マタイの福音書第26章第47節~第56節:イエスさまが裏切られ逮捕されるマタイの福音書第26章第31節~第35節:イエスさまがペテロの否定を予告する

2015年12月06日

マタイの福音書第26章第36節~第46節:イエスさまがゲッセマネで祈る

第26章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Prays in Gethsemane

イエスさまがゲッセマネで祈る


36 Then Jesus went with them to the olive grove called Gethsemane, and he said, “Sit here while I go over there to pray.”

36 それからイエスさまは弟子たちと共にゲッセマネと呼ばれるオリーブの森へ行き、言いました。「私があそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい。」

37 He took Peter and Zebedee’s two sons, James and John, and he became anguished and distressed.

37 イエスさまはペテロとゼベダイの二人の息子、ヤコブとヨハネを連れて行き、激しく苦悶して苦しみ始めました。

38 He told them, “My soul is crushed with grief to the point of death. Stay here and keep watch with me.”

38 イエスさまは彼らに言いました。「私の魂は深い悲しみに押しつぶされて死にそうです。ここにいて私といっしょに見張っていなさい。」

39 He went on a little farther and bowed with his face to the ground, praying, “My Father! If it is possible, let this cup of suffering be taken away from me. Yet I want your will to be done, not mine.”

39 イエスさまは少し奥へと進み、地に顔を向けて腰をかがめて祈りました。「私の父よ。もし可能ならばこの苦しみの杯を私から取り去ってください。しかし私はあなたの意志がなされることを望みます。私の意志ではなく。」

40 Then he returned to the disciples and found them asleep. He said to Peter, “Couldn’t you watch with me even one hour?

40 それからイエスさまが弟子たちのところに戻って来ると、弟子たちが眠っているのを見つけました。イエスさまはペテロに言いました。「あなた方は一時間さえも、私と共に見張っていることができなかったのですか。

41 Keep watch and pray, so that you will not give in to temptation. For the spirit is willing, but the body is weak!”

41 見張って祈りなさい。誘惑に負けないように。なぜなら心が望んでいても肉体は弱いからです。」

42 Then Jesus left them a second time and prayed, “My Father! If this cup cannot be taken away unless I drink it, your will be done.”

42 それからイエスさまは二度目に弟子たちを残して祈りました。「私の父よ。私が飲まなければこの杯が取り去れないのでしたら、あなたの意志を行ってください。」

43 When he returned to them again, he found them sleeping, for they couldn’t keep their eyes open.

43 イエスさまが再度弟子たちのところへ戻って来ると、イエスさまは弟子たちが眠っているのを見つけました。弟子たちは目を開けていることができなかったのです。

44 So he went to pray a third time, saying the same things again.

44 イエスさまは三度目に祈りに行かれ、同じことをもう一度言いました。

45 Then he came to the disciples and said, “Go ahead and sleep. Have your rest. But look -- the time has come. The Son of Man is betrayed into the hands of sinners.

45 それからイエスさまは弟子たちのところへ来て言いました。「よろしい。眠りなさい。休みを取りなさい。ですが見なさい。時が来ました。人の子は裏切られて罪人たちの手に渡されるのです。

46 Up, let’s be going. Look, my betrayer is here!”

46 立ちなさい。行きましょう。見なさい。私を裏切る者が到着しました。」




ミニミニ解説

マタイの第26章です。

イエスさまの一行はエルサレム市内で過越の晩餐を終え、市の南の城門から城壁の外に出て、市の東側に広がるオリーブ山に到着しました。

今回と同じ部分の話は「マルコ」と「ルカ」に見られます。「マルコ」はMark 14:32-42(マルコの福音書第14章第32節~第42節)です。

「32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」 33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」 35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。41 イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。42 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」([新改訳])。

「ルカ」はLuke 22:39-46(ルカの福音書第22章第39節~第46節)です。

「39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」([新改訳])。

いつものように「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の式にあてはめると、この部分がほぼ「マルコ」から採用されていることがわかります。

イエスさまの一行はエルサレムに上ったときには市の東側にあるオリーブ山の中で宿営していたようで、そこに「ゲッセマネ(Gethsemane)」と呼ばれる園があったようです。イエスさまの一行がここに到着すると、イエスさまは側近のペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて他の弟子たちから離れます。

イエスさまと三人だけで他に誰もいなくなるとイエスさまは苦悶の表情を浮かべて苦しみ始めます。イエスさまは「私の魂は深い悲しみに押しつぶされて死にそうです。」と正直な気持ちを打ち明け、「ここにいて私といっしょに見張っていなさい。」の言葉を残して三人の側近から離れて森の少し奥へと入っていきます。

イエスさまは地に顔を向けて腰をかがめて祈りました。マルコには「地面にひれ伏し」て祈ったと書かれています。イエスさまは神さまに、もし可能ならばこの苦しみの杯を私から取り去ってくださいと、自分の気持ちを正直にそのまま伝えます。つまりイエスさまは十字架がいやなのです。サンヘドリンに捕らえられ、ローマ軍に引き渡され、むち打ちの刑を受け、最後には十字架にかけられて殺されることが嫌なのです。可能ならばこの苦しみをなしで済ませなることはできないものでしょうか、と神さまにお祈りしているのです。

