マタイの福音書:第26章マタイの福音書第25章第14節~第30節:三人のしもべのたとえ話

2015年12月07日

マタイの福音書第25章第31節~第46節:最後の裁き

第25章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Final Judgment

最後の裁き


31 “But when the Son of Man comes in his glory, and all the angels with him, then he will sit upon his glorious throne.

31 ですが人の子がすべての天使と共に、栄光に輝いてやって来るとき、人の子は栄光の王座に着きます。

32 All the nations will be gathered in his presence, and he will separate the people as a shepherd separates the sheep from the goats.

32 すべての国の国民が人の子の前に集められます。そして人の子は、ちょうど羊飼いがヤギの中から羊を選別するように人々を分けます。

33 He will place the sheep at his right hand and the goats at his left.

33 人の子は羊を自分の右側に、ヤギを左側に置きます。

34 “Then the King will say to those on his right, ‘Come, you who are blessed by my Father, inherit the Kingdom prepared for you from the creation of the world.

34 それから王は右側にいる人たちに言います。「来なさい。私の父に祝福された人たちよ。この世界の創造のときからあなた方のために用意された王国を受け継ぎなさい。

35 For I was hungry, and you fed me. I was thirsty, and you gave me a drink. I was a stranger, and you invited me into your home.

35 なぜなら私は空腹でしたが、あなた方は私に食べ物を与えてくれました。私はのどが渇いていましたが、あなた方は私に飲み物をくれました。私は不案内でしたが、あなた方は私を家に招いてくれました。

36 I was naked, and you gave me clothing. I was sick, and you cared for me. I was in prison, and you visited me.’

36 私は裸でしたが、あなた方は私に着る物をくれました。私は病気でしたが、あなた方は私の世話をしてくれました。私は牢に入れられましたが、あなた方は私をたずねてくれました。」

37 “Then these righteous ones will reply, ‘Lord, when did we ever see you hungry and feed you? Or thirsty and give you something to drink?

37 それからその正しい人たちが答えました。「主よ、私たちはいつあなたが空腹なのを見て食べ物を差し上げたでしょうか。あるいはのどが渇いているのを見て、飲み物を差し上げたでしょうか。

38 Or a stranger and show you hospitality? Or naked and give you clothing?

38 あるいはいつあなたが不案内でいるのを見て、おもてなしをしたでしょうか。あるいはあなたが裸なのを見て、着る物を差し上げたでしょうか。

39 When did we ever see you sick or in prison and visit you?’

39 私たちはいつあなたが病気であったり、牢に入れられているのを見て、あなたを訪ねたでしょうか。」

40 “And the King will say, ‘I tell you the truth, when you did it to one of the least of these my brothers and sisters, you were doing it to me!’

40 王は言います。「あなた方に本当のことを言います。あなた方が私の兄弟や姉妹たちの最も小さい者のひとりにしたことは、あなた方は私にしていたのです。」

41 “Then the King will turn to those on the left and say, ‘Away with you, you cursed ones, into the eternal fire prepared for the devil and his demons.

41 それから王は左側にいる人たちの方を向いて言います。「立ち去りなさい。呪われた者たち。魔王と悪魔たちのために用意された永遠の火の中に入りなさい。

42 For I was hungry, and you didn’t feed me. I was thirsty, and you didn’t give me a drink.

42 なぜなら私は空腹だったが、あなた方は私に食べ物を与えてくれなかった。私はのどが渇いていたが、あなた方は私に飲み物をくれなかった。

43 I was a stranger, and you didn’t invite me into your home. I was naked, and you didn’t give me clothing. I was sick and in prison, and you didn’t visit me.’

43 私は不案内だったが、あなた方は私を家に招いてくれなかった。私は裸だったが、あなた方は私に着る物をくれなかった。私は病気で牢に入れられていたが、あなた方は私を訪ねてくれなかった。」

44 “Then they will reply, ‘Lord, when did we ever see you hungry or thirsty or a stranger or naked or sick or in prison, and not help you?’

44 それから彼らは答えます。「主よ、私たちはいつあなたが空腹であったり、のどが渇いていたり、不案内であったり、裸であったり、病気であったり、牢に入れられているのを見て、あなたを助けなかったのでしょうか。」

45 “And he will answer, ‘I tell you the truth, when you refused to help the least of these my brothers and sisters, you were refusing to help me.’

45 そして王は答えます。「あなた方に本当のことを言います。あなた方が私の兄弟や姉妹たちの最も小さい者を助けることを拒んだとき、あなた方は私を助けるのを拒んでいたのです。」

46 “And they will go away into eternal punishment, but the righteous will go into eternal life.”

46 こうして彼らは永遠の刑罰の中へ立ち去るのです。しかし正しい人たちは永遠のいのちに入ります。」




ミニミニ解説

マタイの第25章です。

第25章は第24章とセットになっています。第24章でイエスさまが語った「未来の予告」の話はイエスさまが地上に戻る「終わりの日」がいつ来るかは誰にもわからないのだから、決して油断するな、警戒を怠るなというメッセージで締めくくられました。第25章にはそれを説明するたとえ話が三つ収録されています。今回は「十人の付き添いの女性のたとえ話」、「三人のしもべのたとえ話」に続く三つ目のたとえ話、「最後の裁き」です。このたとえ話はマタイだけに登場します。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはマタイの「独自の資料」からの採用ということになります。

これはイエスさまが天から戻られて行う「最後の裁き」の様子を描いたたとえ話です。いつ来るかわからない「終わりの日」に何が起こるかを伝えています。物語は第31節で「Son of Man」(人の子)の話として語り始められ、その後の文章はこれを「He」(彼)で受けますが、第34節からはこれが「the King」(王)に代わります。罪人として十字架にかけられたイエスさまは、天から戻られるときには王座に着く王として帰ってくる、ということです。

