マタイの福音書第25章第14節~第30節:三人のしもべのたとえ話マタイの福音書:第25章

2015年12月07日

マタイの福音書第25章第1節~第13節:十人の付き添いの女性のたとえ話

第25章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Ten Bridesmaids

十人の付き添いの女性のたとえ話


1 “Then the Kingdom of Heaven will be like ten bridesmaids who took their lamps and went to meet the bridegroom.

1 それで天の王国は、ランプを持って花婿を出迎えに出て行った十人の花嫁の付き添い女性のようです。

2 Five of them were foolish, and five were wise.

2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かったのです。

3 The five who were foolish didn’t take enough olive oil for their lamps,

3 愚かだった五人はランプのための油を十分に持っていきませんでした。

4 but the other five were wise enough to take along extra oil.

4 しかし残りの五人は賢くも余分の油を持って行きました。

5 When the bridegroom was delayed, they all became drowsy and fell asleep.

5 花婿が遅れると、みな眠くなって眠りに落ちました。

6 “At midnight they were roused by the shout, ‘Look, the bridegroom is coming! Come out and meet him!’

6 真夜中に女性たちは叫び声で起こされました。『見なさい。花婿が来ます。迎えに出なさい。』

7 “All the bridesmaids got up and prepared their lamps.

7 女性たちはみな起きてランプを準備しました。

8 Then the five foolish ones asked the others, ‘Please give us some of your oil because our lamps are going out.’

8 そして五人の愚かな女性たちが他の五人に頼みました。『どうかあなた方の油をいくらか私たちにください。私たちのランプは消えかけています。』

9 “But the others replied, ‘We don’t have enough for all of us. Go to a shop and buy some for yourselves.’

9 しかし残りの女性たちは答えました。『私たちは全員に十分な量は持っていません。お店に行って自分たちの分を買いなさい。』

10 “But while they were gone to buy oil, the bridegroom came. Then those who were ready went in with him to the marriage feast, and the door was locked.

10 しかし五人が油を買いに行っている間に花婿が来ました。そして準備のできていた女性たちは花婿とともに婚礼の祝宴に入って行き、戸に鍵がかけられました。

11 Later, when the other five bridesmaids returned, they stood outside, calling, ‘Lord! Lord! Open the door for us!’

11 あとで残りの五人の女性が戻って来ると、外に立って叫びました。「ご主人さま、ご主人さま。私たちに戸を開けてください。」

12 “But he called back, ‘Believe me, I don’t know you!’

12 しかし彼は答えて言いました。「本当のところ、私はあなた方を知りません。」

13 “So you, too, must keep watch! For you do not know the day or hour of my return.

13 だからあなた方も警戒していなさい。なぜならあなた方は私が戻る日や時間を知らないからです。




ミニミニ解説

マタイの第25章です。どうやら第25章は第24章とセットになっています。第24章はイエスさまによる「未来の予告」の話になっていました。話は西暦70年のエルサレム崩壊からスタートして、第15節から、この世の「終わりの日」に何が起こるかを語る「終末論(eschatology)」の様相が強まっていき、最後のところは「人の子」つまりイエスさまが地上に戻る「終わりの日」がいつ来るかは神さま以外には誰にもわからないのだから、決して油断するな、警戒を怠るなというメッセージで締めくくられました。

第24章の最後にはその意味を説明するイエスさま特有のたとえ話がひとつ書かれていました。主人が留守をまかせるしもべの話です。これに続く第25章にはたとえ話がさらに三つ収録されていて、そのどれもが「決して油断するな」「警戒を怠るな」「なぜならイエスさまはいつ地上に戻るかわからないから」というメッセージを説明しているのです。

今回の最初の話は「十人の付き添いの女性のたとえ話」です。このたとえ話はマタイだけに登場します。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはマタイの「独自の資料」からの採用ということになります。

類似のたとえ話がほかに存在しないわけではありません。たとえばLuke 12:35-38(ルカの福音書第12章第35節~第38節)です。「35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。」([新改訳])。

今回の最初の話では主人はルカと同様に「婚礼」に出かけていて「帰りが遅い」のです。そしてしもべが主人の帰りを待っています。当時のユダヤ人の婚礼は町をあげてのイベントで何日も続く大切なイベントであることは他でも書きました。「婚礼」に出かけた人がいつ戻るのかわからないのは、当時のユダヤ人にとってはきっと常識だったのです。今回の話では花嫁の付き添いをする若い娘が十人、花婿を迎えに行くという設定ですが、花婿の到着がやはり予想以上に遅れます。きっといろいろ、あちこちでたいそうなあいさつをしたり、あれこれと段取りを踏んだ準備のプロセスを経て、花婿はようやく花嫁を迎えに来るのでしょう。きっと花婿の到着が遅れるのも、そしてそれが夜中になってしまうのも当時のユダヤ人には常識なのです。

イエスさまが花婿にたとえられるのも、またクリスチャンが天から戻るイエスさまと合流する出来事が婚礼やその祝宴にたとえられるのも、ここに始まった話ではありません。たとえばMark 2:18-20(マルコの福音書第2章第18節~第20節)です。「18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」 19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」([新改訳])。ここではイエスさまが自分を花婿にたとえ、自分の弟子たちを花婿につき添う友だちにたとえて話をしています。

