マタイの福音書:第25章マタイの福音書第24章第1節~第31節:イエスさまが未来を予告する

2015年12月08日

マタイの福音書第24章第32節~第51節:イエスさまが未来を予告する(続き)

第24章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


32 “Now learn a lesson from the fig tree. When its branches bud and its leaves begin to sprout, you know that summer is near.

32 さぁ、いちじくの木から学びなさい。枝が伸び始めて、葉が出て来ると、あなた方は夏が近いと知ります。

33 In the same way, when you see all these things, you can know his return is very near, right at the door.

33 同じように、あなた方がこれらのことのすべてを目にしたら、あなた方は人の子の帰りがとても近いと、もう戸口まで来ているとわかるのです。

34 I tell you the truth, this generation will not pass from the scene until all these things take place.

34 あなた方に本当のことを言います。これらのことすべてが起こるまでは、この世代は場面から過ぎ去ることはありません。

35 Heaven and earth will disappear, but my words will never disappear.

35 天と地は消滅します。しかし私のことばは決して消え去りません。

36 “However, no one knows the day or hour when these things will happen, not even the angels in heaven or the Son himself. Only the Father knows.

36 しかしながら、これらのことがいつ起こるのか、その日、その時を知るものはひとりもいません。天国の天使たちも、人の子も知らないのです。ただ父だけが知っています。

37 “When the Son of Man returns, it will be like it was in Noah’s day.

37 人の子が戻るときには、ノアの日のようになるからです。

38 In those days before the flood, the people were enjoying banquets and parties and weddings right up to the time Noah entered his boat.

38 洪水の前の日々は、ノアが箱舟に入るちょうどその時まで、人々は宴会をして、パーティーをして、婚礼をして楽しんでいました。

39 People didn’t realize what was going to happen until the flood came and swept them all away. That is the way it will be when the Son of Man comes.

39 洪水が来てすべてを押し流してしまうまで、人々は何が起こるのかを理解していなかったのです。人の子が来るときにはこのようになるのです。

40 “Two men will be working together in the field; one will be taken, the other left.

40 二人の男が畑で働いていると、ひとりは取られて、ひとりは残されます。

41 Two women will be grinding flour at the mill; one will be taken, the other left.

41 二人の女性が製粉所で粉をひいていると、ひとりは取られて、ひとりは残されます。

42 “So you, too, must keep watch! For you don’t know what day your Lord is coming.

42 だからあなた方も警戒していなければなりません。なぜならあなた方は主がいつ来るかを知らないからです。

43 Understand this: If a homeowner knew exactly when a burglar was coming, he would keep watch and not permit his house to be broken into.

43 このことを理解しなさい。もし家の主人が、どろぼうがいつ来るのかを正確に知っていたら、警備を怠らず、自分の家には押し入らせないでしょう。

44 You also must be ready all the time, for the Son of Man will come when least expected.

44 あなた方も常に準備できていなければならないのです。なぜなら人の子は一番予期していないときに来るのです。

45 “A faithful, sensible servant is one to whom the master can give the responsibility of managing his other household servants and feeding them.

45 誠実で分別のあるしもべに、主人は家の他のしもべたちの管理と食事の責任をゆだねることができるのです。

46 If the master returns and finds that the servant has done a good job, there will be a reward.

46 もし主人が帰って来て、そのしもべが良い仕事をしたのを見つけたら、褒美があるでしょう。

47 I tell you the truth, the master will put that servant in charge of all he owns.

47 あなた方に本当のことを言います。その主人はそのしもべに自分の全財産を任せるのです。

48 But what if the servant is evil and thinks, ‘My master won’t be back for a while,’

48 しかしもしそれが邪悪なしもべで、「主人はしばらく帰らないだろう」と考えて、

49 and he begins beating the other servants, partying, and getting drunk?

49 他のしもべを殴り、パーティを開いて、酔い始めるとどうでしょうか。

50 The master will return unannounced and unexpected,

50 主人は予告せずに不意に帰って来ます。

51 and he will cut the servant to pieces and assign him a place with the hypocrites. In that place there will be weeping and gnashing of teeth.

