マタイの福音書第22章第41節~第46節:救世主は誰の息子かマタイの福音書第22章第23節~第33節:復活に関する議論

2015年12月10日

マタイの福音書第22章第34節~第40節:もっとも重要な掟

第22章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Most Important Commandment

もっとも重要な掟


34 But when the Pharisees heard that he had silenced the Sadducees with his reply, they met together to question him again.

34 しかしファリサイ派の人たちは、イエスさまの回答がサドカイ派の人たちを沈黙させたと聞いて、イエスさまにもう一度質問をするために集まりました。

35 One of them, an expert in religious law, tried to trap him with this question:

35 ファリサイ派の中のひとり、ある律法の専門家はこの質問でイエスさまを罠にかけようとしました。

36 “Teacher, which is the most important commandment in the law of Moses?”

36 「先生、モーゼの律法の中でもっとも重要な掟はどれですか。」

37 Jesus replied, “ ‘You must love the LORD your God with all your heart, all your soul, and all your mind.’

37 イエスさまは答えました。「『あなたのすべての心と、すべての魂と、すべての精神で主である神を愛さなければならない。』

38 This is the first and greatest commandment.

38 これが最初で最大の掟です。

39 A second is equally important: ‘Love your neighbor as yourself.’

39 第二の掟も同じ位重要です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』

40 The entire law and all the demands of the prophets are based on these two commandments.”

40 律法の全体と預言者の要求のすべては、この二つの掟に基づいているのです。」




ミニミニ解説

マタイの福音書第22章です。

イエスさまは十字架にかけられる前の一週間、毎日寺院へ通い、そこで人々に教えていました。マタイではイエスさまが祭司長たちと長老たちに話した三つのたとえ話が書かれ、これに続いて四つの問答が書かれています。最初の問答は「シーザーへの税金」でした。次が「死者の復活」。今回は三つ目の「もっとも重要な掟」についての問答です。

同じ話は「マルコ」に登場します。前回の続きでMark 12:28-34(マルコの福音書第12章第28節~第34節)です。「28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」 29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。 33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」 34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、これは「マルコ」からの採用と言うことになります。

マタイでは最初に独自の資料からの挿入が行われていて、ファリサイ派はイエスさまを罠にかける目的で集まり、その目的で一人の律法の専門家が選出されています。マルコでは質問者はイエスさまの回答に適切な応答をしてイエスさまに褒められているのですが、マタイではこの部分はすっぽりと抜け落ちています。イエスさまを陥れるために選び出された一名が、イエスさまに褒められていては脈略が合わなくなってしまうからでしょうか。

さてファリサイ派が送り出した律法の専門家はちょっと変わった質問をしました。「先生、モーゼの律法の中でもっとも重要な掟はどれですか。」 ファリサイ派は律法を重視した保守派の派閥です。彼らによると聖書の中に定められた掟とユダヤ社会の中で口頭伝承されてきた慣習法を合わせると、守らなければならない掟は全部で600件以上もあり、ファリサイ派はそれらのすべてを忠実に守ることが神さまの目に正しく映ることだと決めて、細則や儀式をきっちりと遵守する生活を送って人々の尊敬と支持を集めていたのです。ですからファリサイ派にとっては600件以上もあるあらゆる命令が同じように重要なはずで、どれが一番重要かなどと言う発想はないはずなのです(場合によると「安息日」と「清めの儀式」が一番重要だったのかも知れませんが)。

イエスさまはモーゼの律法の中から二つの命令を挙げて、その二つが他のどの命令よりも重要なのだと話します。最初の命令は、Deuteronomy 6:4-5(申命記第6章第4節~第5節)からの引用です。「4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」([新改訳])。二つ目の命令は、Leviticus 19:18(レビ記第19章第18節)からの引用です。「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」([新改訳])。

ここで注目すべきはイエスさま自身が聖書の中の命令に序列を付けていることです。正しく生きるために、神さまの目に正しく映るために、分厚い聖書の最初から最後までに精通してすべてを守ろうと考えるくらいなら、まずこの二つの命令を心に刻みなさいと言っているのです。第40節では「律法の全体と預言者の要求のすべては、この二つの掟に基づいている。」とさえ言っています。

イエスさまの挙げた二つの命令を見てみます。

第一の命令は全身全霊で神さまを愛しなさい、という命令です。「全身全霊」を聖書では「heart」「soul」「mind(understanding)」「strength」の四つに分けています。四つめの「strength(力)」が肉体(「全身」の方)を表すとしたら、残りの三つは私たちの精神部分(「全霊」の方)を表していることになります。

