マタイの福音書第21章第28節~第32節:二人の息子のたとえ話マタイの福音書第21章第18節~第22節:イエスさまがイチジクの木を呪う

2015年12月11日

マタイの福音書第21章第23節~第27節:イエスさまの権威に異議が唱えられる

第21章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Authority of Jesus Challenged

イエスさまの権威に異議が唱えられる


23 When Jesus returned to the Temple and began teaching, the leading priests and elders came up to him. They demanded, “By what authority are you doing all these things? Who gave you the right?”

23 イエスさまが寺院に戻って教え始めたとき、祭司長たちと長老たちがイエスさまのところへ来ました。彼らは答えを求めて言いました。「何の権威によって、あなたはこれらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を与えたのですか。」

24 “I’ll tell you by what authority I do these things if you answer one question,” Jesus replied.

24 イエスさまは答えました。「あなた方が質問にひとつ答えるなら、私が何の権威によってこれらのことをしているかお話しします。

25 “Did John’s authority to baptize come from heaven, or was it merely human?” They talked it over among themselves. “If we say it was from heaven, he will ask us why we didn’t believe John.

25 ヨハネの洗礼の権威は天から来たのでしょうか。あるいは単に人間のものですか。」彼らは自分たちで相談しました。「もし私たちがそれが天からのものだと言えば、彼は私たちがなぜヨハネを信じなかったのかと問うでしょう。

26 But if we say it was merely human, we’ll be mobbed because the people believe John was a prophet.”

26 しかしもし私たちがそれが単なる人間のものだと言えば群衆に襲われます。人々はヨハネが預言者だと信じていましたから。」

27 So they finally replied, “We don’t know.” And Jesus responded, “Then I won’t tell you by what authority I do these things.

27 そこで彼らはとうとう答えました。「私たちにはわかりません。」 そしてイエスさまも答えました。「それならば私も私が何の権威によってこれらのことをしているかはお話ししません。」




ミニミニ解説

マタイの福音書第21章です。イエスさまは十字架前の一週間、毎日寺院へ通い、そこで人々に教えています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見つかります。マルコは前回の続き、Mark 11:27-33(マルコの福音書第11章第27節~第33節)です。

「27 彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。28 そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」 29 そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」 31 すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。32 だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」-- 彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。33 そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。」([新改訳])。

ルカは第19章の終わりで寺院で商人を追い立てた後の続きです。Luke 20:1-8(ルカの福音書第20章第1節~第11節)です。

「1 イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、2 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」 3 そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」 5 すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。6 しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」 7 そこで、「どこからか知りません」と答えた。8 するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。」([新改訳])。

どの福音書もほぼ同じ内容になっています。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

イエスさまの呪いの言葉でイチジクの木が枯れるのを見た一行はエルサレムに着き、城壁の内側に入ると、寺院の中へ入りました。イエスさまが人々に教えようとすると祭司長たちと長老たちがイエスさまのところへ近づいて来てイエスさまに質問をします。質問は第23節の「何の権威によって、あなたはこれらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を与えたのですか。」です。「これらのこと(all these things)」と言うのは前日にイエスさまが寺院の異邦人の庭で行った動物商や両替商を追い立てた行為のことでしょう。イエスさまが話をすると周囲に人が集まり、イエスさまが行う癒やしの奇跡に人々は驚きました。第15節では子供たちもまでもがイエスさまを褒め称えている様子が書かれていました。

エルサレムの指導者たちはイエスさまに憤慨しています。マルコでは彼らがどのようにイエスさまを殺そうかと相談したと書かれています。彼らは今回、いよいよ集団でやってきてイエスさまに迫ります。彼らはやろうと思えばすぐにでもイエスさまを逮捕できるはずなのですが、それを実行に移さないのは民衆が広くイエスさまを支持しているからです。彼らは暴動が怖いのです。暴動が起こると規模によってはローマ帝国が軍隊を差し向けるかも知れません。騒ぎが大きくなるとイスラエルは暫定的な自治権を取り上げられてしまうかも知れないのです。彼らは国の指導者でありながら、ローマ帝国の下で享受してきた様々な利権や権益を失うことだけを恐れているのです。

それで彼らはイエスさまを民衆の納得する形で逮捕できるような律法違反の根拠を見つけたいのです。イエスさまに質問を繰り返すのは、イエスさまの口から何か律法違反にあたる発言を引き出そうとしているからです。今回の質問の「何の権威によって、あなたはこれらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を与えたのですか。」も、これに対してイエスさまが自分を神さまと同格視するような発言をすれば、それを神さまに対する冒涜として逮捕の根拠にできるのではないかと画策しているのです。

イエスさまは自分の時を待っています。それまでは指導者たちに捕まるわけにはいきません。今回は質問に対して逆に質問で応答しました。「ヨハネの洗礼の権威は天から来たのでしょうか。あるいは単に人間のものですか。」 洗礼者ヨハネはイエスさまに先立ってイスラエルに現れた人です。神さまの国が近づいている、だからどれほど自分が神さまをガッカリさせて裏切ってきたかを素直に悔いて、神さまに向き直りなさい、と説いて民衆を集めました。ヨハネは荒野で教えていたので、たくさんの人たちがヨハネの話を聞きに荒野を訪れました。悔い改めを決意した人に対して、ヨハネはヨルダン川などで洗礼を授けたので「洗礼者ヨハネ(John the Baptist)」の名前で呼ばれています。イエスさまはこの洗礼者ヨハネを引き合いに出して、「ヨハネの洗礼の権威は天から来たのか。あるいは人間のものか。」と質問したのです。

質問を質問で返された指導者たちは困ってしまいます。たとえばファリサイ派は聖書の専門家として、聖書に出現を予告された預言者の到来を待っていましたから、イスラエルのどこかにそれらしき人物が現れたと聞くと偵察に出向きました。場合によると反ローマ帝国の活動家かも知れませんから、それならば危険の芽は早めに摘んでしまいたい、という考えもあったと思います。洗礼者ヨハネの偵察に現れたファリサイ派とサドカイ派に対するヨハネの対応はMatthew 3:7-10(マタイの福音書第3章第7節~第10節)に出ていました。「7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」([新改訳])。

「まむしのすえたち」の「すえ」の漢字は「末」で家系の後で生まれる人のことです。「末っ子」の「末」です。ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の指導者たちを「まむしの子供」と切り捨てた上、「みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」と警告しました。指導者たちは自分たちこそが神さまの目に正しく映る人だと思い込んでいますから、自分たちを認めようとしないばかりか、痛烈な批判を繰り出してきたヨハネを激しく憎んだはずです。ヨハネが神さまのもとから来た預言者だとはもちろん認めていません。でももし彼らが寺院の中で「ヨハネの権威は天から来たのではない。単なる人のものだ。」と言えば、ヨハネを支持していた民衆が暴動を起こすかも知れませんでした。彼らは仕方なく「私たちにはわかりません。」と答えて引き下がります。イエスさまに対する彼らの怒りはますます燃え上がり、何としてもイエスさまを排除したいと思ったことでしょう。






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