、ダビデの言葉は突然神さまの力についての信頼と賞賛と賛美に変わるのです。そもそも詩編という本の全体が神さまを信じ、褒め称え、賛美する歌であふれています。だからイエスさまの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」もダビデが書いたのと同じように、いまの自分は苦痛の中にいて神さまから見捨てられたようにさえ感じられるが、最終的には自分の心は神さまを信じ賞賛する、と言っているのです。

もうひとつこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の部分で興味深いのは、[KJV]を見ると、マルコが「Eloi, Eloi, lama sabachthani?」と書いているのに対し、マタイが「Eli, Eli, lama sabachthani?」となっていることです。[新改約]でも「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と書き分けられています。これはマルコが当時の日常語の「アラム語」で表したのに対し、マタイは旧約聖書のオリジナルのヘブライ語そのままを引用した形で書いたから、ということのようです。つまり実際のイエスさまの叫び声はマルコに近く「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と聞こえたのでしょう。

第47節、イエスさまの叫びを聞いて、これはイエスさまが預言者エリヤを呼んでいるのでないか、と言った人がいました。きっと「エリ、エリ」の部分の響きが「エリヤ」に近いので、エリヤを呼んでいるように聞こえたのでしょう。預言者エリヤは旧約聖書に登場する預言者ですが、死を迎える前に天から降りてきた火の戦車に乗って神さまの元へ連れ去られています。死を体験することなく天へ迎えられたとされるのは旧約聖書の中ではエリヤとエノクの二人だけです。また預言者エリヤは後の世で、救世主が出現する前に、その先駆けとして再来することが信じられていたので、このときのイエスさまの「エリ、エリ」がいよいよそれを実現するのではないか、と考えた人がいたということでしょう。

第48節、誰かが海綿に含ませてイエスさまに飲ませようとした「酸いぶどう酒」は、当時のローマ兵が携帯して飲んでいた強壮ドリンクのようです(実際には水と酢と卵を混ぜ合わせたものらしい)。つまりイエスさまが本当にエリヤを呼び戻すのかどうか、強壮ドリンクを飲ませて元気をつけてやり、その後の成り行きを見守ろうとしたのです。

第49節、兵士のひとりがイエスさまの脇腹を槍で突きます。この様子は引用したヨハネの中にも登場しています。ヨハネの第19章第31節には「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。」([新改訳])と書かれています。これはDeuteronomy 21:23(申命記第21章第23節)に「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」([新改訳])と定められているからでしょう。

罪人を早く殺すためにユダヤ人たちは「罪人たちの足を折ること」を頼みます。ローマ兵たちは罪人の死期を早める目的で大きな木槌のようなもので罪人の膝下や足首を折っていたようです。それは足を折られれば、罪人たちは上で説明した呼吸のために自分の体を押し上げることが困難になり、すぐに窒息死してしまうからです。ヨハネの第32節~第33節によるとイエスさまの左右の罪人の足は折られるのですが、イエスさまはこのとき既に死んでいたためにわざわざ足を折られることはありませんでした。しかしローマ兵は槍を使ってイエスさまの脇腹を下から上へ突き刺します。恐らく槍は水のたまった胞と心臓を貫いたので、傷口の穴から血と水が流れ出しました。

第50節には「それからイエスさまはもう一度叫び、自分の霊を解き放ちました。」とあります。ここでイエスさまが何を叫んだのかはルカの引用箇所を読むとわかります。第23章第46節に「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」([新改訳])とあります。人は聖書によると神さまが仮の肉体(body/flesh)に霊(spirit)を宿らせている存在のようですから、肉体に死が訪れるとき、霊は肉体から解き放たれて神さまの管理下に戻るわけです。

すると第51節で「そのとき寺院の至聖所の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。地面が揺れて、いくつもの岩が二つに割れました。」とあります。この寺院の最深部の聖域へ至る幕は、厚みが数十センチもある刺繍の施された大変な重量の重厚なカーテンです。

ユダヤ人にとっての寺院はエルサレムにあるただ一つの寺院だけです。私たち日本人が考える、あちらこちらにある神社やお寺を考えると理解を間違えてしまいます。ユダヤ人の寺院はもともと移動式の神殿であったものをエルサレムに固定したものです。紀元前1500年頃にユダヤ人がエジプトの奴隷状態から脱出した後で、指導者のモーゼは神さまから十戒に代表される律法(法律)を授かります。その律法の中に含まれていたのが移動式神殿の設計図や、組み立て・解体・移動の方法でした。この神殿はユダヤ人が最終的に現在のイスラエルの地に定着するまでの間、ユダヤ人と一緒に移動し、最終的にエルサレムに建築物として固定されたのです(紀元前1000年頃)。

