マタイの福音書第26章第14節~第30節:ユダがイエスさまを裏切ることに合意する、最後の晩餐マタイの福音書:第26章

2015年12月06日

マタイの福音書第26章第1節~第13節:イエスさまを殺す計画、イエスさまがベタニヤで油を注がれる

第26章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Plot to Kill Jesus

イエスさまを殺す計画


1 When Jesus had finished saying all these things, he said to his disciples,

1 イエスさまは、これらの話をすべて話し終えると弟子たちに言いました。

2 “As you know, Passover begins in two days, and the Son of Man will be handed over to be crucified.”

2 「あなた方が知っているとおり、過越の祭りがあと二日で始まります。そして人の子は十字架刑にかけられるために引き渡されます。」

3 At that same time the leading priests and elders were meeting at the residence of Caiaphas, the high priest,

3 同じころ、祭司長たちと長老たちが大祭司カヤパの屋敷で会合を開き、

4 plotting how to capture Jesus secretly and kill him.

4 どうやってイエスさまを秘密裏に捕らえて殺せるかを相談していました。

5 “But not during the Passover celebration,” they agreed, “or the people may riot.”

5 「だが過越の祭りの間はいけない。さもないと民衆が暴動を起こすかも知れないから。」と彼らは合意しました。



Jesus Anointed at Bethany

イエスさまがベタニヤで油を注がれる


6 Meanwhile, Jesus was in Bethany at the home of Simon, a man who had previously had leprosy.

6 さて、イエスさまはベタニヤで以前ハンセン病にかかっていたシモンの家に滞在していました。

7 While he was eating, a woman came in with a beautiful alabaster jar of expensive perfume and poured it over his head.

7 イエスさまが食事をしていると、女性がひとり、高価な香油の入った石膏の壺をもって入ってきて、それをイエスさまの頭の上に注ぎました。

8 The disciples were indignant when they saw this. “What a waste!” they said.

8 弟子たちはこれを見て憤慨しました。「なんてもったいない!」と弟子たちは言いました。

9 “It could have been sold for a high price and the money given to the poor.”

9 「高額で売って、お金を貧しい人たちにあげることができたのに。」

10 But Jesus, aware of this, replied, “Why criticize this woman for doing such a good thing to me?

10 しかしイエスさまはこのことを知って答えました。「この女性は私に素晴らしいことをしてくれたのに、どうして批判するのですか。

11 You will always have the poor among you, but you will not always have me.

11 あなた方の中にはいつも貧しい人たちがいます。ですが私はいつもあなた方と一緒にはいません。

12 She has poured this perfume on me to prepare my body for burial.

12 この女性は埋葬に備えて私の身体の準備をするために私に香油を注いでくれたのです。

13 I tell you the truth, wherever the Good News is preached throughout the world, this woman’s deed will be remembered and discussed.”

13 あなた方に本当のことを言います。世界中で良い知らせが宣べ伝えられる場所ではどこででも、この女性の行動が思い出されて話されることでしょう。」




ミニミニ解説

マタイの第26章です。

第24章と第25章はセットになっていて、イエスさまによる「未来の予告」の話(第24章)と、それを説明するたとえ話(第25章)になっていました。第26章からはいよいよイエスさまの十字架へ向けて事態が動き始めます。

今回はイエスさまがベタニヤでひとりの女性から香油を注がれるという話ですが、この話は四つのすべての福音書に見つかります。ところが描かれ方が少しずつ異なるのです。どのように異なるかを見る前に、まずは第26章の導入部、今回の第1節~第5節を見てみましょう。

この部分については類似の記述がマルコに見つかります。Mark 14:1-2(マルコの福音書第14章第1節~第2節)です。

「1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。」([新改訳])。

「過越(すぎこし)の祭り」はユダヤ暦の第一の月(私たちの暦で3~4月頃)の14日に毎年行われる祭事です。これは旧約聖書の「Exodus(出エジプト記)」に書かれている「過越」という出来事を記念したイベントです。ユダヤ人はかつてエジプトで奴隷状態にあったのですが(イエスさまの時代から1500年も前の話です)、預言者モーゼをリーダーにして脱出を実現します。このとき神さまはエジプト人に対して10の厄災を起こすのですが、その最後の厄災と言うのが、神さまがエジプトの上空を飛んで、そのときにエジプト中の家の第一子を殺害するという恐ろしい厄災でした。ところがこのときユダヤ人にだけは厄災を回避する方法があらかじめ伝えられていました。その方法とは殺した「羊の血」を戸口に塗ることで、神さまはこの血を目印にしてユダヤ人の家には危害を加えずに通過したのです。つまり神さまはユダヤ人の家の上を「過ぎ越した」ということになります。これが「過越」です。

