マタイの福音書第20章第17節~第19節:イエスさまが再び死を予告するマタイの福音書:第20章

2015年12月12日

マタイの福音書第20章第1節~第16節:ぶどう園の労働者のたとえ話

第20章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Vineyard Workers

ぶどう園の労働者のたとえ話


1  “For the Kingdom of Heaven is like the landowner who went out early one morning to hire workers for his vineyard.

1 「天の王国は、自分のぶどう園で働かせる労働者を雇いに、ある朝早く出かけて行った地主のようなものです。

2 He agreed to pay the normal daily wage and sent them out to work.

2 彼はふつうの一日分の労賃の支払いを約束して労働者を仕事に送り出しました。

3 “At nine o’clock in the morning he was passing through the marketplace and saw some people standing around doing nothing.

3 朝九時に彼が市場を通り抜けると、何もしないで立っている人たちを見かけました。

4 So he hired them, telling them he would pay them whatever was right at the end of the day.

4 そこで彼はその人たちに、一日の終わりに適切な額を払うからと言って、その人たちを雇いました。

5 So they went to work in the vineyard. At noon and again at three o’clock he did the same thing.

5 そこで彼らはぶどう園へ働きに行きました。正午と三時にも、彼はもう一度同じことをしました。

6 “At five o’clock that afternoon he was in town again and saw some more people standing around. He asked them, ‘Why haven’t you been working today?’

6 午後五時に彼は再び町にいて、人々がさらに立っているのを見ました。彼はその人たちにききました。『どうして今日は仕事をしなかったのですか。』

7 “They replied, ‘Because no one hired us.’  “The landowner told them, ‘Then go out and join the others in my vineyard.’

7 彼らは答えました。『だれも雇ってくれなかったからです。』地主は彼らに言いました。『それなら行って、私のぶどう園にいる人たちに合流しなさい。』

8 “That evening he told the foreman to call the workers in and pay them, beginning with the last workers first.

8 その夜、地主は職長に労働者たちを呼び入れて労賃の支払いをするように言いました。最後に雇った労働者から始めるようにと。

9 When those hired at five o’clock were paid, each received a full day’s wage.

9 五時に雇われた者たちが支払いを受けたとき、それぞれが一日分の労賃を受け取りました。

10 When those hired first came to get their pay, they assumed they would receive more. But they, too, were paid a day’s wage.

10 最初に雇われた者たちが支払いを受け取りに来たとき、彼らはもっともらえるだろうと思いました。しかし彼らも一日分の労賃を受け取りました。

11 When they received their pay, they protested to the owner,

11 彼らは自分たちの支払いを受け取ると、地主に抗議しました。

12 ‘Those people worked only one hour, and yet you’ve paid them just as much as you paid us who worked all day in the scorching heat.’

12 『あの人たちはたった一時間しか働いていません。なのにあなたは私たちと同じだけ支払いました。私たちはものすごい暑さの中、一日中働いたのです。』

13 “He answered one of them, ‘Friend, I haven’t been unfair! Didn’t you agree to work all day for the usual wage?

13 地主はそのうちのひとりに答えました。『友よ、私は不当ではありませんよ。あなたはふつうの労賃で一日働くと約束しませんでしたか。

14 Take your money and go. I wanted to pay this last worker the same as you.

14 自分のお金を受け取って帰りなさい。私はこの最後の労働者にも、あなたと同じだけ払いたかったのです。

15 Is it against the law for me to do what I want with my money? Should you be jealous because I am kind to others?’

15 私のお金で私のしたいことをすると、私は法律に違反するのですか。私が他の人に親切だから嫉妬しているのですか。』

16 “So those who are last now will be first then, and those who are first will be last.”

