マタイの福音書第23章第37節~第39節:イエスさまがエルサレムを嘆くマタイの福音書第23章第1節~第12節:イエスさまが宗教の指導者を批判する

2015年12月09日

マタイの福音書第23章第13節~第36節:イエスさまが宗教の指導者を批判する(続き)

第23章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


13 “What sorrow awaits you teachers of religious law and you Pharisees. Hypocrites! For you shut the door of the Kingdom of Heaven in people’s faces. You won’t go in yourselves, and you don’t let others enter either.

13 あなた方、律法の先生とファリサイ派をどれほどの不幸が待ち受けていようか。偽善者たち。なぜならあなた方は人々の前に天の王国への戸を閉ざしているのです。あなた方自身が入ることはなく、あなた方は他の者たちも入れさせません。

14, [What sorrow awaits you teachers of religious law and you Pharisees. Hypocrites! You shamelessly cheat widows out of their property and then pretend to be pious by making long prayers in public. Because of this, you will be severely punished.]

14 [あなた方、律法の先生とファリサイ派をどれほどの不幸が待ち受けていようか。偽善者たち。恥知らずにも未亡人をだまして財産を奪い取っておいて、一方では公然と長い祈りを唱えて信心深いふりをしています。このことであなた方は厳しく罰せられるのです。]

15 “What sorrow awaits you teachers of religious law and you Pharisees. Hypocrites! For you cross land and sea to make one convert, and then you turn that person into twice the child of hell you yourselves are!

15 あなた方、律法の先生とファリサイ派をどれほどの不幸が待ち受けていようか。偽善者たち。なぜならあなた方はひとりの人を改宗させるために陸と海を渡って行き、それからあなた方はその人をあなた方の二倍も酷い地獄の子に変えるのです。

16 “Blind guides! What sorrow awaits you! For you say that it means nothing to swear ‘by God’s Temple,’ but that it is binding to swear ‘by the gold in the Temple.’

16 目の見えない指導者たち。どれほどの不幸があなた方を待ち受けていようか。なぜならあなた方は言います。『神さまの寺院にかけて』と言って誓っても何の意味もないが、『寺院の黄金にかけて』と言って誓ったら義務が生じるのだと。

17 Blind fools! Which is more important -- the gold or the Temple that makes the gold sacred?

17 目の見えない愚か者たち。どちらがより重要なのですか。黄金なのですか。あるいは黄金を神聖なものにしている寺院なのですか。

18 And you say that to swear ‘by the altar’ is not binding, but to swear ‘by the gifts on the altar’ is binding.

18 あなた方は言います。『祭壇にかけて』誓うことでは義務は生じないが、『祭壇の上の供え物にかけて』誓うと義務が生じると。

19 How blind! For which is more important -- the gift on the altar or the altar that makes the gift sacred?

19 どれほど目が見えないのか。どちらがより重要なのですか。祭壇の上の供え物なのですか。あるいはその供え物を神聖なものにする祭壇なのですか。

20 When you swear ‘by the altar,’ you are swearing by it and by everything on it.

20 あなた方が『祭壇にかけて』誓うときには、あなた方は祭壇と、祭壇の上にあるすべての物をかけて誓っているのです。

21 And when you swear ‘by the Temple,’ you are swearing by it and by God, who lives in it.

21 あなた方が『寺院にかけて』誓うときには、あなた方は寺院と、そこに住む神さまにかけて誓っているのです。

22 And when you swear ‘by heaven,’ you are swearing by the throne of God and by God, who sits on the throne.

22 あなた方が『天国にかけて』誓うときには、神さまの王座と、そこに座る神さまにかけて誓っているのです。

23 “What sorrow awaits you teachers of religious law and you Pharisees. Hypocrites! For you are careful to tithe even the tiniest income from your herb gardens, but you ignore the more important aspects of the law -- justice, mercy, and faith. You should tithe, yes, but do not neglect the more important things.

