マタイの福音書第21章第23節~第27節:イエスさまの権威に異議が唱えられるマタイの福音書第21章第12節~第17節:イエスさまが寺院を一掃する

2015年12月11日

マタイの福音書第21章第18節~第22節:イエスさまがイチジクの木を呪う

第21章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Curses the Fig Tree

イエスさまがイチジクの木を呪う


18 In the morning, as Jesus was returning to Jerusalem, he was hungry,

18 朝になってイエスさまはエルサレムへ戻る途中、空腹になりました。

19 and he noticed a fig tree beside the road. He went over to see if there were any figs, but there were only leaves. Then he said to it, “May you never bear fruit again!” And immediately the fig tree withered up.

19 イエスさまは道ばたにイチジクの木があるのに気づきました。イエスさまはイチジクがあるかどうか見に行きましたが、葉だけしかありませんでした。それでイエスさまはイチジクの木に言いました。「おまえに二度と実がならないように。」 すると突然、そのイチジクの木は枯れてしまいました。

20 The disciples were amazed when they saw this and asked, “How did the fig tree wither so quickly?”

20 弟子たちはこれを見ると驚いてたずねました。「どうしてイチジクの木はこれほど早く枯れたのでしょうか。」

21 Then Jesus told them, “I tell you the truth, if you have faith and don’t doubt, you can do things like this and much more. You can even say to this mountain, ‘May you be lifted up and thrown into the sea,’ and it will happen.

21 イエスさまは弟子たちに言いました。「あなた方に本当のことを言います。もしあなた方が信仰を持ち、疑わなければ、あなた方はこのようなことができますし、もっとできるのです。あなた方はこの山に『おまえは持ち上げられて海に放り込まれろ。』と言うことさえできますし、そのとおりになります。

22 You can pray for anything, and if you have faith, you will receive it.”

22 なた方はお祈りでどんなものでも求めることができます。そしてあなた方に信仰があれば、あなた方はそれを受け取るのです。」




ミニミニ解説

マタイの福音書第21章です。ここまで、イエスさまの一行はついにエルサレムへ到着し、「勝利の入城」を経て城壁の門をくぐってエルサレムの町の中に入り、市内北東部の寺院を訪れています。

エルサレム到着直後のイエスさまの話は「勝利の入城」「寺院での出来事」「イチジクの木を呪う話」の三つですが、マルコでは「イチジクの木を呪う話」を二つに分けてその間に「寺院での出来事」を挟んでいるのに対し、マタイは先に「寺院での出来事」を伝えて、今回の「イチジクの木を呪う話」はその後に置いています。結果としてマルコとマタイでは日付が一日ずれています。マルコでは「勝利の入城」だけが一日目で、「イチジクの木を呪う話」と「寺院での出来事」が起こったのはの翌日ですが、マタイでは「勝利の入城」の直後の同じ日に「寺院での出来事」が起こり、「イチジクの木を呪う話」は翌日になっています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」に見つかります。マルコは二カ所に別れています(間に「寺院での出来事」を挟んでいます)。Mark 11:12-14(マルコの福音書第11章第12節~第14節)と、Mark 11:19-26(マルコの福音書第11章第19節~第26節)です。

「12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。」

「19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」 22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。26 {しかし、もし赦してやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくださいません。}」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

「勝利の入城」と「寺院での出来事」がイエスさまの十字架の一週間前の日曜日なのだとすると、今回の話はその翌朝なので月曜日の朝ということになります。イエスさまの一行は宿泊していたベタニヤの町を後にしてエルサレムに向かいます。エルサレムからベテパゲを通ってベタニヤまでは、ほんの2~3キロの距離です。ベタニヤには複数の福音書に登場するマルタとマリヤの姉妹の家があり、イエスさまの一行はこの家に滞在していた可能性があります。

空腹を感じたイエスさまはイチジクの木を見つけて近づいていきます。イエスさまはイチジクの木を探しますが、葉ばかりで食べられる部分が見つかりません。過越(すぎこし)の祭りはユダヤ人の暦の最初の月に行われ、私たちの暦に直すと毎年3~4月頃のイベントになります。一般にイチジクは初夏に花をつけて実は秋に熟します。3~4月ではイチジクが実をつけるには早すぎますが、当時の人たちが若いつぼみを食べていた可能性があります。イエスさまはイチジクの木に向かって「おまえに二度と実がならないように。」と言います。これは呪いの言葉です。すると突然イチジクの木は枯れてしまいました。マルコではイチジクの木は、イエスさまが呪いをかけた翌朝に枯れているのが見つかるのですが、マタイではその場でみるみるうちに枯れてしまいます。

