マタイの福音書第18章第15節~第20節:他の信者を正すことについてマタイの福音書第18章第1節~第11節:王国で一番偉い人

2015年12月14日

マタイの福音書第18章第12節~第14節:いなくなった羊のたとえ話

第18章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Lost Sheep

いなくなった羊のたとえ話


12 “If a man has a hundred sheep and one of them wanders away, what will he do? Won’t he leave the ninety-nine others on the hills and go out to search for the one that is lost?

12 「もしある人が羊を百匹持っていて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人はどうするでしょうか。丘に九十九匹を残して、いなくなった一匹を探すために出て行かないでしょうか。

13 And if he finds it, I tell you the truth, he will rejoice over it more than over the ninety-nine that didn’t wander away!

13 そしてもしその一匹を見つけたとしたら、あなた方に本当のことを言いますが、彼は迷い出なかった九十九匹の羊のこと以上に、その一匹を喜ぶのです。

14 In the same way, it is not my heavenly Father’s will that even one of these little ones should perish.

14 同じように、この小さい者たちのたった一人でも滅びることは、私の天の父の意図するところではありません。




ミニミニ解説

マタイの福音書第18章はイエスさまがいよいよエルサレムへ出発する前に、カペナウムで語られたという形でイエスさまの語録集を収めています。前回までは人が天国に入るための条件と、人が地獄へ落とされる可能性についての話でした。そして、その地獄へ落とされる可能性の話の中では、イエスさまを信じる「小さな者」たちのひとりでも、その人を罪に落ちるようにさせてしまう人がいたとしたら、その人は首に大きな石臼をくくりつけられて海の深みでおぼれ死んだほうがましだ、と書かれていました。

ここに書かれている「小さな者」と言うのは、取るに足らないちっぽけな存在の意味です。2000年前のイスラエルでは、たとえば女性も子供も人権や人格を与えられておらず、ときには売買の対象にさえなっていました。「取るに足らないちっぽけな存在」とはまさしくそういう存在のことを言っています。平等で豊かなことが当たり前のいまの日本の世の中ではちょっと想像することが難しいかも知れません。今回の、いなくなった羊のたとえ話では、神さまがそういうちっぽけな存在の一人をも気にかけているという話です。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」には見当たらず、「ルカ」に見つかります。Luke 15:3-7(ルカの福音書第15章第3節~第7節)です。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用ということになります。ルカの中でも、この話が登場する第15章は前回までの引用箇所から離れていて、マタイとルカが「Q資料」から引用したイエスさまの語録を、それぞれ独自に編集して福音書に組み込んだことがうかがえます。

「3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。 7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」([新改訳]) 。

同じ迷子になった一匹の羊を探し出す話なのですが、マタイとルカではちょっと文脈が違う印象を受けます。ルカでは、もし百匹の中の一匹の羊がいなくなったら、その一匹を探しに行き、その探していた一匹が見つかったとしたら、迷子にならなかった九十九匹のことよりも喜びはうれしい、という話になっています。

この迷子になった一匹を、ルカは「悔い改めたひとりの罪人」とし、残りの九十九人を「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」としています。この世の中に悔い改める必要のない人と言うのは存在しませんから、ここは「悔い改める必要はないと自分で思っている人」の意味でしょう。自分はいまのままで、十分に神さまに喜ばれている、神さまをガッカリさせることなどしていないと思っている、つまりは傲慢な人たちのことです。そういう人たちよりも、謙虚に自分の罪を認めて改める人を神さまは喜ぶのだよ、と言う話になっています。

一方、マタイは迷子になった一匹を「小さい者=取るに足らないちっぽけな者」にたとえます。つまり神さまには大切に思わない人など一人もいない、社会で取るに足らないとされている「小さな者」だって神さまはきちんと気にかけているのだよ、という話にしています。







english1982 at 21:00│マタイの福音書 
マタイの福音書第18章第15節~第20節:他の信者を正すことについてマタイの福音書第18章第1節~第11節:王国で一番偉い人