マタイの福音書第20章第29節~第34節:イエスさまが二人の盲人を癒やすマタイの福音書第20章第17節~第19節:イエスさまが再び死を予告する

2015年12月12日

マタイの福音書第20章第20節~第28節:イエスさまが他の人のために働くことについて教える

第20章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Teaches about Serving Others

イエスさまが他の人のために働くことについて教える


20 Then the mother of James and John, the sons of Zebedee, came to Jesus with her sons. She knelt respectfully to ask a favor.

20 それからヤコブとヨハネ、つまりゼベダイの息子たちの母が息子たちといっしょにイエスさまのところへ来ました。彼女はお願いをするためにうやうやしくひざまずきました。

21 “What is your request?” he asked. She replied, “In your Kingdom, please let my two sons sit in places of honor next to you, one on your right and the other on your left.”

21 イエスさまがたずねました。「あなたの願いは何ですか。」彼女は答えました。「あなたの王国で、私の二人の息子を、どうかあなたの隣の栄誉ある場所に座らせてください。ひとりをあなたの右に、もうひとりはあなたの左に。」

22 But Jesus answered by saying to them, “You don’t know what you are asking! Are you able to drink from the bitter cup of suffering I am about to drink?”  “Oh yes,” they replied, “we are able!”

22 ですがイエスさまは彼らに答えて言いました。「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていません。あなた方は私が飲もうとしている苦しみの苦い杯を飲むことができるのですか。」彼らは答えました。「はい、私たちにはできます。」

23 Jesus told them, “You will indeed drink from my bitter cup. But I have no right to say who will sit on my right or my left. My Father has prepared those places for the ones he has chosen.”

23 イエスさまは彼らに言いました。「あなた方は実際のところ、私の苦い杯を飲むのです。しかし誰が私の右や左に座るのか、私にはそれを言う権限はありません。私の父が選んだ人たちのために、私の父がその場所を準備したのです。」

24 When the ten other disciples heard what James and John had asked, they were indignant.

24 他の十人の弟子たちは、ヤコブとヨハネが頼んだことを聞いて憤慨しました。

25 But Jesus called them together and said, “You know that the rulers in this world lord it over their people, and officials flaunt their authority over those under them.

25 しかしイエスさまは彼らを一緒に呼んで言いました。「あなた方は、世の中の支配者たちが自分の人民に対して威張りちらし、役人が下の人たちに自分たちの権威を誇示することを知っています。

26 But among you it will be different. Whoever wants to be a leader among you must be your servant,

26 ですがあなた方の間では違うのです。あなた方の中でリーダーになりたいと思う者は、みなのしもべでなければなりません。

27 and whoever wants to be first among you must become your slave.

27 あなた方の中で一番になりたいと思う者は、みなの奴隷にならなければなりません。

28 For even the Son of Man came not to be served but to serve others and to give his life as a ransom for many.”

28 なぜなら人の子でさえ、仕えられるために来たのではなく、他の人に仕え、多くの人のための身代金として自分のいのちを与えるために来たからです。」




ミニミニ解説

マタイの福音書第20章です。

イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。第19章の冒頭でイエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。第19章はその後、イエスさまの話になりました。第20章も引き続き、イエスさまの話になっています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」に見られます。前回の続きのMark 10:35-45(マルコの福音書第10章第35節~第45節)です。

「35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」 36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」 37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」 38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」 39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」 41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。マルコとマタイの大きな違いは、オリジナルのマルコはヤコブとヨハネの本人がイエスさまに願い出ているのに対し、マタイでは二人の母が願い出て、その後の会話を二人が引き取っています。この部分を書き換えた真意はわかりません。

ヤコブとヨハネは兄弟で、ともに十二使徒です。二人はガリラヤ湖の漁師でした。Mark 3:17(マルコの福音書第3章第17節)にはイエスさまが二人にニックネームをつける場面があり、「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。」([新改訳])と書かれていますから、きっと気性の激しい兄弟だったのではないかと思われます。実際、Luke 9:54(ルカの福音書第9章第54節)ではイエスさまの一行を歓迎しないサマリヤ人に対して「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」([新改訳])と恐ろしい提案をする二人の様子が書かれています。この二人がイエスさまにした頼み事は、イエスさまがイスラエルの王となり、権力の座につくそのときには自分たち二人を王座の左右に座らせてくれ、つまり二人を右大臣、左大臣のように待遇してくれというものでした。

何度か書いて来ていますが、イエスさまに従っている弟子たちは、イエスさまがいまエルサレムに向かっているのは、入城してそこで王となるためだと信じていたのです。そして弟子たちがイエスさまに従う理由とは、イエスさまが統治する新しい王国でできるだけ高く取り立てられたいと言うあくまでも世俗的なものなのです。エルサレムでイエスさまがあっさりと逮捕され十字架刑に処せられて殺されてしまうと、弟子たちは失望し、さらには自分たちにも追及の手が及ぶのではないかとびくびくと恐れながら日々を過ごすことになります。