ローマ帝国軍によるむち打ちや十字架がどれほど残酷な刑であるかは、これから読み進んで行くうちにわかります。それはもう想像を絶する苦しみです。しかしイエスさまが「苦しみの杯」と呼んでいるのは、実は十字架刑の肉体的な苦しみのことではなくて自分が人間の身代わりになって死ぬことについてなのです。

私たち人間は誰ひとりとして神さまの期待に添うことができず、神さまをガッカリさせながら生きています。結果として私たちは神さまの怒りを買っています。神さまは私たち人間の有り様について激しく怒っているのです。一方のイエスさまは神さまの元から送り出された神さまの愛するひとり息子です。人の姿をとって地上に立った神さまです。イエスさまは神さまの意志をなすことだけを考えて生きてこられた方で、つまり神さまを何よりも大切に思い、神さまを一度もガッカリさせたことがなく、常に神さまとの関係を100%保っている方なのです。

そういうイエスさまにとって、自分が人間の身代わりとなり、あろうことか最愛の神さまからの怒りを突きつけられ、その結果極刑に処されることはどれほどの苦しみでしょうか。たとえばだれか自分が本当に心から愛する人の存在を思い描けるでしょうか。自分はその人が心の底から大好きで、その人のことだけを考えて生きているのです。その人がいることが自分のすべてなのです。ところがある日、自分は、誰か自分とはまったく関係のない他の人の身代わりになってその人の罪を全部背負い、自分が死刑になる道を選択するのです。結果として自分は最愛の人に嫌悪され、怒りを買い、その大好きな人との関係を永遠に絶たれて、その人の元から追放されてしまうのです。ありえません。生きることのすべて、生きることの意味を全部喪失してしまう、そういう出来事がイエスさまを待ち受けているのです。

イエスさまはこれがいやなのです。そしてイエスさまは神さまに「いやだ」と素直に告げています。だから私たちも神さまにお祈りするときには強がりや遠慮をする必要はないのです。神さまにかっこ悪いことを言うことは信仰が薄いことの表れのように考えがちですが、怖いとか、つらいとか、苦しいとか、何とかならないだろうかとか、どうか助けてもらえないだろうかとか、そういう正直な自分の気持ちを神さまにそのままぶつけて良いのです。自分の直面している苦難はイエスさまの十字架に比べたら何でもないはずだとか、こんなつまらないことはいちいち神さまに言うべきではないなどと考える必要はないのです。

神さまは私たちの心をご覧になります。だからお祈りの中で私たちが何を言わないようにして、何を口に出してお祈りしているか、神さまはすべてをご存じなのです。宇宙を創造し時間を超越する全知全能の神さまにとって、私たち人間の悩みや苦しみはどんなものだって些細でちっぽけなはずです。遠慮をしていたら何も言えないことになってしまいます。

また逆に神さまに相談することなく、私たち自身の力で苦しみや悲しみを克服して見せても神さまはお喜びになりません。人間は往々にしてそれをプライド化して高慢になっていきます。創造主である神さまを心に留めることを忘れてはいけないのです。すべてを正直に神さまに打ち明け、神さまの恩恵に心から感謝し、神さまの庇護を信じて、自分が正しいと思うとおりにではなく、ひたすら神さまの目に正しく映ることだけを求めて誠実に努力させていただく、そういう姿勢が求められているのです。

イエスさまは第39節で、「私の父よ。もし可能ならばこの苦しみの杯を私から取り去ってください。」と言った後で「しかし私はあなたの意志がなされることを望みます。私の意志ではなく。」と続けています。宇宙で唯一、いつも決して変わることなく「善」であり「誠」である神さまに間違いはありません。私たち人間が自分の利害や目先の判断で考える正しさではなく、神さまの意志が遂行されることが何よりも大切なのです。イエスさまは苦しみの杯がつらくて、できるなら避けて済ませたいのだと正直に打ち明けた後で、でも自分の判断ではなく、神さまの意志が遂行されることが何よりも大切であり、その実現を望む、と宣言します。

イエスさまが三人の弟子のところへ戻ってみると、「ここにいて私といっしょに見張っていなさい。」と残してきた弟子たちは眠っています。イエスさまはそんな弟子たちに「見張って祈りなさい。誘惑に負けないように。なぜなら心が望んでいても肉体は弱いからです。」と告げます。

イエスさまに言われたことを守りたいと思い、注意を怠らずに監視をしてお祈りを捧げたいと思っても、眠りを欲する肉体には逆らえません。「心」が思っているようには肉体は動かないのです。口でどれほどのことを言っても、人間は困難に直面すると、自分の肉体が痛いこと苦しいことから逃げて楽な方へ楽な方へと進みたがります。それが人間の本質なのです。一事が万事です。私たちの心がどれほど望んでも、私たちは決して神さまの目に満足するように行動することはできず、神さまをガッカリさせてしまうのです。だから私たちは神さまに頼らなければいけないのです。だから私たちには救世主イエスさまが必要なのです。

第46節、イエスさまは「立ちなさい。行きましょう。見なさい。私を裏切る者が到着しました。」と告げます。いよいよイエスさまを逮捕する一軍が、イエスさま一行のいるオリーブ山の宿営地へ到着したのです。






english1982 at 19:00│マタイの福音書 
マタイの福音書第26章第47節~第56節:イエスさまが裏切られ逮捕されるマタイの福音書第26章第31節~第35節:イエスさまがペテロの否定を予告する