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2015年12月14日

マタイの福音書第18章第15節~第20節:他の信者を正すことについて

第18章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Correcting Another Believer

他の信者を正すことについて


15 “If another believer sins against you, go privately and point out the offense. If the other person listens and confesses it, you have won that person back.

15 「もし、他の信者があなたに対して罪を犯したら、こっそり行って気を悪くしたことを指摘しなさい。もしその人が話を聞いて認めたら、あなたはその信者を取り戻したのです。

16 But if you are unsuccessful, take one or two others with you and go back again, so that everything you say may be confirmed by two or three witnesses.

16 しかしもしうまく行かなかったら、他に一人か二人を一緒に連れて再び戻り、あなたの話すことのひとつひとつが、二人か三人の証人によって確認されるようにしなさい。

17 If the person still refuses to listen, take your case to the church. Then if he or she won’t accept the church’s decision, treat that person as a pagan or a corrupt tax collector.

17 もしその人がそれでも聞くことを拒むなら、このことを教会に持ち込みなさい。そしてその人が教会の決定を受け入れようとしないのなら、その人を異教徒か、堕落した徴税人のように取り扱いなさい。

18 “I tell you the truth, whatever you forbid on earth will be forbidden in heaven, and whatever you permit on earth will be permitted in heaven.

18 あなた方に本当のことを言います。あなた方が地上で禁じることはすべて天国でも禁じられ、あなた方が地上で認めることはすべて天国でも認められるのです。

19 “I also tell you this: If two of you agree here on earth concerning anything you ask, my Father in heaven will do it for you.

19 あなた方にこれも言っておきます。あなた方の頼むことについてどんなことでも、あなた方の二人が同じ意見ならば、天国の父はあなた方のためにそれをしてくださいます。

20 For where two or three gather together as my followers, I am there among them.”

20 なぜなら二人か三人が私の信者として集まる所には、私もその中にいるからです。」




ミニミニ解説

今回の話は「教会」についてです。ここで言う「教会」は、建物のことではなくて、集合的に「信者の集まり」のことです。マタイの福音書が書かれたのはイエスさまの十字架死~復活を経て、数十年も経った後、イエスさまに関する良い知らせ(福音)を知らせる教会の活動が行われていた時代です。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」には見当たらず、「ルカ」の中に、もしかしたらこれではないか、という部分が見つかります。Luke 17:3(ルカの福音書第17章第3節)です。そこには「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」([新改訳]) と書かれています。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マタイ」と「ルカ」に共通の記述が見つかるので、イエスさまの語録集である「Q資料」からの採用ということになります。おそらくとても短いルカの記述が「Q資料」の中のイエスさまの言葉に近く、マタイはこの語録を使って、自分たちの教会運用のルールとして大幅に編集して組み込んだのではないかと思います。エルサレムに出発する前のイエスさまが、数十年後の教会の運用についてここで意見を言うのはやや不自然な感じがしますので。

ここに書かれているルールは、「他の信者があなたに対して罪を犯したら」という設定で、その結果、あなたは「offense(気を悪くすること)」を感じるのです。この罪が具体的にどのようなことを指すのかは書かれていませんが、この人は最終的に教会の決定に従わなければ、異邦人として追放されてしまいます。きっと何か、自分が神さまを信じている気持ちを傷つけられるような、そんなことをしてあなたは神さまの前に恥ずかしくないのか、と言われてしまうような、そんな行為なのだと思います。

マタイの教会のルールは、そのようなときにはまず自分一人で行って、その人に告げるのです。その人が自分が悪かったと気がついて誤ったら許してあげます。ここはルカの記述と同じです。ルカでは特に一対一で話しなさい、とは言っていませんが。

マタイはその人が罪を認めない場合の続きをつけ加えています。そのときには教会のメンバーを一人か二人連れて行って、その人に同じことを言うのです。これはマタイの教会が独自に作ったルールではなくて、旧約聖書の考え方に基づいているのではないかと思われます。たとえば殺人を犯した者を死刑にせよ、と言う記述が、Numbers 35:30(民数記第35章第30節)にあります。「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。」([新改訳])。このように人を死刑にするには必ず複数の証人が必要なのです。ユダヤ民族は法を執行するためにはいつも証人を用意したのではないかと思います。なので特にユダヤ人の保守系の共同体を母体としたと思われるマタイの教会は、この複数の証人のルールを重視したのではないかと思います。

マタイの教会では証人を伴って、その人の非を咎めても、その人が自分の非を認めなかった場合は教会の出番です。そして教会がその人に有罪を告げるのです。判決は「その人を異教徒か、堕落した徴税人のように取り扱いなさい」です。これはつまりその人を共同体から追放せよ、ということです。

第18節はマタイの第16章でペテロがイエスさまを「あたなはメシア、生ける神の子です」と証言した場面で登場しています。Matthew 16:15-19(マタイの福音書第16章第15節~第19節)です。「15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」([新改訳]) 。

第16章を読んだとき、このうち第15節~第16節は「マルコ」から採用で、第17節~第19節はマタイ独自の資料であろう、と書きましたが、実はヨハネにも似た箇所があるのです。John 20:23(ヨハネの福音書第20章第23節)です。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」([新改訳])」。ここから考えられるのは、この言葉はイエスさまの言葉であり、イエスさまが弟子たちに権能を授けたときに言われた言葉なのかも知れない、と言うことです。つまり当時のイエスさまの信じる教会では、天国のイエスさまの下す判決の代行権を授かっている、と考えていたのかも知れません。

第19節はやはり神さまに対してお願いをするときには、自分だけの独りよがりの意見ではなく、誰かもう一人の証人が必要だという、ユダヤ教のルールが込められているように思えます。

第20節ではイエスさまが弟子たちの教会に与えた権能や、承認を得た祈りが叶えられる根拠として、イエスさまはそこに自分がいるからだと言っています。これは十字架死を経て復活し、天国へ戻ったイエスさまのことです。イエスさまは天国で私たち人間と創造主である神さまとの橋渡しをしてくださっています。イエスさまを信じる人の願いは、イエスさまがすべて神さまに取り次いで伝えてくださいます。そして神さまはそれに対するアクションを必ずとってくださるのです。お祈りや願いには叶うものも、叶わないものもあるのではなくて、神さまのとられるアクションがあまりにも深遠なので、私たちの理解を超越しているのです。

神さまは全知全能で、時間を超越していて、神さまご自身も、私たちひとりひとりの魂も、永遠に生き続けるという前提でアクションをとられます。だとしたら私たちが性急に結果を求める願いが、わかりやすい答えとして現れないことも十分に考えられます。が、神さまを信じる人の祈りは、ひとつひとつすべてが回答されているのです。なぜなら神さまは私たちの想像を絶するくらい誠実な方だからです。







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