エルサレムの寺院は移動式神殿と同じ構造を取っており、つまり寺院の中はいくつかのエリアに区切られていて、中へ進むほど聖域の度合いが増していきます。今回真っ二つに裂けたとされる幕は、その最深部の聖域(至聖所)への入り口となっている幕のことです。この寺院の最深部の至聖所(「the holy of holies」などと呼ばれます)へ入ることが許されているのはユダヤ人の中でただひとり、大祭司だけです。大祭司はモーゼの兄のアロンの家系の中から選ばれることが決まっています。大祭司はやはりモーゼが授かった律法の中に定められた方法に従って、年に一度だけ寺院の至聖所に入り、そこで「罪の購(あがな)い」の儀式を行うのです。至聖所には聖なる箱(中には十戒を刻んだ石版などが納められている)が安置されていて、神さまは唯一その場所で大祭司とコミュニケーションを行うことになっています。つまり大祭司はすべてのユダヤ民族を代表して、唯一神さまとコミュニケーションできる場所に入り、全ユダヤ人の罪を許していただくための儀式をそこでとり行うわけです。その儀式とは罪の代償となるいけにえの羊の血を聖なる箱のふたの上に振りかける作業です。旧約聖書によると罪を購うのは「いのち」であり、生きものの「いのち」は「血」の中にあるからです。

イエスさまが死んだのと同時に至聖所の入り口となる幕が真っ二つに裂けたというのはどういう意味でしょうか。通常、人は神さまの出現する至聖所へは入ることが許されません。その理由は人が罪によって汚(けが)れているからです。聖なる神さまは汚れた人間と接することができないのです。ただひとり至聖所へ入ることを許された大祭司も特別な清めの儀式(やはり動物の「血」を用いる)を経て聖別された存在となっている必要があります。さらに寺院の聖域へ入るためには、毎度、いけにえの血を用いた清めの儀式を経なければなりません。そうしなければ幕の内側へ入ってはいけないのです(旧約聖書にはこれらの手順やルールを守らなかったがために死んだ人たちの例が記述されています)。

ところが今回、その幕が真っ二つに裂けてしまいました。これはいけにえとして死んだイエスさまの血が人間の罪を洗い流し、人間を清い存在に変えてしまったからです。汚れが至聖所に入ることを拒んでいた幕、神さまと人間を隔てていた幕は、もはや不要になったという意味です。つまり人はイエスさまの十字架死以降は、大祭司という代理人を経由することなく、誰もが直接神さまと接することができるようになったのです。また至聖所の幕がなくなったということは、毎年行われてきた大祭司による罪の購いの儀式も不要となったことを意味します。いけにえとして捧げられる動物の「いのち」が汚れを清める効力には有効期限がありました。だから清めの儀式は様々な形で繰り返し繰り返し行う必要がありました。しかしイエスさまの死は一回で完全に人の汚れを清めてしまったので、もう清めの儀式を繰り返す必要がないのです。

第52節と第53節はマタイにだけ編集されている部分です。ここでは墓が開いて、墓の中からそれまでに死んでいた多くの信仰厚い男女がよみがえって出てきます。この人たちはイエスさまの復活の後に墓から出てきてエルサレムに入り、多くの人の前に姿を現わすのです。マタイがこの独自の編集を行った理由や、ここの句の実際の解釈についてはよくわかりません。

第54節で、「この男は真に神の子であったのだ。」と言ったのはローマ帝国軍の将校です。ユダヤ人ではない外国人の将校でさえ、このような感想をもらすような何か特別な雰囲気があったということでしょう。

第55節~第56節にはイエスさまの周辺にいた女性たちのことが書かれています。イエスさまがガリラヤで伝道活動を行っていた頃から、イエスさまの手伝いをしていた女性たちが何人もいて、その人たちはイエスさまの世話をするためにエルサレムまでついて来ていて、イエスさまの十字架死も見届けたのです。十二使徒に代表される男の弟子たちはイエスさまが王となり、王国が復活したときの自分の地位や序列を互いに争って口論し、そのイエスさまが逮捕されると散り散りになって逃げてしまったと言うのに、女性たちは最後までイエスさまの近くにいて、イエスさまの死を見届けています。ここで名前があげられているのはマグダラのマリヤ、マリヤ(ヤコブとヨセフの母)、十二使徒であるヤコブとヨハネ(ゼベダイの息子)の母の三人です。最後の女性、つまりヤコブとヨハネの母の名前がサロメであることはマルコを読むとわかります。

同じ場面を記述した、John 19:25(ヨハネの福音書第19章第25節)には「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。」([新改訳])と書かれています。こちらは四人の女性です。順番に結びつけてみましょう。

マグダラのマリヤは両方に登場しています。このマリヤは復活したイエスさまに最初に会った人物なのですが、この人がどのような人物だったのかはよくわかりません。唯一説明されているのは、Luke 8:2(ルカの福音書第8章第2節)に書かれている「また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ」([新改訳])だけで、つまりイエスさまに「七つの悪霊を追い出していただいた」ことしかわかりません。福音書の他の場所に登場する女性(イエスさまに香油を注いだ女性や石打ちの刑を免れた娼婦)が実はマグダラのマリアだったのだとする説がありますが、これは「七つの悪霊」をもっていたくらいだからきっと娼婦なのだろう、などというこじつけになっていて、それ以上の根拠はないのだとと思います。

次のマリヤは、若い方のヤコブとヨセフの母とされていますが、ヨハネの福音書に結びつけると、このマリヤは恐らく「クロパの妻のマリヤ」になります。

最後のサロメをやはりヨハネの福音書に結びつけると、「イエスの母」であるマリヤの「姉妹」と言うことになります。ということはイエスさまと十二使徒のヤコブ、ヨハネは従兄弟(いとこ)だったということです。






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