「終わりの日」には王座に着いたイエスさまの前に、すべての国の国民が集められます。「国民」に用いられている単語は「nation」です。研究社の新英和中辞典(第6版)を引くと、「country」のところに次のような「類語」が書かれていて、「country」「nation」「state」の単語のニュアンスがわかります。「country は『国』の意味を表わす最も普通の語で国土を意味する; nation は国土よりその国民に重点を置く語; state は法律的・理論的な意味での統一体としての国家」。

イエスさまの前に集められたすべての国の国民はイエスさまの前で右と左に分けられます。つまり「正しい」とされる人たちは、このたとえ話では「羊」にたとえられていてイエスさまの右側に集められ、「呪われた」とされる人たちは「ヤギ」にたとえられてイエスさまの左側に集められます。そして正しい人たちは王国を受け継ぎ、呪われた人たちは永遠の火の中へ放り込まれます。これが最後の裁きです。

私は「羊(ヒツジ)」と「ヤギ」の違いをほとんど知りません。少しだけ調べた結果を書いておきます。研究社の新英和中辞典(第6版)を引くと、「sheep」(羊)の「解説」として「柔順・臆病(おくびょう)者のイメージがあり, 羊飼いと羊の関係は支配する者と支配される者, 牧師と信者の関係を象徴する」と書かれています。一方、「goat」(ヤギ)の「解説」としては、「ヤギは繁殖力が旺盛なので好色のイメージがある; 罪や悪との連想が古くからあり, 悪魔はよくヤギの姿で現われる」と書かれています。

wikipediaで「ヒツジ」を調べると長い説明が読めますが、その中で気になったのは以下のような部分です。「ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受ける。また、先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素であった。」 「ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである。その次に、追い詰められたヒツジが突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇する。とくに新生児を連れた雌にみられる。ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しい。」

同じようにwikipediaで「ヤギ」を調べると次のような記述が見つかりました。「ヤギは粗食によく耐え、険しい地形も苦としない。そのような強靭な性質から、山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとって貴重な家畜となっている。」 「ユーラシア内陸部の遊牧民にとっては、ヒツジ、ウシ、ウマ、ラクダとともに5種の家畜(五畜)のひとつであり、特にヒツジと比べると乾燥に強いため、西アジアの乾燥地帯では重要な家畜であり、その毛がテントの布地などに使われる。」 「ヤギの乳質はウシに近く、乳量はヒツジよりも多い。」 「群れを作って移動するヤギは遊牧民の生活にも都合が良く、肉や毛皮、乳を得ることを目的として家畜化された結果、分布域を広げていったと考えられる。一方、農耕文明においては飼育されていたものの遊牧民ほどは重宝しなくなった。ヤギは農耕そのものには役に立たず、ヒツジの方が肉や毛皮が良質であり、また新たに家畜化されたウシの方が乳が多く農作業に適していたからである。」

家畜としては「ヤギ」の方がかなり強靱な動物のようですが、農耕文明では強靱であることよりも、肉や毛皮が良質の「羊」が好まれるようになったようです。聖書の中では「ヤギ」を罪や悪と結びつけ、「羊」を従順なしもべに結びつける記述が多数見つかりますが、どうしてそういうことになったのかはわかりません。wikipediaの「ヤギ」の下の方に少し解説が載っていますが、正しいかどうかわかりませんので、ここに引用することはやめておきます。

さて、あらゆる国民の中から「正しい」とされる人たちが選び出されて天国へ招かれる理由は、第40節に王であるイエスさまの言葉として書かれています。「あなた方に本当のことを言います。あなた方が私の兄弟や姉妹たちの最も小さい者のひとりにしたことは、あなた方は私にしていたのです。」 これがその理由です。それではここにある「私の兄弟や姉妹たちの最も小さい者」とは誰のことでしょうか。

「小さい」にあたる部分について英語では「least」という単語が用いられていて、これはご存じのように形容詞・副詞の「little」が比較級「less」、最上級「least」と活用します。これは「many」や「much」が「more」「most」と活用するのの反意の語です。では、いろいろな形容詞を否定的な方向に最上級にする「least」を冠された人たちとはいったい誰のことなのだろうと思います。

これは福音書の中でイエスさまが交流した人たちを思い浮かべると想像がつきます。イエスさまは福音書の中で共同体から隔離された皮膚病の患者であるとか、重病人であるとか、ローマ帝国の手先になって私欲を追求する徴税人であるとか、そういう社会から拒絶され、律法に基づくと「不浄」であり「汚(けが)れ」であるとされて、共同体から追放されたような人たちに手を差し伸べています。これが「私の兄弟や姉妹たちの最も小さい者」の意味ではないでしょうか。これらの人たちは往々にして空腹やのどの渇きに苦しみ、住む場所を追われ、着るものもなく、病気であったり投獄されたりしているのです。

イエスさまは「マタイ」の第22章でファリサイ派のひとりから律法の中でもっとも大切な掟は何かとたずねられて二つを回答しました。Matthew 22:37-40(マタイの福音書第22章第37節~第40節)です。「37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 38 これがたいせつな第一の戒めです。39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」([新改訳])。きっとここで第二の戒めの中に書かれている、「自分自身のように愛する隣人」が誰かを考えるとき、私たちはきっと私たちが一般的に使っている判断基準を使って区別をしてはいけないのです。イエスさまが手を差し伸べた人を見て当時の人々がショックを受けたように、私たちは私たちが想定していないような人たちを私たちの「隣人」として考えなければならないのかも知れません。

これで第25章は終了です。次回の第26章から、いよいよイエスさまの十字架に向けて事態が動き始めます。






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