51 そして主人はそのしもべをずたずたに切り裂き、偽善者たちと同じ場所に送るでしょう。そこには泣き声と歯ぎしりがあるのです。




ミニミニ解説

マタイの第24章です。第24章は全体がイエスさまによる「未来の予告」の話になっています。

前回の第1節~第31節は、最初に西暦70年のエルサレム崩壊の様子を書いていたところから、第15節以降で様相が変わり、「終わりの日」に何が起こるかを語る「終末論(eschatology)」の雰囲気になっていました。今回はいよいよ「終わりの日」の予告といった感じになります。

今回の前半部分、第32節~第42節とほぼ同じ記述はマルコとルカに見つかります。マルコは前回の続きでMark 13:28-37(マルコの福音書第13章第28節~第37節)です。

「28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。{祈っていなさい。}その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」([新改訳])。

ルカはLuke 17:26-36(ルカの福音書第17章第26節~第36節)です。

「26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。32 ロトの妻を思い出しなさい。33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。34 あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。35 女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。36 {ふたりの男が畑にいると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。}」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは話の流れは引き続き「マルコ」からの採用と言うことがわかります。

マルコでは旅立つ主人がしもべたちに仕事を割り当てるたとえが用いられています。ルカの一部は前回の部分に組み込まれていました。また旧約聖書からの引用はマルコでは存在せず、マタイではノアの話だけ、ルカではこれに加えてロトの話が加わって引用されています。またマタイではひとりが取られてひとりが残される二人の男は畑で働いていましたが、ルカではこれが同じ寝台で寝ている二人の人となっていて、私はこういう微妙な違いがあるあたりにイエスさまの語録集である「Q資料」のリアルさを感じてしまいます。

前回は「終わりの日」や「人の子が来る日」には大きな苦難があり、それから太陽が暗くなったり月が光を放たなくなったり、さらには星が天から落ちて、宇宙の力が揺さぶられるそんな出来事があると語られていました。人々の関心はそれがいったいいつ起こるのかに向きますが、それについてはイエスさまは天使も自分さえも知らない、知っているのは父である神さまだけなので、私たちにできるのは警戒を怠らずに待つことだけだと言います。

まずイチジクの話は「予兆」の例になってます。人々はカレンダーがなくてもイチジクの木に象徴されるような自然の変化を見て季節の移り変わりを知ることができます。イエスさまは同じことを「終わりの日」にもあてはめなさい、と言うのです。イエスさまの予告した出来事や旧約聖書に書かれている預言が実現し始めるのを目にしたら、いよいよイエスさまの再来が近いと予期しなさい、と言うのです。

第34節でイエスさまは、「これらのことすべてが起こるまでは、この世代は場面から過ぎ去ることはありません。」と言います。これはどういう意味なのでしょうか。

天地創造から始まった聖書の壮大なストーリーは、救世主イエスさまの登場で大きな節目を迎えました。「イエスさまの登場」「イエスさまの十字架死」「イエスさまの復活」「イエスさまの昇天」「聖霊の訪れ」「この世の終わり~イエスさま(「人の子」)の再来」は、聖書物語を完結させる人類救済の一連のイベントです。私は「これらのことすべて」と言うのは、この一連のイベント全体を指しているのだと解釈しています。「聖霊の訪れ」はいまから約2000年前に起こった出来事で、そのときから「神の国の到来」はクリスチャンの心の中に実現しています。そして神さまの人類救済のフィナーレは、約2000年前のイエスさまの登場からスタートして、現在も進行中なのです。イエスさまの話を聞いていた弟子たちの前でも、聖書を手に取っている私たちの前でもフィナーレは進行しているのです。

