マタイの福音書第23章第13節~第36節:イエスさまが宗教の指導者を批判する(続き)マタイの福音書:第23章

2015年12月09日

マタイの福音書第23章第1節~第12節:イエスさまが宗教の指導者を批判する

第23章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Criticizes the Religious Leaders

イエスさまが宗教の指導者を批判する


1 Then Jesus said to the crowds and to his disciples,

1 それからイエスさまは群衆と弟子たちに言いました。

2 “The teachers of religious law and the Pharisees are the official interpreters of the law of Moses.

2 「律法の先生とファリサイ派の人たちは、モーゼの律法の公式な解釈者です。

3 So practice and obey whatever they tell you, but don’t follow their example. For they don’t practice what they teach.

3 ですから彼らがあなた方に言うことは、すべて実行して守りなさい。ですが彼らを見習ってはいけません。なぜなら彼らは自分たちが教えることを実行しないからです。

4 They crush people with unbearable religious demands and never lift a finger to ease the burden.

4 彼らは耐えられないほどの宗教上の要求事項で人々を押しつぶし、その重荷を緩めて助けることはしません。

5 “Everything they do is for show. On their arms they wear extra wide prayer boxes with Scripture verses inside, and they wear robes with extra long tassels.

5 彼らのしていることはすべて人に見せるためなのです。腕には聖書の句を入れた特別に大きなお祈りの箱を身につけ、特別に房を長くしたローブをまといます。

6 And they love to sit at the head table at banquets and in the seats of honor in the synagogues.

6 宴会では上座に、会堂では栄誉の座に座ることが大好きです。

7 They love to receive respectful greetings as they walk in the marketplaces, and to be called ‘Rabbi.’

7 市場を歩いているときに敬意を込めたあいさつをされて、ラビと呼ばれることが好きです。

8 “Don’t let anyone call you ‘Rabbi,’ for you have only one teacher, and all of you are equal as brothers and sisters.

8 誰にもあなたをラビと呼ばせてはいけません。なぜならあなたの先生はたったひとりであり、あなた方はみな兄弟、姉妹として対等だからです。

9 And don’t address anyone here on earth as ‘Father,’ for only God in heaven is your spiritual Father.

9 そして地上の誰であっても父と呼んではいけません。なぜなら天国の神さまだけがあなた方の霊的な父だからです。

10 And don’t let anyone call you ‘Teacher,’ for you have only one teacher, the Messiah.

10 誰にもあなたを先生と呼ばせてはいけません。なぜならあなたの先生はたったひとり、救世主だけです。

11 The greatest among you must be a servant.

11 あなた方のうちの一番偉大な者は、しもべでなければなりません。

12 But those who exalt themselves will be humbled, and those who humble themselves will be exalted.

12 ですが自分を褒めそやす者は高慢をくじかれ、自分を謙虚にする者は高められるのです。




ミニミニ解説

マタイの福音書第23章です。

イエスさまは十字架にかけられる前の一週間、毎日寺院へ通い、そこで人々に教えていました。 第22章では三つのたとえ話に続いて、「シーザーへの税金」、「死者の復活」、「もっとも重要な掟」、「救世主は誰の息子か」の四つの問答が書かれていました。

四つ目の問答の最後に「マルコ」と「ルカ」で同じような短い記述があります。マルコは前回の続きでMark 12:38-40(マルコの福音書第12章第第38節~第40節)です。

「38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、39 また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。40 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」([新改訳])。

ルカはLuke 20:45-47(ルカの福音書第12章第45節~第47節)です。
「45 また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。46 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。47 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」([新改訳])。

マタイはこの部分を特に長大に引き延ばして第23章のほぼ全体をファリサイ派の批判にあてています。一部はルカの中にも見つかりますので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、第23章は「マルコ」にオリジナルの記述がありますが、マタイが「Q資料」と「独自の資料」を使って拡大した章と言うことになります。

第2節と第3節には「律法の先生とファリサイ派の人たちは、モーゼの律法の公式な解釈者です。ですから彼らがあなた方に言うことは、すべて実行して守りなさい。」と書かれています。ここに「interpreters」つまり「解釈者」「説明者」と書かれているのは、ファリサイ派が人々に教えていたのがモーゼの律法の解釈であり(多くは過去の説教者の解説の引用だったようです)、さらにはモーゼの律法の外側で昔から口頭伝承されてきたモーゼの律法の実践方法の細則だったからです。イエスさまはここで「彼らがあなた方に言うことは、すべて実行して守りなさい。」と言っていますから、イエスさまはファリサイ派の教えていることの正しさを認めているのです。これはユダヤ人の保守派層を母体として律法を重視するマタイの教会らしい主張だと思います。ところがここから論調は一変して「ですが彼らを見習ってはいけません。なぜなら彼らは自分たちが教えることを実行しないからです。」と厳しい批判が幕を開けます。そしてここからしばらくはファリサイ派が日頃何を行っているのかが列挙されていきます。しかしイエスさまによると「彼らは自分たちが教えることを実行していない」のですから、ファリサイ派は自分たちの教える律法解釈とその実践方法がチグハグだと主張していることになります。