最初の「heart」は『新英和中辞典』(研究社)では「感情・情緒を意味する心」と書かれています。私は「heart」は「その人の人物」「その人の正体」を表しているところなのだと思っています。英語の文章を読んでいると「heart」がウキウキしたり沈んだりするのに出会います。また「heart」は自分を裏切ったりもします。口から出てくるのを自分の耳で聞いて自分でも驚くような言葉や、ピンチに追い込まれた場面で自分でも信じられないような行動を取らせるのが「heart」です。「heart」は、自分の中にあるのに自分でも全容や正体を知ることができないような部分(たとえば深層心理のようなところでしょうか)までもを含んだ「心」のことでしょう。

次の「soul」は「魂」とか「霊魂」などと訳されます。私は「soul」は「人間の存在そのもの」だと思っています。つまり神さまからいただいた私自身のことです。これは聖書によると不滅の存在で、地上では私の肉体に宿っているのです。

次の「mind(understanding)」は『新英和中辞典』では「思考・意志などの働きをする心」と書かれています。私は「mind」は私の肉体というハードウェアの中のモニターとかメモリ領域のようなもので、広大な「heart」の領域から、一部だけがメモリ領域に呼び出されてモニター上に映し出されているようにイメージしています。つまり精神上の活動の中で、私自身がいま把握できている「意識」の部分です。

この解釈で全身全霊を構成する四つを合わせるとこうなります。つまり「私」という存在は、神さまが「soul(魂)」を「strength(肉体)」に宿らせた存在であり、「heart(心)」の一部を「mind(意識)」というモニターに映しながら機能しているのです。どうでしょうか。イメージが伝わるでしょうか。

イエスさまはこの四つの要素のすべてを尽くして神さまを愛しなさいと言っています。・・・。そんなの無理ですよね。「心」も「魂」も「意識」も「肉体」も、そのすべて、100%が神さまに捧げ尽くされている状態、そんな状態に自分を持っていくことはどんなことがあっても不可能です。でもそういうつもり、そういう心構えで神さまを愛しなさい、というのが第一の命令なのです。神さまがもしそういう状態を私たちに求めているのだとしたら、すべてをご覧になる神さまは私たちの魂と肉体と心と意識の状態を観察されて、さぞかしガッカリされていると思います。「ガッカリ」=「罪(sin)」ですから、私たちは存在しているだけで罪な存在だということになります。

もう一つの命令は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」です。「隣人」とは「仲間」のことでしょうから、自分の仲間を自分自身のように扱え、という命令です。

これもまず不可能だと思います。人間はどれほど自分が愛おしいことか。私はお腹も空くし、眠くなるし、人に命じられるとカチンと来るし、自分の思い通りに事が進まないとイライラするし、いったい何を考えているのか理解できない人、些細なことから大きな事まで、やり方が気にくわない人が周囲にたくさんいます。自分の感情が暴走しないように上手にコントロールしながら、あらゆる他人を自分とまったく同じように受け入れて許し、愛し、前向きに建設的に考えて過ごすことなど一日だって不可能です。自分のことさえ信じられない、許せない、愛せないことだってたくさんあると言うのに・・・。

でもどうでしょう。もし全身全霊で神さまを愛することができて、他人をまるで自分のように愛することができたなら、その人は神さまの目に本当に麗しく映るのではないでしょうか。

それがイエスさまです。イエスさまは洗礼者ヨハネの洗礼を受けたときに、天から鳩の形をした聖霊が降りてきてイエスさまに宿り、その聖霊の助けを得て、神さまの目に正しく映る道を実践された方です。私たちはイエスさまをお手本にして、神さまの目に正しく映るように心がけて歩まなければなりません。そのためにはここに書かれている二つの掟だけを心にとめればよいのです。

そしてそれがどれくらい不可能かを実感するとき、私たちはイエスさまの十字架の意味を知るのです。私たちは自分の力ではどれほどがんばっても神さまの目に正しく映ることはできません。だから私たちがそのままで神さまに受け入れていただくことはあり得ないのです。ですが神さまはその解決策を神さまの側から用意してくださったのです。私たちのためにイエスさまという尊い代償が、十字架死という形で支払われたからこそ、私たちは神さまの名を呼んで謝罪することも、感謝することも、お願いすることもできるのです。






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