第35節でイエスさまは、「天と地は消滅します。しかし私のことばは決して消え去りません。」と言います。「天と地は消滅します」は[NLT]では「Heaven and earth will disappear」となっていますから、将来のある日、きっと天と地は消滅するのです。ですが「私のことばは決して消え去りません。」なのです。イエスさまの伝道活動はガリラヤの会堂で他の律法の先生と同様に聖書を教える形でスタートしましたが、イエスさまの教え方は他のそれまでの律法の先生とは異なる「権威をもって語る人」として驚きを持って人々に迎えられました。そのことについてイエスさまは、Matthew 5:17(マタイの福音書第5章第17節)で「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」([新改訳])と言っています。「律法や預言者」の部分が旧約聖書全体を指しているのだと解釈したら、イエスさまの到来と十字架によって神さまの人類救済のプランは完成し、結果としてひとりひとりの信者の汚(けが)れは洗い流されて、その身体に聖霊が封印されるイベントが実現しました。そうすることで人がそれまでどうしても守ることのできなかった聖書のことばを、信仰と聖霊によって成就する日が来たのです。たとえ天と地が消滅する「この世の終わり」が訪れても、イエスさまが完成させた聖書の言葉は消えることはないのです。

それがいつ起こるのかはわからない、ということをよくわからせるためにイエスさまは旧約聖書からノアの話を引用します。ノアの話は旧約聖書のGenesis 6(創世記第6章)に書かれています。

アダムとエバから始まった人類はノアの時代までに地上に増え始め、やがて神さまは地上に人の悪が増大して人間の心の中がいつも悪いことばかりに傾くのをご覧になります。そして地上に人を作ったことを悔やまれるのです。神さまは人を創造されたことを残念に思い、人を地上から消し去る決心をされます。ですがノアだけは違ったのです。ノアだけは神さまの目に正しく映る人だったのでした。そこで神さまはノアに命じて巨大な箱舟を作らせます。そして箱舟に乗り込んだノアの家族8人と動物だけが地上を埋め尽くす40日間の洪水を生き延びて、その後の人類の新たな祖となるのです。

地上を埋め尽くすほどの大量の水がいったいどこにあったのか、という疑問に対する答えは、Genesis 1:6-7(創世記第1章第6節~第7節)の「創造」の過程の中に書かれていると説明する人がいます。これは創造の七日間の行程の二日目の出来事です。そこには「6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」 7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。」([新改訳])と書かれています。つまり第一日目に「大水」として地上全体を覆っていた水はここで上下に分けられて、その上下の水の間に「大空」が作られたのです。三日目には「下の水」が一カ所に集められて大陸と海洋が作られるのですが、「上の水」に対する言及はこの後はありません。この「上の水」がノアの洪水で地上に降り注いだ水であろうと言う解釈です。ということは洪水の日までの地球は、天体全体がすっぽりと水の層(あるいは膜のようなもの)に覆われていた構造をしていて、この結果内部は温室のようになって地球全体がまるで熱帯のようであったろう、という考えです。私自身はこの考え方は好きです。

その大量の水が四十日四十夜にわたって降り注いだノアの洪水の日まで、人々は宴会をしてパーティーをして婚礼をして、いつものように楽しんでいたのです。第39節、「洪水が来てすべてを押し流してしまうまで、人々は何が起こるのかを理解していなかったのです。人の子が来るときにはこのようになるのです。」 ルカではこの後に、同じく旧約聖書からロトの話、つまり神さまの目に邪悪に映ったソドムの町が神さまにより壊滅させられたときに、ロトとその家族だけがその厄災を生き延びたときの話が引用されています。これはGenesis 19(創世記第19章)に書かれていますが、ここでは説明は割愛します。

それから「人の子が来るとき」の様子が次のように表現されます。第40節、「二人の男が畑で働いていると、ひとりは取られて、ひとりは残されます。」、第41節、「二人の女性が製粉所で粉をひいていると、ひとりは取られて、ひとりは残されます。」

「取られて」という言葉は旧約聖書に登場します。旧約聖書には死を迎えることなく神さまのところへ連れ去られた人物が二人登場しますが、そのうちのひとり「エノク」については、Genesis 5:24(創世記第5章第24節)に「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」([新改訳])と書かれています。つまり「取られる」というのは、神さまによって地上から神さまのいる場所へ連れて行かれることを言っているのです。