では当時のファリサイ派がどのようなことをしていたのかを順番に見てみましょう。

第4節には「彼らは耐えられないほどの宗教上の要求事項で人々を押しつぶし、その重荷を緩めて助けることはしません。」とあります。ファリサイ派は特に「清めの儀式」と「安息日を守ること」をことさらに強く要求したようで、「手洗いの儀式」を実行するタイミングや作法、「安息日にしてはいけないこと」の細則(たとえば900メートル以上歩いてはいけないとか、火を使ってはいけないとか)を定めて人々を苦しめました。生活をしていると毎日いろいろなことが起こりますから、ときにはやむにやまれぬ事情で儀式を実行できなかったり、ルール以上に歩きすぎたり、ルール以上に背負いすぎたり、そういう事態が起こるのは当然ですが、ファリサイ派は一切の妥協を許さず、杓子定規にルールを守ることを主張したようです。

第5節には「彼らのしていることはすべて人に見せるためなのです。腕には聖書の句を入れた特別に大きなお祈りの箱を身につけ、特別に房を長くしたローブをまといます。」とあります。ファリサイ派は腕と額に聖書の句を入れた箱をくくりつけていました。これは旧約聖書のExodus 13:9(出エジプト記第13章第9節)の記述に基づいています。ここはイエスさまの時代から遡ること約1500年前、その頃エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人を預言者のモーゼが率いて脱出させた直後の場面です。神さまはこの脱出劇のことをユダヤ人がいつまでも忘れることがないようにとモーゼに伝えてユダヤ人に告げさせた言葉の中の一部です。「9 これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。」([新改訳])。

ファリサイ派はここの部分を字面どおりに解釈して「手の上のしるし」「額の上の記念」の実現の手段として、旧約聖書の一部を記した紙を入れた小箱を身にまといました。日本の山伏(やまぶし)や天狗が額の上あたりに小さな黒い箱のようなものを結びつけている様子を思い浮かべることができるでしょうか。これは頭襟(ときん)と呼ばれますが、形状や頭に結びつける様子はこれに似ていたようです。いまでもユダヤ人の中にはお祈りのときにこれを身にまとうことを習慣している人がいるようです。着目すべきは「特別に大きなお祈りの箱」の部分で、ファリサイ派はわざわざその箱を特別に大きくして周囲の人に目立つようにしていたのです。ローブにつけた房も同じです。たとえばDeuteronomy 22:12(申命記第22章第12節)には「12 身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」([新改訳])と書いてありますが、ファリサイ派はこの房を特別に長くして目立たせていたのです。

第6節と第7節には「宴会では上座に、会堂では栄誉の座に座ることが大好きです。市場を歩いているときに敬意を込めたあいさつをされて、ラビと呼ばれることが好きです。」とあります。ファリサイ派はとにかく人々から尊敬と畏怖の念を持って見られることが好きだったのです。町中では人々はひざまずいてファリサイ派にあいさつをしたようですし、宴会の場でも、毎週土曜日に成人男子が集うことが義務づけられた会堂の場でも、ファリサイ派のための特別な席を求めたのでしょう。ファリサイ派の先生の名前に付けられた敬称の「Rabbi(ラビ)」は、ユダヤ教で宗教的指導者であり学者でもあるような特別な存在です。偉大な祭司や預言者、または宗教上の先生を敬意を込めて呼ぶ呼び名です。

イエスさまは第8節で「誰にもあなたをラビと呼ばせてはいけません。なぜならあなたの先生はたったひとりであり、あなた方はみな兄弟、姉妹として対等だからです。」と言っています。ここで言う「たったひとりの先生」とは、第10節に「誰にもあなたを先生と呼ばせてはいけません。なぜならあなたの先生はたったひとり、救世主だけです。」とあるように、イエスさま自身のことなのです。イエスさま自身が言ったセリフとしてはやや違和感がありますが、福音書はイエスさまの十字架死~復活を経て何十年か経って書かれた書物で、その内容はイエスさまこそがユダヤ人が待ち臨んでいた待望の救世主であると指し示す本ですから、このような記述が登場するのです。

第9節には「そして地上の誰であっても父と呼んではいけません。なぜなら天国の神さまだけがあなた方の霊的な父だからです。」とあります。つまりファリサイ派は人々に自分たちを「父」と呼ばせていたのです。私たちも何かの生みの親を「~の父」と言ったり、「あの人は私たちのお父さんのような存在です」のように使って、その人が始祖であることや、守護者のような人を呼ぶときに敬意を込めて「父」という言葉を使うことがあります。カトリックの教会ではローマ教皇を「the Holy Father」と呼びますし、カトリック教会の長は「神父」と「父」という文字を用います(プロテスタント教会の長は「牧師」です)。イエスさまは「天国の神さまだけがあなた方の霊的な父」だとして、ファリサイ派が自分たちを父と呼ばせることを戒めます。

第11節の「あなた方のうちの一番偉大な者は、しもべでなければなりません。」と、第12節の「ですが自分を褒めそやす者は高慢をくじかれ、自分を謙虚にする者は高められるのです。」の記述は他の箇所でもすでに何度か読みました。新約聖書の中で繰り返されるイエスさまの不思議な言葉のひとつです。

次回はこの続きでイエスさまの厳しい批判が幕を開けます。








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