23 あなた方、律法の先生とファリサイ派をどれほどの不幸が待ち受けていようか。偽善者たち。なぜならあなた方は香草園からのほんのわずかな収穫からも十分の一税を納めようと熱心だが、あなた方は律法のもっと重要な面を無視しています。正義と憐れみと誠実です。もちろん十分の一税は納めるべきです。ですがもっと重要な事柄をおろそかにしてはいけません。

24 Blind guides! You strain your water so you won’t accidentally swallow a gnat, but you swallow a camel!

24 目の見えない指導者たち。間違えてブヨを飲み込まないように水は漉(こ)すが、あなた方はラクダを飲み込んでいます。

25 “What sorrow awaits you teachers of religious law and you Pharisees. Hypocrites! For you are so careful to clean the outside of the cup and the dish, but inside you are filthy -- full of greed and self-indulgence!

25 あなた方、律法の先生とファリサイ派をどれほどの不幸が待ち受けていようか。偽善者たち。あなた方はカップや皿の外側を清めることに大変熱心ですが、あなた方の内面は汚れています。貪欲と自堕落で一杯です。

26 You blind Pharisee! First wash the inside of the cup and the dish, and then the outside will become clean, too.

26 目の見えないファリサイ派の人たち。まずカップと皿の内側を洗いなさい。そうすれば外側もきれいになるのです。

27 “What sorrow awaits you teachers of religious law and you Pharisees. Hypocrites! For you are like whitewashed tombs -- beautiful on the outside but filled on the inside with dead people’s bones and all sorts of impurity.

27 あなた方、律法の先生とファリサイ派をどれほどの不幸が待ち受けていようか。偽善者たち。なぜならあなた方はまるで上塗りをした墓のようです。外側は美しいが、内側は死者の骨や、あらゆる類の不浄で満ちています。

28 Outwardly you look like righteous people, but inwardly your hearts are filled with hypocrisy and lawlessness.

28 表面上はあなた方は正しい人のように見えますが、内側ではあなた方の心は偽善と非合法で一杯です。

29 “What sorrow awaits you teachers of religious law and you Pharisees. Hypocrites! For you build tombs for the prophets your ancestors killed, and you decorate the monuments of the godly people your ancestors destroyed.

29 あなた方、律法の先生とファリサイ派をどれほどの不幸が待ち受けていようか。偽善者たち。なぜならあなた方はあなた方の祖先が殺した預言者たちの墓を建て、あなた方の祖先が殺した信心深い人たちの祈念碑を飾るのです。

30 Then you say, ‘If we had lived in the days of our ancestors, we would never have joined them in killing the prophets.’

30 あなた方は言います。『もし私たちが祖先の時代に生きていたら、預言者たちを殺した人たちには決して加わらなかっただろう。』と。

31 “But in saying that, you testify against yourselves that you are indeed the descendants of those who murdered the prophets.

31 ですがそのように言うことであなた方は、自分たちが預言者を殺した人たちの子孫だと自分に対して証言しているのです。

32 Go ahead and finish what your ancestors started.

32 さぁやりなさい。あなた方の祖先が始めたことの仕上げをしなさい。

33 Snakes! Sons of vipers! How will you escape the judgment of hell?

33 蛇め。マムシの子どもたち。どうしてあなた方が地獄の裁きを免れようか。

34 “Therefore, I am sending you prophets and wise men and teachers of religious law. But you will kill some by crucifixion, and you will flog others with whips in your synagogues, chasing them from city to city.

34 だから私はあなた方に預言者や賢者や律法学者を遣わしているのです。それなのにあなた方はそのうちの何人かを十字架にかけて殺し、残りはあなた方の会堂でムチで打ち、町から町へと追い立てるのです。

35 As a result, you will be held responsible for the murder of all godly people of all time -- from the murder of righteous Abel to the murder of Zechariah son of Berekiah, whom you killed in the Temple between the sanctuary and the altar.

35 結果としてあなた方は、義人のアベルの殺人から、あなた方が寺院の中の聖域と祭壇の間で殺したバラキヤの子ザカリヤの殺人に至るまで、すべての時代のすべての信心深い人たちの殺人に責任を負うのです。

36 I tell you the truth, this judgment will fall on this very generation.

36 あなた方に本当のことを言います。この裁きはまさにこの時代に下るのです。




ミニミニ解説

マタイの福音書第23章です。

マタイは第23章のほぼ全体がファリサイ派の批判にあてられています。今回からの部分はルカの中にも類似の記述が見つかりますので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、前回ご紹介した「マルコ」のオリジナルの記述を起点に、マタイが「Q資料」と「独自の資料」を使って拡大した部分と言うことになります。