ところで聖書に書かれているイエスさまの十字架の意味ですが、それは私たち人間の力ではどんなことをしても支払うことのできない、私たち人間の神さまに対する裏切りの債務が、イエスさまの死によって、あるいはイエスさまの流した血によって帳消しにされる、完済されるということなのです。神さまはこれを一方的に私たちに与えてくださるので、人間にとってこれほど都合の良い話はなく、だからイエスさまについての話は「Good News(良い知らせ)」と呼ばれます。古語英語では「god spell」(「god」は「良い」、「spell」が「知らせ」の意味)と表記され、ここから「gospel(ゴスペル)」という言葉が生まれています。日本ではこれに「福音(ふくいん)」と言う言葉があてられています。

聖書では似たようなイベントが繰り返し発生し、前に起こった出来事を後から起こる出来事の「型」「予型(よけい)」などと呼ぶことは何度か書いてきていますが、福音書のクライマックスである十字架のイベントが、過越の祭りに合わせて起こるというのも、かなり象徴的だと思います。つまりユダヤ人がエジプトから脱出したときには神さまがヒツジの血を目印にしてユダヤ人の家を過ぎ越したように、「終わりの日」に起こる最後の裁きの時には、 神さまは聖書の福音を受け入れたクリスチャンの上を、イエスさまが十字架で流した血を目印にして厄災を与えることなく過ぎ越してくださるのです。イエスさまは福音を信じる人が厄災を避けられるように、いけにえとして殺される羊の役なのです。

場面は、その過越の祭りの二日前です。祭司長や長老たちといったユダヤ人のリーダーは大祭司の屋敷に集まり、イエスさまを秘密裏に捕らえて殺害する計画を立てていたのです。人々の支持を集め、公然と人々の前で指導者層を批判するイエスさまが彼らには邪魔なのです。ただし過越の祭りの間はいけない、さもないと民衆が暴動を起こすかも知れないから、ということになりました。暴動が起これば鎮圧のためにローマ帝国軍が投入されて、ユダヤ人の指導者層は信頼を失い、限定的ながらも与えられていた自治権が取り上げられてしまうかも知れないからです。彼らが享受してきた既得権益がすべて失われて厳しいローマ帝国の支配に直接さらされることになります。すべてが水の泡です。彼らはイエスさまを殺害するためのタイミングを探しています。

さて、イエスさまがベタニヤでひとりの女性から香油を注がれるという話が、他の福音書にはどのように書かれているかを順番に見てみましょう。ベタニヤの町はエルサレムのすぐ近くにあります。エルサレムの東側に広がるオリーブ山を巻くように東へ延びる道を行くと2~3キロの位置にあります。


下の地図はGoogle Mapからです。

Jerusalem-2-Bethany


まずマルコです。Mark 14:3-9(マルコの福音書第14章第3節~第9節)です。

「3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。 6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」([新改訳])。

これはマタイとほぼ同じです。香油が「ナルド油」と具体的に書かれていたり、金額が「三百デナリ以上」とやはり具体的に書かれているだけです。また憤慨したのが弟子たちではなくて、「何人かの者」になっています。

続いてヨハネです。John 12:1-8(ヨハネの福音書第12章第1節~第8節)です。

「1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」([新改訳])。

これはだいぶ違います。まず場所は同じベタニヤでも、シモンの家ではなくて、マルタ、マリヤ、ラザロの家になっています。しかもイエスさまに香油を注いだのは名前が明かされなかった「ひとりの女性」ではなくマリヤです。しかも香油はイエスさまの頭ではなく、イエスさまの足に塗られています。憤慨したのはイエスさまを裏切ったユダで、会計係のユダは仲間の金を盗んでいたと書かれています。