16 だから、いま最後の者がそのときには最初になり、最初の者は最後になるのです。」




ミニミニ解説

マタイの福音書第20章です。イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。第19章の冒頭でイエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。第19章はその後、イエスさまの話になりました。第20章は引き続き、イエスさまの話で始まります。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」にも「ルカ」にみ見つかりません。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはマタイの「独自の資料」からの編集ということになります。ですが、何と言うのでしょうか、この話はいかにもイエスさまらしい話だと思うのです。またこの話は、第19章の最後をしめくくったイエスさまの謎の言葉、「しかしいま偉大な者は一番重要ではなくなり、いま一番重要でない人がそのときには一番偉大になるのです。」の内容を説明する展開になっています。なので個人的には、この部分はイエスさまの言葉を集めた「Q資料」から、マタイが独自に採用して組み込んだのではないか、と思ったりします。

話の内容は、ぶどう園を持つ地主が、日雇いの労働者を求めて町に出て行き、次々と作業者を雇い入れていきます。雇い入れた回数は五回、それぞれ朝早く、午前九時、正午、午後三時、午後五時です。一日の最後に地主はその日の分の賃金を払うのですが、地主はそのときにまず、最後の午後五時に雇った労働者から順番に労賃を払い始めさせます。つまり早くから働いていた労働者ほど、支払いを待たされているわけです。長い間働いてヘトヘトだからさっさと労賃を受け取って帰りたいでしょうに。さらに驚いたことに、全員が同じ金額を受け取るのです。午後五時からたった一時間しか働いていない労働者が最初に丸一日分の労賃を受け取ったので、早くから働いていた労働者の間では期待が膨らみます(たった一時間で一日分なら、八時間で八日分ももらえるのか・・・)、が、払われた金額は契約どおりの一日分の労賃なのでした。

さてこの話での地主はもちろん神さまのことです。そして労働者が私たち人間です。一日のうち異なった時間に雇われた労働者は何を象徴しているのでしょうか。

まず私が最初に着目したのは、どれだけ長い間神さまのために働いた人も、ほんの少しだけ神さまのために働いた人も、神さまは同じように扱われると言うことです。これを見て最初に想像したのはユダヤ人と異邦人のことです。ユダヤ人は神さまから選ばれた民族です。その関係は、最初にユダヤ民族の父祖であるアブラハムが神さまと契約を結ぶところから始まっています。Genesis 15:9-21(創世記第15章第9節~第21節)を見てみましょう。神さまが最初にアブラハムと契約を結ぶ場面です。

「9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」 17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」([新改訳])。

アブラハムは神さまから呼び出されて供え物のいけにえを持って出ていきますが、日が暮れたころに眠らされてしまいます。「四百年の間」の話はユダヤ民族が飢饉を逃れてエジプトへ避難し、そこで奴隷生活を余儀なくされる苦難を指しています。この苦難の状況からユダヤ民族を脱出させたリーダーがモーゼです。第17節に「日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」とありますが、これは「炎」が、アブラハムが二つに裂いて列にして置いた雄牛や雌ヤギや雄羊の間を通り過ぎたことを言っています。こうやって「二つに裂いたいけにえの間を歩く」行為がユダヤ民族の契約の儀式だったようですが、今回、これを履行したのは「炎」の側だけです。アブラハムは眠っていたのです。つまりこれは神さまが一方的にユダヤ民族と交わした約束ということになります。

そしてGenesis 17:1-7(創世記第17章第1節~第7節)です。「1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」([新改訳])。

これはユダヤ民族繁栄の約束です。神さまがこのような約束を結んだのはユダヤ民族とだけです。ユダヤ人は神さまから見て特別な民族なのです。言うなればユダヤ人は一番最初の朝早くから、神さまのぶどう園で働く機会をいただいたのです。ところがイエスさまに関る救済の良い知らせ「福音」は、イエスさまの十字架死~復活の後、エルサレムを飛び出し、イスラエルから出て周辺諸国へ急速に広まっていきます。ペテロは「Acts(使徒の働き)」の中で啓示を受けて福音を異邦人へ伝え始めますし、最初はクリスチャンを迫害するファリサイ派急先鋒の一人だったパウロは、ダマスカスへ向かう途上でイエスさまと出会い、イエスさまから福音を広めるように指示されます。Acts 9:15(使徒の働き第9章第15節)でイエスさまはパウロのことを、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」([新改訳])と言っています。

