マタイの福音書:第27章マタイの福音書第26章第57節~第68節:議会の前に立つイエスさま

2015年12月06日

マタイの福音書第26章第69節~第75節:ペテロがイエスさまを否定する

第26章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Peter Denies Jesus

ペテロがイエスさまを否定する


69 Meanwhile, Peter was sitting outside in the courtyard. A servant girl came over and said to him, “You were one of those with Jesus the Galilean.”

69 一方、ペテロは中庭で屋外に座っていました。使用人の女性がひとり来て、ペテロに言いました。「あなたはガリラヤ人のイエスと一緒にいた人たちのうちのひとりですね。」

70 But Peter denied it in front of everyone. “I don’t know what you’re talking about,” he said.

70 しかしペテロはみなの前でそれを否定しました。「あなたが何を言っているのか、私にはわからない。」と言いました。

71 Later, out by the gate, another servant girl noticed him and said to those standing around, “This man was with Jesus of Nazareth.”

71 その後で、門の近くのところで、もうひとりの使用人の女性がペテロを見て、まわりに立っている人たちに言いました。「この人はナザレ人のイエスと一緒にいました。」

72 Again Peter denied it, this time with an oath. “I don’t even know the man,” he said.

72 ペテロは再びそれを否定しました。今回は誓って言いました。「私はそんな人は知りさえしません。」と言いました。

73 A little later some of the other bystanders came over to Peter and said, “You must be one of them; we can tell by your Galilean accent.”

73 その少し後で、そこに居合わせた人たちの何人かがペテロのところへ来て言いました。「あなたは彼らのうちのひとりに違いない。あなたのガリラヤなまりでわかります。」

74 Peter swore, “A curse on me if I’m lying -- I don’t know the man!” And immediately the rooster crowed.

74 ペテロは誓いました。「私が嘘をついていたら災いがありますように。私はそんな人は知りません。」 するとその直後におんどりが鳴きました。

75 Suddenly, Jesus’ words flashed through Peter’s mind: “Before the rooster crows, you will deny three times that you even know me.” And he went away, weeping bitterly.

75 突然イエスさまの言葉がペテロの心に浮かびました。「おんどりが鳴く前に、あなたは私を知っていることを三回否定するのです。」 ペテロは激しく泣きながら立ち去りました。




ミニミニ解説

マタイの第26章の最後の部分です。

前回、逮捕されたイエスさまは大祭司の私邸へ連行され、そこで予備審問が開かれました。

大祭司はイエスさまに「あなたは神さまの息子、救世主なのですか。」と問いかけ、イエスさまはそれに対して「あなたがそれを言ったのです。そして将来、あなた方は人の子が神さまの右側の力の座に着き、天の雲に乗って来るのを目撃します。」と答えました。ここはオリジナルのマルコでは「わたしは、それです。」と回答したはずの部分を、マタイが「あなたがそれを言ったのです。」に編集した部分でした。いずれにしても大祭司は嫌悪と激怒の気持ちを顕わにするために自分の着ていた衣服を引き裂いて「これは冒涜だ。」と叫びました。大祭司邸に集まっていたサンヘドリンの議員たちも「有罪だ。彼は死刑に値する。」と叫んで予備審問の判決が確定しました。今回はその間、大祭司邸の中庭にいたペテロの話です。

今回と同じ部分の話は「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」のすべての福音書に見られます。「マルコ」はMark 14:66-72(マルコの福音書第14章第66節~第72節)です。

「66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」 68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。{すると、鶏が鳴いた。} 69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」 71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」([新改訳])。

「ルカ」はLuke 22:54-62(ルカの福音書第22章第54節~第62節)です。

「54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」 57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。62 彼は、外に出て、激しく泣いた。」([新改訳])。

「ヨハネ」は二カ所を引用します。まず最初は前回も引用したJohn 18:15-18(ヨハネの福音書第18章第15節~第18節)です。

「15 シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭に入った。16 しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れて入った。17 すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。18 寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」([新改訳])。

それからJohn 18:25-27(ヨハネの福音書第18章第25節~第27節)です。

「25 一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない」と言った。26 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」 27 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」([新改訳])。

いつものように「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の式にあてはめると、この部分がほぼ「マルコ」から採用されていることがわかります。「ルカ」ではおんどりが鳴いた場面でイエスさまが振り返り、ペテロを見つめているのが印象的です。

オリーブ山からローマ帝国軍の兵士によって大祭司邸へ連行されて来たイエスさまに対して、深夜に緊急開催された異例のサンヘドリンの予備審問の議会はその場でイエスさまに死刑の判決を下しました。結局、サンヘドリンはイエスさまについて死罪にあたるような有力な証拠をつじつまが合う形で用意することができず、最後に大祭司自らがイエスさまを直接尋問し、イエスさまの答えの中から神さまを冒涜する発言を引き出して、それを耳にした議員全員を証人として死刑判決に至ったのでした。

イエスさまがオリーブ山で逮捕されたとき、「イエスさまと一緒であれば死さえ辞さない」と豪語していた弟子たちは全員が散り散りになって逃げてしまいました。ところがペテロだけは距離をおいてこっそりとイエスさまの後を付けて来て大胆にも大祭司邸の中庭に潜り込み、イエスさまが内部で裁かれている間に自分は見張り役と一緒に座っていたのでした。