今回の部分はかなり強めの語り口によるイエスさまのファリサイ派批判です。[NLT]と私の[拙訳]では「What sorrow awaits you (どれほどの不幸が待ち受けていようか)」というやや和らげられた言い回しになっていますが、[KJV]を見るとここは「Woe unto you」の繰り返しとなっていて、これはほとんど「おまえたちに災いあれ」のような呪いの言葉の様相ですし、[新改訳]でも「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」という強烈な書き方になっています。

この強烈な言葉は全部で八回繰り返されます。最初に八つをまとめておきます。
  • [1] 第13節:ファリサイ派は人々の前に天の王国への戸を閉ざしている。
  • [2] 第14節:ファリサイ派は未亡人をだまして財産を奪い取っている。長い祈りを唱えて信心深いふりをしている。
  • [3] 第15節:ファリサイ派はひとりの人を改宗させるために陸と海を渡って行き、その人を自分たちの二倍も酷い地獄の子に変える。
  • [4] 第16節:ファリサイ派は『神さまの寺院にかけて』と誓っても何の意味もないが、『寺院の黄金にかけて』と誓ったら義務が生じると言う。
  • [5] 第23節:ファリサイ派は十分の一税を納めようと熱心だが、律法の中でより重要な正義と憐れみと誠実を無視している。
  • [6] 第25節:ファリサイ派はカップや皿の外側を清めることに熱心だが、内面は汚れていて貪欲と自堕落で一杯である。
  • [7] 第27節:ファリサイ派はまるで上塗りをした墓のようだ。外側は美しいが内側は死者の骨やあらゆる類の不浄で満ちている。偽善と非合法で一杯である。
  • [8] 第29節:ファリサイ派は自分の祖先が殺した預言者たちの墓を建て、自分の祖先が殺した信心深い人たちの祈念碑を飾る。
類似の記述はルカでは、Luke 11:37-54(ルカの福音書第11章第37節~第54節)に見つかります。

「37 イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。39 すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。40 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。41 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。42 だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。43 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。44 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」 45 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」 46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。47 わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てている。しかし、おまえたちの父祖たちが彼らを殺しました。48 したがって、おまえたちは父祖たちがしたことの証人となり、同意しているのです。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。49 だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。50 それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』 51/52 わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」 53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。54 彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。」([新改訳])。

ルカでは「わざわいだ」の登場の順番がマタイとは違います。またここには一部、前回の第1節~第12節の記述との類似箇所も含まれています。

ルカの第40節の、愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか、はマタイの[6]の外側と内側の汚れの話に類似。第42節はマタイと同様の[5]の十分の一税の話。第43節の、会堂の上席や市場であいさつされることが好きは前回の「人に見せるため」の話と類似。第44節の、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかないは [7]の上塗りをした墓の記述に類似。第46節の人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしないは、前回の第4節とほぼ同じ。第47節の、おまえたちは預言者たちの墓を建てている、は[8]とほぼ同じ。第51節の、おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げた、は[1]の記述に似ています。

こうして整理するとルカには[2]と[3]と[4]が見つかりませんが、[2]の「ファリサイ派は未亡人をだまして財産を奪い取っている」はルカの別の箇所、Luke 20:47(ルカの福音書第20章第47節)に次の記述を見つけました。「47 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」([新改訳])。[3]の「ファリサイ派はひとりの人を改宗させるために陸と海を渡って行き、その人を自分たちの二倍も酷い地獄の子に変える」の類似箇所はいまのところルカの中には見つけられません。[4]の誓いの言葉を言うときに、何にかけて誓うと言うべきかの類似箇所もやはりルカには見つかりません。いずれにしても内容の若干の違いはありますが、イエスさまの会話集と言われる「Q資料」からマタイとルカが採用しているらしいことがわかります。「Q資料」自体に複数のバージョンがあった可能性が高いと思います。

では八つの「わざわいだ」を順番に見てみます。

[1] 第13節:ファリサイ派は人々の前に天の王国への戸を閉ざしている。

これは律法の先生であるファリサイ派の立場について言っているのだと思います。人々はどうしたら自分や家族が天国へ行けるのかと言う疑問や質問が生じると、これを聖書の専門家であるファリサイ派の解釈や回答に頼ることになります。そのファリサイ派は天国に行きたいのであれば「神さまがモーゼを通じてユダヤ人に与えた律法を一つも間違わずに遵守せよ」と教えます。またファリサイ派によれば600項以上にも及ぶ律法細則のすべてを守っているのは自分たちファリサイ派だけだから、神さまの目に正しく映り、天国に入ることができるのは自分たちだけと言うことになります。

