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2015年12月13日

マタイの福音書第19章第13節~第15節:イエスさまが子供を祝福する

第19章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Blesses the Children

イエスさまが子供を祝福する


13 One day some parents brought their children to Jesus so he could lay his hands on them and pray for them. But the disciples scolded the parents for bothering him.

13 ある日、親たちが、イエスさまに手を置いてお祈りをしていただこうと子供を連れて来ました。ところが弟子たちはイエスさまを煩わせるからと親たちを叱りました。

14 But Jesus said, “Let the children come to me. Don’t stop them! For the Kingdom of Heaven belongs to those who are like these children.”

14 しかしイエスさまは言いました。「子どもたちを私のところへ来させなさい。止めてはいけません。なぜなら天の王国はこのような子供たちのような人たちのものだからです。」

15 And he placed his hands on their heads and blessed them before he left.

15 そしてイエスさまはそこを去る前に、手を子供たちの頭の上に置いて祝福しました。




ミニミニ解説

マタイの福音書第19章です。

イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。第19章の冒頭でイエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。第19章はその後、イエスさまの話になっています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。

マルコは前回の続きのMark 10:13-16(マルコの福音書第10章第13節~第16節)です。

「13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」 16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」([新改訳])。

ルカはLuke 18:15-17(ルカの福音書第18章第15節~第17節)です。

「15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

今回の部分ではイエスさまの祝福を求めて親が自分たちの子供を連れて来ました。弟子たちがそれを見て咎めます。イエスさまの周囲にはいつも本当にたくさんの人たちが群れていて、イエスさまも弟子たちも気持ちが休まる暇がありませんでしたでしょうから、弟子たちはイエスさまを煩わすようなことをしないように、少しはイエスさまに静かな時間を与えてあげましょうと、親たちを叱ったのかも知れません。イエスさまはそれを否定して、子供たちを自分のもとに連れて来させます。そして「天の王国はこのような子供たちのような人たちのものだから」と言います。

何度か書いていますが、「このような子供たちのような人たち」の中の「子供たち」と言うときに、現代の日本の子供を想像すると判断を誤ります。2000年前のローマ帝国支配下のイスラエルでは、女性も子供も社会的な地位は無に等しかったのです。前回の離婚の話でもわかったように、当時は書面一つで男性が一方的に女性を離別できたようですし、子供はときには売買さえされていたようです。

さてイエスさまは今回、第14節で「天の王国はこのような子供たちのような人たちのもの」と言っています。またマタイでは省略されているようですが、マルコとルカには「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と書かれています。では「子供たちのような人」、「子どものように神の国を受け入れる者」とはどういう意味で書かれているのでしょうか。

小さな子供を呼んで、お菓子やおもちゃを与えると、子供はそれを受け取ろうとさっと手を出します。黙って受け取るとお母さんから「ありがとうは?」とたしなめられたりします。こちらが「あげるよ」と言ったときに、即座にさっと手を出す、この姿勢が、ここで言う「子どものように受け入れる」の意味だと思います。大人になるとなかなかこれができません。もらう理由がないだとか、代わりに差し出すものがないだとか言って、一方的な贈り物をすんなりもらうことができません。

聖書に書かれている「福音」は神さまからの一方的な贈り物なのです。神さまは天国にいて私たち人間をそこへ迎えたいと思っていますが、天国は神聖な場所なので汚(けが)れのある人は入れません。神さまの目から見た「汚れ」とは、私たち人間が行う神さまに対する裏切り行為のことです。神さまは私たち人間を造るときに、人間にはこのように振る舞って欲しいという意図を持って創造されましたが、私たちは創造以来、ずっと神さまの期待を裏切りっぱなしなのです。旧約聖書はユダヤ民族がどのように神さまを裏切り続けたかを書いたユダヤ民族の歴史書です。

ユダヤ人に限らず、すべての人間が神さまの期待を裏切ってガッカリさせ、結果として汚れています。人間は誰も天国に入る基準を満たすことができないのです。神さまは愚かな行為を繰り返す人間を見て、それでも人間を愛しているので、神さまの側から人間を救済する計画を実行しました。それが「福音」です。神さまはあらゆる人間の「罪(sin)」を背負って十字架の上で処刑させる目的でイエスさまを地上に派遣し、イエスさまは神さまの意図どおりに十字架にかかって死にました。聖書には「罪(sin)」を清めるのは血である、と書かれていますが、イエスさまは十字架の上で血を流し、その血が私たち人間の罪を洗い流したのです。

これはいまから約2000年前に完了した話です。人間のために罪を背負うイエスさまの処刑は済んだことです。だから、この神さまの救済計画を信じて、受け入れる、と表明する人には、それだけで天国行きがプレゼントされるのです。私たちに人間の側には失うものがなにもない、大変結構な話です。

だから私たちは子供のように手を出して、「ください」と言えば良いのです。たしなめられないように「ありがとうございます」と言った方が良いと思います。2000年前のイスラエルの子供は社会的に恵まれない身分にいて、何かを受け取っても本当に何も差し出せるものがなかったのです。そういう子供が手を差し出して、「ください」と乞うように、私たちも純粋な気持ちで「ありがとうございます。私にください」とお願いすればよいのです。








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