同じことが「人の子が来るとき」に起こるのです。地上にいる人は、「神さまの元へ連れて行かれる人」と「地上に残される人」に分けられるのです。それがいつ起こるのかはわからないので、だから警戒を怠ってはならないというのがイエスさまのメッセージですが、ではどうしたら私たちはそのときに神さまに「取られる」側に入れるのでしょうか。答は聖書を通じて一貫して書かれています。神さまは人間を滅ぼしたいのではありません。神さまは地上で創造者の意図を無視して勝手な道を進む人間を見て心を痛め、悲しみ、怒っているのです。神さまは愛する人を天国に迎えたいと願っています。だからイエスさまを送り、私たちに「聖書」という地図を残し、ひとりひとりの心に判断基準として「善」の意味を書き記してくださいました。だから神さまの意図のとおりに歩むこと、すなわち救世主としてのイエスさまを信じることこそが、私たちが「取られる」側に入るための条件なのだと解釈するしかないと、私は思います。


今回の後半部分、第43節~第51節とほぼ同じ記述は、先に引用したマルコのMark 13:33-37(マルコの福音書第13章第33~37節)の中にあります。念のためもう一度引用しておきます。

「33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。{祈っていなさい。}その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用と言うことがわかりますが、話のニュアンスはやや異なります。

マルコでは主人が留守を任せるのは門番で、門番の役割は目を覚ましていることだとしていますが、マタイでは留守を任されるのはしもべの一人で、彼は他のしもべたちの管理を任されます。そしてマタイではしもべがその仕事を忠実に行えば褒美が与えられるし、逆に不誠実であれば「偽善者たちと同じ場所」に送られてしまうとつけ加えられています。その「泣き声や歯ぎしりが聞こえる場所」についてはこれまでも何度か登場してきています。たとえば「外の暗闇」であるとか「火の燃えさかる炉」などと表現されていました。そこに送り込まれた人たちは、自分たちは神さまの元へ招かれると信じていたのに、自分たちの予期に反してとんでもないところへ放り込まれたことで泣き声を立て、歯ぎしりするのです。

主人が戻るとき、つまり「人の子」であるイエスさまが天から地上へ戻って来るときとは「この世の終わり」であり、そのときには「最後の裁き」が行われます。すべての人はそこで二つに分けられて、神さまの元へ招かれるか、「外の暗闇」や「火の燃えさかる炉」へ投げ込まれるかに分けられるのです。今回の記述に基づくと、「外の暗闇」や「火の燃えさかる炉」へ放り込まれないためには、怠けずに油断せずに任された仕事を忠実に誠実に行わなければならないようです。しかもイエスさまは私たちが一番予期しない、一番油断しているときに来ると言っています。

私は日常を生きていて神さまの存在をいつも感じます。聖書に書かれているように、自分から進んで「与える」ように心がけていると、信じられないくらいの、自分にはもったいないほどの祝福が見返りに与えられますし、逆に神さまをガッカリさせるようなことをすればそれに対する報いが必ず来るからです。私が神さまをどれくらいガッカリさせて来ているのか、それに対する報いはどの程度のレベルがいつまで続くのか、いま感じている報いは果たして私がいつ行った不誠実に対するものなのか、あるいは実はこれは報いではなくて私を成長させるために神さまが用意してくださった試練の類なのか、それは神さましか知りません。また私が行うことが神さまにどれくらい喜んでいただけているのか、それも神さましか知りません。

でも私は日々の生活の中で神さまを感じることができます。私は神さまを知ることができて、また神さまに守り祝福していただける場所に加えていただけて、これほどありがたいことはないと思い心から感謝しています。もしかすると自分が「外の暗闇」や「火の燃えさかる炉」へ放り込まれるかも知れないことを心配してクヨクヨ生きても仕方ありません。また、そういう姿は必ず神さまをガッカリさせるでしょう。自分に示していただけた神さまの存在と、聖書の中や自分の心に記していただいた歩むべき方向を信じて、明るく胸を張って進むべきと思います。






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