これは洗礼者ヨハネやイエスさまが教えていることとは異なります。ヨハネやイエスさまの教えは律法の裏にあるもの、旧約聖書の全体を貫く神さまの意図や期待を読み取りなさい、あるいはそれはあらかじめ神さまが自分の内面に「良心」として備えてくださっているものなのだから、その「善の定義」に気づけと言っているようです。それに気づくと神さまの期待どおりに生きている人は、どうやら世の中にはひとりもいないことがわかります。人間がどれほど創造主である神さまの期待を裏切り、ガッカリさせて来たか、それが「罪(sin)」の意味なのです。ヨハネもイエスさまも自分の罪を認めて、自分の行いを悔い、神さまに向き直りなさいと教えます。そして福音書が作られたイエスさまの十字架~復活の後に活動を開始した一世紀のキリスト教会では、イエスさまこそが旧約聖書に約束された救世主であり、汚(けが)れた人間の罪の負債を帳消しにしてくださる天国に至る唯一の道なのだと教えます。ファリサイ派は民衆から教えを乞われる律法の先生の立場なのに、正しく道を説かないことで人々から天国へ行くチャンスを奪っていることになります。

[2] 第14節:ファリサイ派は未亡人をだまして財産を奪い取っている。長い祈りを唱えて信心深いふりをしている。

ここの節はカッコに入って書かれていますが、これは見つかったマタイの福音書の原典(写本)の中に、この節を含む写本と含まない写本が存在したことを示しています。ファリサイ派は十分の一税を支払うことや、決まった捧げ物を寺院に納めることが律法で義務づけられていると人々に教えます。このために人々は、自分がどれほど貧困な状態に置かれていても、自分の家計や命を削って十分の一税の支払いをするのです。神さまはユダヤ人に豊かに平安に暮らしてもらいたいという意図で律法を定めたはずなのに、このように納税や奉納の義務を誤った形で用いられたのでは、神さまの意図から外れてしまいます。

[3] 第15節:ファリサイ派はひとりの人を改宗させるために陸と海を渡って行き、その人を自分たちの二倍も酷い地獄の子に変える。

ここはマタイにしか見つからない箇所です。イエスさまがファリサイ派を「地獄の子」と呼ぶ激しい句です。ユダヤ人は生まれたときからユダヤ教徒なので、「改宗」と言う言葉があてはまるのは異邦人(外国人)がユダヤ教に従うケースだと思います。一世紀の教会では伝道活動がエルサレムから拡大し、さらにはイスラエルからも広く外部へ出て行きます。ユダヤ人は移動した先で出会う異邦人にユダヤ教やキリスト教を伝えました。そうやって「信じる」と表明した異邦人には、ユダヤ流の「割礼」を授けるべきか否かが議論になりました。この様子は新約聖書の「Acts(使徒の働き)」にも書かれています。

マタイのこの箇所を読むとファリサイ派もやはり改宗者を求めて陸を渡り海を渡って行ったのです。しかしそこでファリサイ派の教えを信じると表明した人は、改宗の後でファリサイ派より二倍も酷い地獄の子に変えられてしまうのです。この章に書かれているイエスさまの言葉によれば、ファリサイ派は天国に入れない人たちなので、そういう意味で「天国」に対して「地獄」の子と呼んだのかも知れません。

[4] 第16節:ファリサイ派は『神さまの寺院にかけて』と言って誓っても何の意味もないが、『寺院の黄金にかけて』と言って誓ったら義務が生じると言う。

ここもマタイだけに見つかる記述です。どうやらファリサイ派は誓いの言葉を言うときの細かなルールも細則の中に定めていたようです。イエスさまはファリサイ派の主張に矛盾があることを指摘します。私なども普通にこの部分を読んで、何かにかけて誓うとしたら『寺院の黄金にかけて』ではなくて『寺院にかけて』と言う方が適切なのではないかと思いますし、あるいはシンプルに『神さまにかけて』ではダメなのだろうかとも思います。わざわざ「黄金」を持ち出せと主張するファリサイ派の論点がわかりません。