さて今回のたとえ話の解釈です。マタイの第13章の「種を蒔く農夫のたとえ話」のところでイエスさまから明らかにされたように、すべてのたとえ話には裏の意味があるのでした。ときにはイエスさまが裏の意味を解説してくれますが、このたとえ話のように裏の意味が解説されないたとえ話がほとんどで、そういう話の場合は無理がないように裏の意味を自分で考えなければなりません。

いつイエスさまが地上に戻るのかわからないのだから油断するな、という話の展開なのですから、到着が遅れている花婿とはイエスさまのことでしょう。イエスさま自身を花婿にたとえることも、ここだけに登場する特別な設定ではありません。

マタイの福音書が書かれたのが西暦70年のエルサレム陥落と、ユダヤ人の精神の支柱である寺院の破壊の頃なのだとすると、イエスさまが十字架死から復活して天に戻ってからすでに40年の月日が過ぎ去っていることになります。きっと当時のクリスチャンはイエスさまの「自分は必ず戻ってくる」という言葉の意味を、イエスさまがいますぐにでも戻ってくるという意味だと信じて迫害に耐えて待っていたのだと思うのです。

ところが40年経ってもイエスさまは戻らず、とうとうエルサレムはローマ帝国軍に包囲されて陥落し、突入してきたローマ兵によって寺院も粉々に破壊されて、誰にも入ることが許されない禁断の聖域に異邦人が土足で立ち入るという出来事と直面させられてしまいました。それでもイエスさまは戻らなかったのです。花婿の到着はすべてのクリスチャンの予想を越えて遅れているのです。クリスチャンの間には「イエスさまは本当に戻るのだろうか」という不安もわいてくるでしょう。福音書はそういうクリスチャンたちに向けるメッセージもかねて書かれているのです。

花婿の到着を待つ十人の女性は、イエスさまの到着を待っているのですから、クリスチャンのことでしょう。そしてそのうちの半数は愚かで半数は賢いのです。夜に花婿を迎えに出るときのために女性たちはランプを用意しています。花婿の到着が夜遅くになってしまうことはよくあることだったからです。「lamp」はそのまま私は「ランプ」と訳しましたが、ギリシャ語の語源は「たいまつ」の意味だそうで、イエスさまの逮捕の場面で夜更けのオリーブ山へイエスさまと弟子たちの宿営地へ向かう集団が手に持っていたのと同じように、当時の「lamp」は「たいまつ」と訳すのが正しいのかも知れません。ローマ帝国の時代を描く映画などに登場するので頭に思い描くことができるでしょうか、通常、この頃のたいまつは長い棒やさおなどの先端に松脂やオリーブ油など燃えやすいものに浸した布切れをきつく巻きつけたものです。布に染みこませた油分が燃えている間はよく炎が上がりますが、油が切れると消えてしまいます。

賢い五人の女性は「油」が切れないように予備の分まで用意していたのでした。実は聖書では「油」は聖霊の象徴なのです。この話でも「油」は他人に分けてあげることができない設定になっていて(実際の油なら少しは分けてあげられそうなもののなのに)、しかも油を用意していなかった女性たちは最後の最後に主人(=イエスさま)から「私はあなた方を知りません」と締め出されて、鍵のかけられた戸の向こう側にいるイエスさまのいる場所(=天国)へ入れてもらえないのです。つまりここでは「油」を持っている人と、持っていない人が明確に区別されているのです。

聖霊はイエスさまの十字架を境にして聖書の中での役割が変わります。イエスさまが十字架死から復活して天へ戻ったのと引き替えに、聖霊は天から訪れて、信者の一人一人の身体に宿って封印されるのです(そのときの様子は「Acts(使徒の働き)」の最初のところの書かれています)。これはイエスさまが予告したとおりの出来事なのでした。クリスチャンとはこの聖霊を身体に受けた人たち、つまり自分の身体の中に「油」を備えている人たちのことです。

注目に値するのはイエスさまを待っていた十人のうち、半数が締め出されてしまったということです。つまりこのたとえ話は「自分たちはイエスさまを待っている」と言っている人、つまり自分はクリスチャンだと言っている人の中には「油」を持っている人と持っていない人が混在しているとも言っているのです。そして誰が「油」を持っていて、誰が「油」を持っていないかは、最後にイエスさまから締め出されてしまう形で明らかになるのです。つまり最後の裁きです。締め出された五人の行き先は前回も登場した、泣き声と歯ぎしりの場所です。

他のたとえ話にも信者の仲間の中に紛れ込んでいる悪者が登場します。つまり一世紀の初期の教会は、ローマ帝国や保守派のユダヤ人など外部からの迫害ばかりでなく、教会内部で不適切な教義を説く派閥勢力にも対処していかなければならない状態だったのです。しかもこのたとえ話では半分の女性が油を持っていなかったのですから、そういう内部派閥の勢力はけっこう大きかったのだろうと想像できます。

次回は二つ目のたとえ話、主人が留守をまかせる三人のしもべの話です。






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