マタイの福音書第26章第36節~第46節:イエスさまがゲッセマネで祈るマタイの福音書第26章第14節~第30節:ユダがイエスさまを裏切ることに合意する、最後の晩餐

2015年12月06日

マタイの福音書第26章第31節~第35節:イエスさまがペテロの否定を予告する

第26章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Predicts Peter’s Denial

イエスさまがペテロの否定を予告する


31 On the way, Jesus told them, “Tonight all of you will desert me. For the Scriptures say, ‘God will strike the Shepherd, and the sheep of the flock will be scattered.’

31 途中、イエスさまは弟子たちに話しました。「今夜、あなた方全員が私を見捨てるのです。なぜなら聖書に『神さまは羊飼いをたたき、羊の群れは散り散りにされる』と書いてあるからです。

32 But after I have been raised from the dead, I will go ahead of you to Galilee and meet you there.”

32 ですが私が死者の中からよみがえらされたら、私はあなた方より先にガリラヤへ行き、そこであなた方に会うのです。」

33 Peter declared, “Even if everyone else deserts you, I will never desert you.”

33 ペテロがはっきりと言いました。「たとえほかの全員があなたを見捨てても、私は決してあなたを見捨てません。」

34 Jesus replied, “I tell you the truth, Peter -- this very night, before the rooster crows, you will deny three times that you even know me.”

34 イエスさまが答えました。「ペテロよ、あなたに本当のことを言います。今夜、おんどりが鳴く前に、あなたは三度、私を知っていることさえ否定するのです。」

35 “No!” Peter insisted. “Even if I have to die with you, I will never deny you!” And all the other disciples vowed the same.

35 ペテロは言い張りました。「まさか。もし私があなたと一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを否定することはありません。」 そしてほかの弟子たちも全員が同じことを誓いました。




ミニミニ解説

マタイの第26章です。

イエスさまの一行は過越の晩餐を終えるとエルサレム市内の家を後にして、市の南の城門から城壁の外に出て市の東側に広がるオリーブ山へと向かいます。

今回と同じ部分の話は「マルコ」と「ルカ」に見られます。「マルコ」はMark 14:27-31(マルコの福音書第14章第27節~第31節)です。

「27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」 29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」 30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」 31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」([新改訳])。

「ルカ」はLuke 22:31-34(ルカの福音書第22章第31節~第34節)です。「31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」」([新改訳])。

いつものように「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の式にあてはめると、この部分がほぼ「マルコ」から採用されていることがわかります。

エルサレム市内の家で過越の食事を終えたイエスさまと弟子たちは、市の南部の城門から城壁の外に出て市の東側に広がるオリーブ山へ向かって歩いて行きます。イエスさまの一行はエルサレムではいつもオリーブ山で宿営していました。

その途中でイエスさまが弟子たちに言います。「今夜、あなた方全員が私を見捨てるのです。なぜなら聖書に『神さまは羊飼いをたたき、羊の群れは散り散りにされる』と書いてあるからです。」

過越の食事の席では「あなた方のうちひとりが私を裏切ります。」とのショッキングな発言が飛び出し、イエスさまは今度は「あなた方全員が私を見捨てるのです。」と言います。イエスさまがイスラエルの王となることを確信している弟子たちは、イエスさまの発言にかなり当惑していることでしょう。

イエスさまはその根拠が聖書に書いてあると言いました。イエスさまの引用はZechariah 13:7(ゼカリヤ書第13章第7節)からです。「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。-- 万軍の主の御告げ -- 牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」([新改訳])。

ゼカリヤ書の第13章は「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」([新改訳])の言葉から始まり、「その日」に起こる出来事を予告する預言になっています。引用箇所である第7節の後には「全地の三分の二が死に絶える」などの恐ろしい出来事が予告されているのですが、その前に起こるのが牧者が打ち殺されて牧者に従っていた羊が散り散りにされる出来事です。つまり羊飼いであるイエスさまが叩かれて、イエスさまに従ってきた羊である弟子たちが散り散りにされるのは聖書のこの部分の実現だと言うのです。