こうしてイエスさまに関する福音は私たち日本人を含む異邦人にも広く知られることとなり、イエスさまの流された血によって私たちの「罪(sin)」の汚(けが)れは洗い流され、神さまの元へ行けることとなりました。つまり最初から神さまを知っていたユダヤ人も、最後の最後に福音によって神さまを知った異邦人も、神さまから受け取る贈り物は同じと言うことになったのです。

次に私が考えたのはクリスチャンのことです。クリスチャンとなってから、もう何年も長い年月を過ごしている人も、まだつい最近クリスチャンになったばかりの人も、神さまから受け取る贈り物は同じなのです。しかも同じ贈り物を受け取るのに、最初に神さまから呼ばれるのはクリスチャン歴の一番短い人なのです。

それから私は、早朝、たとえば午前六時から午後六時まで12時間働いても、夕方五時から一時間だけ働いても、もらえる賃金が同じだったときに、どうして早朝から働いた人は不満に思うのだろうか、と考えました。それはつまり、自分が余計に働いた11時間はどうなってしまうのか、それはまったく評価されないのか、という不満です。私たちが、この「余計に働いた11時間」をどうして問題にするのかと言うと、それは時間が貴重だからです。私たちにとっての時間は生まれてから死ぬまでの有限の財産だからです。私たちは例外なく誰もがいつかは死ぬ、そういう前提の上に私たちは生き、だからこそ「時間は貴重」という概念を共有しています。その貴重で有限な資源の中から大切な11時間を労働のために費やしたと言うのに、そのことはまったく評価されないのか、という主張なのです。

ここでも私は神さまは「時間を超越している」のだなぁ、と考えさせられます。神さまは「永遠を生きている」方です。永遠を生きている方には、きっと始まりも終わりもないのです。過去にも未来にも同時に存在しているのです。「神の遍在」という言葉があります。これは「神さまがどこにでも存在すると考えること」ですが、これを私たちは三次元の「空間」の中でいつも想像します。私たちが地球上の(宇宙空間の?)どこにいても、たとえ高い山の頂上にいても、あるいは自分以外に誰もいないトイレの個室の中にいても、「神さまは自分を見ている」と感じることができます。私たちはそのとき何となく上を見ますが、神さまは果たしてどこにいて、私たちを見ているのでしょうか。ずっとずっと高く上方にいると想像することもできるし、神さまがすべての空間を満たしている、つまり私たちは神さまのまっただ中、あるいは内側にいる、と想像することもできます。これと同じような想像を「時間」にもあてはめるのです。神さまは時間の端から端までのすべての場所に、同じ神さまが存在しているのです。う~ん。そんな想像は無理でしょうか。でももし神さまがそうやって時間という概念を超越しているのだとしたら、少なくとも時間は有限ではなく、自分の11時間をどうしてくれるのか、というような発想にはならないのではないか、と思います。

いや、神さまはどうしてそんなことをするのか、自分はそれでも不当に思う、と言う人もいるかも知れません。そんな人には第14節~第15節に答があります。神さまは自分の持ち物で何をしようと自分の勝手ではないか、と言っています。そもそもこの世界は神さまが創造されたもの、神さまが宇宙の王、創造主、全部が全部神さまのものなのです。そこをどのようなルールで支配しようと、それは神さまの自由です。私たち被造物には発言の権利はありません。天国は、こうやって私たちの想像をはるかに超越した神さまのルールが支配する場所なのです。だから第16節にあるように、私たちが天国に行くときには「いま最後の者がそのときには最初になり、最初の者は最後になる」のです。今私たちが持っている序列の価値観はまったく通用しなくなる、ということでしょう。







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