ただ覚えておいていただきたいのは、イエスさまはマタイの第5章でそもそも「誓いを立てるな」と教えました。Matthew 5:33-37(マタイの福音書第5章第33節~第37節)です。「33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。37 だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」([新改訳])。そもそも神さまに誓いを立てることがいけないことなのです。それなのにファリサイ派はその誓いの言葉の使い方にこだわっているのです。

[5] 第23節:ファリサイ派は十分の一税を納めようと熱心だが、律法の中でより重要な正義と憐れみと誠実を無視している。

律法の中に「十分の一」を納める話は何カ所もあります。たとえばLeviticus 27:30(レビ記第27章第30節)には「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」([新改訳])、Deuteronomy 14:22(申命記第14章第22節)には「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」([新改訳])と書かれています。だからファリサイ派は、それがたとえハーブ園からのほんのわずかな収穫であっても、きっちりと十分の一を寺院に納めて、それを誇りにしているのです。

しかしイエスさまによると、ファリサイ派は正義と憐れみと誠実を無視しています。これもつまりファリサイ派は、十分の一税を納めることはユダヤ人の義務なのだから、自分がどれほど困難な状況に置かれていようと、これを最優先で守るようにと教えているのです。人々は自分の家計や命を削ってでも税を納めます。きっと神さまはユダヤ人の社会が平安に安全に運営されるようにと十分の一税を律法に定めたはずなのです(さらに言うと、神さまがわざわざそう言わなくても、民族全体の平安のために自分の取り分の中から、まず民族のために払おうという姿勢が見たいのに、ユダヤ人はとてもそんなことをしそうもない頑固な民族だから、仕方なく「十分の一税」というルールを作ってあげたはずなのです)。それなのに、律法を逆手にとってどんな境遇の人であってもまず納税が優先と説かれては、弱者に厳しい血も涙もない社会になってしまいます。

第24節にはイエスさまの言葉で「間違えてブヨを飲み込まないように水は漉(こ)すが、あなた方はラクダを飲み込んでいます。」とあります。これは小さなこと(ブヨ)ばかりにこだわっていて、根本的な間違い(ラクダ)をしていることに気づいていないという批判でしょう。

[6] 第25節:ファリサイ派はカップや皿の外側を清めることに熱心だが、内面は汚れていて貪欲と自堕落で一杯である。
[7] 第27節:ファリサイ派はまるで上塗りをした墓のようだ。外側は美しいが内側は死者の骨やあらゆる類の不浄で満ちている。偽善と非合法で一杯である。

この二つは同じことを言っていて、ファリサイの行う律法遵守の行いは表面だけを飾っているに過ぎず、内面は汚(けが)れているのだとの批判です。

イエスさまはファリサイ派を指して「汚れている」と言います。しかしイエスさまは律法を否定しているのではありません。この章の第2節と第3節で、イエスさまは「2 律法の先生とファリサイ派の人たちはモーゼの律法の公式な解釈者です。3 ですから彼らがあなた方に言うことは、すべて実行して守りなさい。ですが彼らを見習ってはいけません。なぜなら彼らは自分たちが教えることを実行しないからです。」と言っていました([NLTの拙訳])。

たとえばMatthew 5:27-28(マタイの福音書第5章第27節~第28節)には次のように書かれています。「27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」([新改訳])。この『姦淫してはならない』の言葉はモーゼの十戒に含まれる有名な掟です(Exodus  20:14/出エジプト記第20章第14節)。が、イエスさまが言うには「姦淫しない」ことでこの律法が守れているのではなくて、もし情欲をいだいて女性を見たら、その人は姦淫の罪を犯していることになると言うのです。つまりイエスさまは律法の形に表現された律法制定者である神さまの意図を読み取って話しているのです。神さまは人の心をごらんになります。そして表面上は善人を装いながら、心の中では情欲を抱いて女性を見ている人を見てガッカリされているのです。そうやって神さまをガッカリさせてしまったら、それは律法を犯したことになる、これがイエスさまの言う律法完成型の解釈なのです。