第66節、すると大祭司邸で働いている女性がひとりペテロに近づいて来て、イエスさまの一味ではないか、と質問します。ペテロはこの質問に対して第70節、「あなたが何を言っているのか、私にはわからない。」と言い返します。「イエスさまと一緒であれば死さえ辞さない」と言ったペテロは師の逮捕の場を逃げ出し、今度は女性に詰め寄られると、その場を逃れるために「自分はイエスという人は知らない。何を言っているのか意味がわからない。」と言ったことになります。そのままそこにとどまり続ければ、この女性は大声で騒ぎ始めるかも知れず、ペテロは女性を避けて大祭司邸の門の方へと移動しました。

イエスさまは第41節で、オリーブ山で弟子たちに言いました。「見張って祈りなさい。誘惑に負けないように。なぜなら心が望んでいても肉体は弱いからです。」と。心の中にどれほど強く高い意志を自分が持っているつもりでいても、人は実際の困難に直面すると、痛みや苦しみや恥辱を避けて易きに流れてしまうのです。あのときの決意はいったい何だったのか、と似たような経験を持っている人はたくさんいると思います。

第71節、ペテロが門のあたりに立っていると、別の女性がペテロを見て、イエスさまの一味だと周囲の人に言い立てます。この部分はマルコでは同じ女性が門のところまで追いかけて来たように書かれています。第72節でペテロはこれを再度否定します(二度目の否定)。ここには「今回は誓って言いました。」と書かれています。ユダヤ人が誓いを立てて言う場合は、日本人が「神に誓って言う」と言うのとは違います。ユダヤ人は神さまから選ばれて、聖書の神さまだけを唯一の神さまとして信じる人たちですから、そう軽々しく誓いを口にして良いわけはないのです。

第73節、今度は近くに居合わせた複数の人たちから「あなたは彼らのうちのひとりに違いない。あなたのガリラヤなまりでわかります。」と言われてしまいます。エルサレムからサマリヤを越えて100kmほど北にあるガリラヤ地方は、数百年にもわたってイスラエルそのものが南北の王朝に分かれた後で別々の外国に滅ぼされ、国民の大半が国外へ連れ去られ、代わりに外国人が入植させられるなどの年月を経て、もともと同じユダヤ人ではありながら地方独特の文化や方言が生まれていたようです。イエスさま自身と十二使徒からユダを除いた十一人は、全員がガリラヤの出身者とされていますから、みな特徴のあるガリラヤなまりの言葉を話していたのでしょう。このなまりは南部のエルサレムに住む人たちが耳にすればすぐに識別できたので、「あなたのガリラヤなまりでわかります。」と言われてしまったのでしょう。

これに対してペテロは第74節「私が嘘をついていたら災いがありますように。」と言う言葉まで付け加えながら、もう一度「私はそんな人は知りません。」と言い切ります。もし自分が嘘をついているのなら、自分の心を見通す神さまから災いや呪いを受けても良い、と言うのです。またイエスさまのことを「the man(その人)」などと言うよそよそしい言い方で呼んで、自分の愛する師の名前を直接言うことを避けています。果たしてこれらはペテロの罪悪感の現れなのか、あるいは最初に女性についた軽々しい嘘が三度目ともなると、嘘に説得力を持たせるために自然と出てきてしまった演技や演出なのか、とにかく嘘をつきとおすことに懸命になり、そのことに陶酔しているようにも読めます。どちらにしてもペテロはすっかり追い詰められてしまっています。

第74節、ペテロが三度目の否定をした直後、ペテロはおんどりが鳴く声を耳にします。そしてイエスさまがこの章の第34節で言った言葉を思い出すのです。ペテロが「たとえほかの全員があなたを見捨てても、私は決してあなたを見捨てません。」と言ったのに対し、イエスさまは「ペテロよ、あなたに本当のことを言います。今夜、おんどりが鳴く前に、あなたは三度、私を知っていることを否定します。」と告げたのでした。

おんどりの声を聞いたとき、ペテロは自分がどのようにしてイエスさまを裏切ったのかを理解して激しく泣きながらそこから立ち去ります。このときペテロは初めて自分の行為を客観的に見たのです。

ペテロはこの後、イエスさまの十字架死を経て復活したイエスさまと出会い、イエスさまが自分が天に戻る代わりにと言って信者のひとりひとりに与えた聖霊の助けを得て、1世紀にスタートした福音を世の中へ広める伝道活動のリーダーのひとりとなります。ペテロがどれほど勇敢に福音を世の中に広めたかを読むと、新約聖書の「Acts(使徒の働き)」に書かれていることも、言い伝えとして伝えられている部分も、その様子は本当に勇敢でまるで別人のようです。

これは「イエスさまを知ること」がどのように人を変えるかの典型的な例とも言えますし、自分の信仰の弱さを思い悩む人にとっては、ペテロがどれほどの失敗を経て、それでも最後には信者のリーダーとなってイエスさまの意志に報いようとしたかを読むことが、信仰生活での大きな励みとなります。心にどれほどの強い決意を持っていても、肉体は弱く、人は易きに流れるのです。人間の力で神さまの目に正しく映ることは不可能なのです。人間は神さまをがっかりさせ続け、だから私たちは自分の力で神さまのいる天国に入ることはできません。私たちがそれを知るとき、自分の弱さやふがいなさに絶望するとき、初めて神さまの愛と福音の計画の意味を知るのです。神さまを信じ、いつも神さまと共に歩むことが求められているのです。ペテロは信者のリーダーを務めながら、自分がどのように神さまの役に立てるのか、どのような目的で自分が神さまから選ばれたのかを何度も考えたことでしょう。






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