イエスさまは第32節で「ですが私が死者の中からよみがえらされたら、私はあなた方より先にガリラヤへ行き、そこであなた方に会うのです。」と告げます。自分は逮捕され、弟子たちは一度散り散りになるが、それは一過性のことであり、イエスさまは死からよみがえってガリラヤで再び弟子たちと合流するのだ、と言うのです。が、ペテロの耳にはその部分は聞こえません。

イエスさまは「マタイ」の中ではここまでに三度、自分が祭司長、律法学者、あるいは異邦人に引き渡されて殺されるが、その三日後によみがえると告げて来ています。最初はMatthew 16:21(マタイの福音書第16章第21節)「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」([新改訳])。次がMatthew 17:22-23(マタイの福音書第17章第22節~第23節)「22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。」([新改訳])。三度目はMatthew 20:18-19(マタイの福音書第20章第18節~第19節)「18 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」([新改訳])。だんだんと描写が詳しくなっていきまた。

ペテロの耳にはイエスさまの死の予告の言葉は聞こえません。聞きたくないことは耳に入らないのでしょうか。ただ「今夜、あなた方全員が私を見捨てるのです。」の部分に反応して、第33節で「たとえほかの全員があなたを見捨てても、私は決してあなたを見捨てません。」と宣言します。「たとえほかの全員があなたを見捨てても」とわざわざ付け加えるあたりは、来るべきイエスさまのイスラエル王国では自分が最も重要なポストを占めるのだ、自分がイエスさまの弟子の中ではナンバーワンなのだと意識しているのだと思います。

そしてペテロは「私は決してあなたを見捨てません。」と言い切ります。私はペテロのこの気持ちはとてもよくわかります。私たちは実際の局面になればできもしないことを、何の後ろ盾もなく「できる」と言ってしまいます。そこには何の悪気もなくて自分自身、本当にできると信じて言っているのです。ところが実際にその場面になると、恐怖や緊張やプライドが邪魔をして、どこからか「臆病」や「弱気」が引きずり出されて来て、「逃げたい。逃げたい。逃げたい。」とその気持ちを育てて、結局は自分がこうするべきと信じる道から逃げ出してしまうのです。

どんな例だって良いのです。わかりやすい例で言えば混んだ電車で座っているときに目の前に老人や妊婦が立ったら自分は必ず席を譲ろうと心に決めていることについてでもいいし、ずっと好きだった異性に自分の気持ちを打ち明けようと決めたときでもいいのです。自分ではそうしようと決心したつもりなのに、実際にそういう場面になるとそれができない。そしてたとえそれが最終的にできたのだとしても、それは勇気を奮い起こし、「やるんだ。やるんだ。やるんだ。やるんだ。」と自分に何度も言い聞かせて、最後にエイヤっと勢いをつけて行動に移した結果なのです。

思わず逃げ出したくなってしまう局面は仕事上でも、対人関係でも次々と自分に襲いかかってきます。そして逃げ出そう、今回は先延ばししようと考える自分を見つけるたびに、あぁ、自分はなんて弱い人間なんだろう、と自己嫌悪、自己卑下の状態に陥ります。これは「本当の自分の心」や「自分の正体」がどうなっているかが、きちんと理解できていない状態なのだと思います。逆に言うと、そんな自分の「正体」までもを含めて、すべてをコントロールできる人間なんて、一人もいないのではないかと思うのです。

しかし神さまは私たち人間の「表面」も「正体」も、すべてを見ていらっしゃるのです。ペテロや私たちのたどる間違いが手に取るようにわかるのです。そしてそんなペテロや私たちのすべてを愛おしく思い、愛し、受け入れてくださいます。だから私たちは弱い自分を見つけてガッカリするかわりに、あるいは自分の心から「弱さ」を追い出すための精神修行を始める代わりに、こんな愚かな自分にも救いの手を差し伸べてくださる全知全能の神さまを知り、褒め称え、賛美し、心の底から感謝するところからスタートするべきだと思うのです。

第34節でイエスさまはペテロに「今夜、おんどりが鳴く前に、あなたは三度、私を知っていることさえ否定するのです。」と告げますが、ペテロはこれをきっぱりと否定します。






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