イエスさまはファリサイ派の行動は字面どおりに表面的に律法を守ることに終始していて、その内面は貪欲と自堕落で一杯だと厳しく批判します。 ここで間違ってはいけないのは、たとえば「情欲を抱かずに女性を見ない男性」の存在は想定されていないと言うことです。つまりイエスさまの基準に沿えば、神さまの目にかなうような「正しい人間」はこの世の中にいないことになってしまいますが、それこそがイエスさまの言っていることなのです。 私たちすべての人の内面は神さまから見れば汚れていて、それは神さまの目から見れば死者の骨やあらゆる類の不浄で満ちている様子に見えるのです。私たちはイエスさまの側の視点に立って批判を浴びるファリサイ派を嘲笑するのではなく、私たち自身が汚れていることを自覚して、イエスさまの言葉を真摯に受け止めなければいけないのです。そうしなければ私たち自身がファリサイ派のようになってしまいます。

イエスさまがファリサイ派をことさら激しく攻撃するのは、ファリサイ派が自分たちの非を認めようとしないからです。旧約聖書に書かれている預言者の言葉や、神さまを裏切り続けたユダヤ人の歴史を自分たちにあてはめて理解しようとせず、いかにも自分たちこそが善人であるという態度を改めないからです。そればかりかファリサイ派は聖書の専門家として人々の上に立ち、人々を誤った方向へと導いているのです。

[8] 第29節:ファリサイ派は自分の祖先が殺した預言者たちの墓を建て、自分の祖先が殺した信心深い人たちの祈念碑を飾る。

最後の八つめの批判は、ファリサイ派は自分の祖先が殺した預言者たちの墓を建て、自分の祖先が殺した信心深い人たちの祈念碑を飾っている、です。ファリサイ派は「もし私たちが祖先の時代に生きていたら、預言者たちを殺した人たちには決して加わらなかっただろう。」と言っているのです(第30節)。だからファリサイ派は本当は正しかったのに殺された預言者たちの墓を建てたり祈念碑を飾ったりして、自分たちは正しい側にいるのだと周囲に示しているのです。

第32節には、「さぁやりなさい。あなた方の祖先が始めたことの仕上げをしなさい。」と書かれています。これは神さまが遣わした数々の預言者の最後の最後に登場した救世主イエスさまを死に追いやることを指しているのでしょう。マタイはイエスさまの十字架の後、何十年も経ってから書かれた本ですので、これはイエスさま自身の言葉ではなくて福音を伝えていたマタイの教会で書き足された言葉なのではないかと憶測します。ユダヤ人保守派層と対立するマタイの教会では、イエスさまの十字架死の責任はファリサイ派などの指導者層にあると主張しているのです。

私はここでも注意が必要だと思います。この後で出てくるイエスさまの十字架の場面では指導者層のみならず、イエスさまを取り囲む群衆がイエスさまの十字架を要求するのです。今の時代に聖書を読んで福音書の結末を知った後で、自分はきっとイエスさまの十字架を要求する輪には加わらなかっただろう、と言うことは簡単です。私は決してあなたを裏切らない、とイエスさまに宣言するペテロと同じです。自分を過信すると自分を無防備にしてしまいます。果たして自分は本当にイエスさまの十字架を求める輪には加わらなかったと言い切れるでしょうか。

第34節には「だから私はあなた方に預言者や賢者や律法学者を遣わしているのです。それなのにあなた方はそのうちの何人かを十字架にかけて殺し、残りはあなた方の会堂でムチで打ち、町から町へと追い立てるのです。」と、イエスさま自身が預言者や賢者を遣わしているというように神さまと同格にして書かれていますが、同じ部分は、Luke 11:49(ルカの福音書第11章第49節)では、この前に「だから、神の知恵もこう言いました。」という一文が加えられていて、この言葉を言ったのは「神の知恵」ということになっています。私はきっとこちらの方がオリジナルの「Q資料」に近かったのではないか、と思います。

ちなみに十字架にかけられた預言者や賢者は旧約聖書には登場しません。十字架刑はローマ帝国が反逆者に用いた死刑だったからです。十字架にかけられて殺されるのはイエスさまであり、イエスさまの復活~聖霊の訪れを経て、イエスさまの福音を力強く伝えたイエスさまの弟子たちです。つまりこの部分も、過去にイスラエルに現れた預言者たちのことと言うよりも、マタイの教会が直面しているユダヤ教保守派層や、その背後で反逆者を十字架へ送るローマ帝国からの迫害のことなのだろうと思います。








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