第22節、イエスさまは二人に対して、「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていません。あなた方は私が飲もうとしている苦しみの苦い杯を飲むことができるのですか。」とたずねます。イエスさまが飲もうとしている苦しみの苦い杯とは、弟子に裏切られ、逮捕され、ばかにされ、つばを吐きかけられ、むちで打たれ、最後には十字架刑に処せられる、そういう一連の出来事をさしているのだと思います。イエスさまは二人にそういう覚悟があるのか、ときいているのです。二人は「はい、私たちにはできます。」と安請け合いしますが、もちろんそんな恐ろしいことが待ち受けていようとは思うはずもありません。イエスさまの逮捕の場面では、弟子たちはこの二人も含めてみな散り散りになって逃げてしまうのです。

第23節、イエスさまは「あなた方は実際のところ、私の苦い杯を飲むのです。」と言います。イエスさまの十字架死~復活の後、エルサレムにとどまっていた弟子たちに不思議なことが起こります。これはイエスさまがかねてから予告していたとおりのことなのですが、天から聖霊が訪れ、一人一人に宿り、それによって弟子たちは福音が何であるか、その意味を初めて知るのです。そしてその後の彼らはまるで別人のようになって大胆にイエスさまへの信仰を表明し、救世主イエスさまに関する良い知らせを人々に広く伝える活動に入ります。この様子は新約聖書の「Acts(使徒の働き)」に書かれています。

やがて福音を伝えるクリスチャンに対する迫害が始まります。彼らは逮捕されたり、さらには殺される者も現れます。今回イエスさまにお願いをしたヤコブが殺されたときの様子は、Acts 12(使徒の働き第12章)に記録されています。もう一人のヨハネは、もしこのヨハネが「Revelation(ヨハネの黙示録)」の著者のヨハネと同一人物なのだとすると(諸説あります)、この本の中では島流しにされたと書かれていますが、言い伝えによると島流しに処される前には煮え立つ油の中に入れられる刑に処せられたとされています(ヨハネはこれを生き延びたとされています)。イエスさまはこれらの出来事を予見して「あなた方は実際のところ、私の苦い杯を飲むのです。」と言っているのだと思います。

イエスさまはどちらにしても、神さまの王国で誰がどのポジションに就くかは神さまが決めることなのだと言いますが、この部分の英文は「My Father has prepared those places for the ones he has chosen.」となっていて、時制は「has prepared」「has chosen」と現在完了形で書かれていますから、神さまはこの時点ですでにそれを決めていることになります。

第24節、他の者を出し抜いて勝手に願い事をした二人について他の弟子たちが憤慨したとあります。つまり他の弟子たちも同様に、イエスさまの王国で高い位に迎えられることを望んでイエスさまに従っていたということです。

第25節、弟子たちの口論を聞いていたイエスさまは彼らを呼び寄せ、繰り返し教えてきた「神さまの王国での序列」の仕組みの話をします。第26節と第27節には、「あなた方の中でリーダーになりたいと思う者は、みなのしもべでなければなりません。あなた方の中で一番になりたいと思う者は、みなの奴隷にならなければなりません。」と書かれています。神さまの王国では最初の者が最後になり、最後の者が最初になるという逆転のルールです。

今回は最後の第28節に、このルールの根拠が書かれています。「なぜなら人の子でさえ、仕えられるために来たのではなく、他の人に仕え、多くの人のための身代金として自分のいのちを与えるために来たからです。」 イエスさまは、神さまが、自分の力では神さまのいる天国に入ることのできない人間のために、救済策の手段として地上に遣わした方です。神さまの元から来た方であり、三位一体説では父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三者は一体の神さまだとしています。イエスさまは神さまと同格に扱われるべき方なのです。

ところがイエスさまは、王として人に仕えられるために来たのではなく、神さまが創造した被創造物である人類のいのちの代償として、自分のいのちを差し出すために来たのです。自分をすべての人間の下に置いて、自分のいのちをすべての人間の役に立てるために使う、つまりすべての人間に仕えるために来たのです。しかもその殺され方は惨めで残酷で孤独なのでした。弟子に裏切られ、秘密裏に暴力的に逮捕され、不当な裁判で一方的に裁かれ、異邦人に引き渡され、ばかにされ、つばを吐きかけられ、背中の肉が裂けて骨がむき出しになりそれが砕けるほどにむちで打たれ、手と足を十字架に打ち付けられて殺されるのです。

イエスさまがその道を選んだ理由は、イエスさまが自分の意志よりも、神さまの意志を選択したからです。Mark 14:35-36(マタイの福音書第14章第35節~第36節)を引用します。これはイエスさまが逮捕される直前の出来事です。「35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」([新改訳])。

つまりイエスさまは苦しみの苦い杯を飲むのが嫌でたまらないのです。それを神さまに取り除いていただくのがイエスさま自身の望みなのです。ですが自分は、自分の願うことではなく神さまの意志を尊重すると言っています。イエスさまは、こうして神さまの意志を選択することにより、人類の救済に関わるすべての栄光を神さまに帰し、神さまを褒め称えています。神さまはまたイエスさまがこの選択をしたことについてイエスさまを褒め称えています。だから私たちも主であるイエスさまのやり方にならって、自分の世俗の望みを追求することよりも、神さまの目に正しく映る道を追求すべきなのです。そしてその方法とは、他の人のために働くことなのだとイエスさまは教えています。









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