最後はルカです。Luke 7:36-50(ルカの福音書第7章第36節~第50節)です。

「36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」 43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」 48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」 50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」([新改訳])。

どうでしょうか。まったく違います。最大の違いはこの話がイエスさまの十字架の直前ではなく、イエスさまがまだガリラヤ地方にいたときに起こっているということです。シモンは名前こそ同じですが、以前にハンセン病を患っていた男ではなく、ファリサイ派の一人になっています。香油を塗るのは「ひとりの罪深い女」で、これはファリサイ派が嫌っていることからおそらく娼婦のことではないかと思われます。そしてここでも香油が塗られるのはイエスさまの足です。

マタイを読むにあたっては、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」という公式を使ってきていますが、今回同じ話が四つの福音書に登場している様子から推察できるのは、まず「マタイ」の今回の部分は「マルコ」を下敷きにして、ほぼ「マルコ」に忠実に書かれていると言うこと。そして「イエスさまが油を注がれる話」は、いずれかの形で信者たちの間に伝えられた物語のひとつとして確実に存在し、それを福音書に取りこんだパターンが「マルコ」「ヨハネ」「ルカ」の三系統あったということです。きっとイエスさまに関する伝承は「Q資料」とか「独自の資料」などと言う言葉でひとくくりにできるような状況ではなかったのでしょう。

なお「油を注ぐ」という言葉の意味は「anoint」という単語を辞書で引いてみるとわかります。たとえば研究社の「新英和中辞典」(第6版)には「1.(聖別のしるしとして)〈人・頭などに〉聖油を塗る; 〈国王・司祭などを〉聖別する、2. 〈人を〉聖別して〈国王などに〉選ぶ」などと書かれていて、もともとはラテン語で「~に油を塗る」という意味だそうです。旧約聖書にもたびたび登場しますが、当時はある人(国王などに選ぶ特別な人)を「聖なる人」として別格に扱う儀式の中でその人の頭に油を塗ったのです。

イエスさまは貧しい人たちに施しをするよりも、自分の頭に油を塗ることを優先しなさいと説きました。「貧しい人たちに施しをする」のは良い行い、「善行」です。一方、イエスさまの頭に油を注ぐのはイエスさまを王として褒め称えることです。つまり「善行」と「イエスさまの賛美」のどちらを優先して行うべきか、という話になります。

そもそも私たちはどうして「善行」を行うのでしょうか。上にも書きましたように私たち人間はどれほどの「善行」を重ねても天国に入れてもらうことは叶いません。私たちは神さまの期待にことごとく背いて生きて来ているので、神さまの定めた基準を満たして天国に入れていただくことはできないのです。清く神聖な天国に入れていただくには、私たちはあまりにも汚(けが)れているのです。そんな私たちを神さまが一方的に許してくださるイベントがイエスさまの十字架です。私たちがどうすることもできないで、このまま外の暗闇で永遠の炎に焼かれるしかないような状態でいる間に、神さまは地上に一人息子のイエスさまを送り、そのイエスさまを残虐な十字架刑に処して殺すことで、私たちの負債をわざわざ帳消しにしてくださるのです。

私たち人間にとっては天国に入るチャンスがまったくのゼロだったところを、天国へ入る手段が神さまの側から提供されたのですから、これはまったくあり得ないこと、本当にありがたいことです。私たちは神さまに感謝し、素晴らしい神さまを全力で褒め称えます。それから自分のこれまでの行いを反省し、これからは神さまの目に少しでも正しく映ることができるようにと神さまの意図を探し求めます。その過程では「善行」を行って少しでも神さまに喜んでいただくことを指向すべきなのです。この順番で考えれば、まず私たちがしなければいけないのはイエスさまを賛美して褒め称えることであり、それからお礼の気持ちをこめて「善行」を行うべきなのではないでしょうか。しかも私たちの行う「善行」は、やって当たり前のことであり、自慢したり、賛美したりすることではないのです。すべての栄光は神さまにあり、褒め称えるべきは神さまだけなのです。






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