これは恐ろしい話に受け取られかねない話です。お腹が空いたイエスさまがイチジクのつぼみを探しますが、見つからないので腹を立てて「役立たずのお前は枯れてしまえ!」と呪いをかけて枯らしてしまう、そんな乱暴な話にも解釈できます。ですが、それだとなぜここにイチジクの話が挿入されているのか、つじつまが合いません。イエスさまは寺院で異邦人の庭に入り込んでいる動物商や両替商を追い立て、「聖書には『私の寺院は祈りの家と呼ばれる。』と宣言しています。しかしあなた方はそれを泥棒の巣にしてしまいました。」と非難しました。マルコではイチジクの話は前後に二つに分かれて、この「寺院での出来事」を挟んで編集されていることもあり、ここと関連づけて解釈した方が良さそうです。

実はイチジクはブドウと並んで聖書全体で何度も繰り返し登場する象徴的な植物です。預言者は繰り返しイスラエルの国をイチジクやブドウの木にたとえます。たとえばHosea 9:10(ホセア書第9章第10節)には「わたしはイスラエルを荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖をいちじくの木の初なりの実のように見ていた。(後略)」([新改訳])と書かれていて、イチジクの実をユダヤ民族の先祖にたとえています。預言者は神さまの意図に沿わないユダヤ民族を、実をつけなかったイチジクやブドウの木にたとえて非難します。たとえばJeremiah 8:13(エレミヤ書第8章第13節)には「わたしは彼らを刈り入れたい。しかしぶどうの木にはぶどうがなく、いちじくの木にはいちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」([新改訳])と書かれています。

つまりイエスさまは道ばたのイチジクの木を神さまの意図に沿わずにウソの信仰を重ねるエルサレムの指導者層にたとえて、弟子たちの前でイチジクの木に呪いをかけ、「役立たずのお前は枯れてしまうがよい。」と呪ったのです。するとイチジクの木はみるみる枯れてしまいました。神さまの怒りはユダヤ民族の上に、そしてエルサレムの指導者たちの上に注がれているのです。今回はイエスさまがイチジクを呪う言葉を受けて、神さまはいつまでも結実しようとしないユダヤの民が裁きを免れないことを示すために木を枯らしたのではないでしょうか。

第21節、驚いている弟子たちにイエスさまは言います。「イエスさまは弟子たちに言いました。「あなた方に本当のことを言います。もしあなた方が信仰を持ち、疑わなければ、あなた方はこのようなことができますし、もっとできるのです。あなた方はこの山に『おまえは持ち上げられて海に放り込まれろ。』と言うことさえできますし、そのとおりになります。」 第21節は[NLT]では「if you have faith and don’t doubt」と始まっています。私は「もしあなた方が信仰を持ち、疑わなければ」と訳しましたが、「信仰を持つ」とか「疑わない」とはどういう意味でしょうか。それは創造主であり支配者である神さまの存在、神さまの力、神さまの愛について、ほんの少しも疑いを持たないことです。明日の朝、太陽が昇ることを疑う人はいません。地球の自転が今日で止まるかも知れないと心配する人はいません。これは遠い昔から間違いなくきっちりと繰り返されている出来事です。地球上の誰もが、まったく当たり前のこととして想定して生きています。「信仰を持つ」「疑わない」とは、それと同じレベルで神さまを信じ、神さまの力と愛を想定する、と言うことです。それくらいの信仰を持って、山に向かって『おまえは持ち上げられて海に放り込まれろ。』と言えば、それはそのとおりに神さまが実現してくださるのです。イエスさまはそういう信仰を持ってイチジクの木に「枯れてしまえ。」と言ったのです。こればかりでなく病を治す奇跡も、目の不自由な人の目を開く奇跡も、足の不自由な人を歩かせる奇跡も、死者をよみがえらせる奇跡も、イエスさまはそうやって実現しているのです。

第22節には「 あなた方はお祈りでどんなものでも求めることができます。そしてあなた方に信仰があれば、あなた方はそれを受け取るのです。」と書かれています。私たちの信仰はとてもイエスさまの信仰には及びません。私たちが神さまをイエスさまと同じレベルで信じられないことはきっと神さまをガッカリさせています。だからそのことを神さまに謝罪して許しを乞い、そういう祈りの中で、自分が本当に手に入れたいものを祈り求めれば、答えは必ず与えられます。神さまの答えはいつも深淵です。神さまは時間と空間を超越している方なので、祈り願う者のすべてを考慮した上で答えを与えてくださるのです。だから答えは往々にして予想外のところから予想外の形でやって来ます。そして「もしかしてこれが答えなのか」と気づき始めると、神さまがどれくらいお祈りに忠実に答えてくださっているかに驚かされます。


下の地図はベタニヤと寺院を往復するイエスさまの経路です。上の地図は現代の『Google Map』から、真ん中の俯瞰図は『Holman Bible Atlas』から、下のエルサレムの地図は『New Living Translation: Life Application Study Bible』からです。矢印はすべて私が付けています。

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