マタイの福音書第18章第12節~第14節:いなくなった羊のたとえ話マタイの福音書:第18章

2015年12月14日

マタイの福音書第18章第1節~第11節:王国で一番偉い人

第18章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Greatest in the Kingdom

王国で一番偉い人


1 About that time the disciples came to Jesus and asked, “Who is greatest in the Kingdom of Heaven?”

1 そのころ、弟子たちがイエスさまのところに来てたずねました。「天の王国で、一番偉いのは誰ですか。」

2 Jesus called a little child to him and put the child among them.

2 イエスさまは小さな子どもを呼んで、子供を弟子たちの中に立たせました。

3 Then he said, “I tell you the truth, unless you turn from your sins and become like little children, you will never get into the Kingdom of Heaven.

3 イエスさまは言いました。「あなた方に本当のことを言います。あなた方が自身の罪から向き直り、小さな子どもたちのようにならなければ、決して天の王国には入れません。

4 So anyone who becomes as humble as this little child is the greatest in the Kingdom of Heaven.

4 ですから、この子どものようにつつましくなる者が、天の王国で一番偉い人です。

5 “And anyone who welcomes a little child like this on my behalf is welcoming me.

5 そして、このような小さな子どもを、私ゆえに喜んで受け入れる者は、私を喜んで受け入れるのです。

6 But if you cause one of these little ones who trusts in me to fall into sin, it would be better for you to have a large millstone tied around your neck and be drowned in the depths of the sea.

6 しかし、あなた方が、私を信じる小さな者たちのひとりでも罪に落ちるようにさせるのなら、自分の首に大きな石臼をくくりつけられて、海の深みでおぼれ死んだほうがましです。

7 “What sorrow awaits the world, because it tempts people to sin. Temptations are inevitable, but what sorrow awaits the person who does the tempting.

7 どれほどの悲しみが世を待ち受けているでしょうか。なぜなら世は人々に罪を犯すようにと企てるからです。誘惑は避けられません。が、誘惑を行う者をどれほどの悲しみが待ち受けているでしょうか。

8 So if your hand or foot causes you to sin, cut it off and throw it away. It’s better to enter eternal life with only one hand or one foot than to be thrown into eternal fire with both of your hands and feet.

8 だからもし、あなたの手か足があなたに罪を犯させるのなら、それを切り落として捨てなさい。両手両足を持って永遠の火に投げ込まれるよりは、片手か片足で永遠のいのちへ入る方が良いのです。

9 And if your eye causes you to sin, gouge it out and throw it away. It’s better to enter eternal life with only one eye than to have two eyes and be thrown into the fire of hell.

9 そしてもし、あなたの目があなたに罪を犯させるのなら、それをえぐり出して捨てなさい。両目を持って永遠の火に投げ込まれるよりは、片目で永遠のいのちへ入る方が良いのです。

10 “Beware that you don’t look down on any of these little ones. For I tell you that in heaven their angels are always in the presence of my heavenly Father.

10 このような小さな者たちのどんな者でも、見下したりしないように気をつけなさい。なぜならあなた方に言いますが、天国では彼らの天使たちが、いつも天国の私の父の前にいるからです。

11 [And the Son of Man came to save those who are lost.]

11 [そして人の子は、失われた者たちを救うために来たのです。]




ミニミニ解説

前章までにイエスさまは二度にわたり、自分の死を予告し、いよいよエルサレムへ向けて出発しようとしています。マタイでは第18章に、イエスさまがエルサレムへ出発する前にカペナウムで語られた形で、イエスさまの語録集を収めています。

前半の第1節~第5節と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。

マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:33-37(マルコの福音書第9章第33節~第37節)です。「33 カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」 34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」」([新改訳])。

ルカは大変短くて、やはり前回の続きで、Luke 9:46-48(ルカの福音書第9章第46節~第48節)です。「46 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」([新改訳])

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用しながら、オリジナルの記述をばっさりと省略していることがわかります。マルコでは弟子たちは「誰が一番偉いのか」を論じ合っていて、イエスさまから「何を論じ合っていたのか」と問われて、恥ずかしくて答えられずに沈黙するのですが、マタイではその部分は割愛されて、いきなり弟子の質問からスタートしています。その間、イエスさまが話された「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」という大切な言葉も省略されてしまっています。

弟子たちは「誰が一番偉いのか」を論じ合っていたのでした。これはどこにでもあるふつうの議論です。子供たちの遊び仲間の間でも、夫婦間でも、仲間内でも、会社でも、口に出そうと出すまいと、みんな「誰が一番偉いのか」を問題にしています。弟子たちの議論は、いまエルサレムに向かおうとしているこの瞬間、誰が一番偉いのかを話していたのかも知れませんし、やがて来るイエスさまが復活させるイスラエル王国の中で、誰が一番上の位に取り立てられるべきかを話していたのかも知れません。あるいはイエスさまが自分の死を予告し始めたので、イエスさまがいなくなった後、誰がグループを仕切るのか、それを話していたのかも知れません。

これに対するイエスさまの答えは、マルコではイエスさま特有の謎かけに様な答えになっていました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 今回、マタイはこの部分を省略していますので、私の解説も省略します。

マタイでのイエスさまは、弟子たちが「天の王国で、一番偉いのは誰ですか」と質問したのに対し、小さな子供を一人連れてきて、 「あなた方が自身の罪から向き直り、小さな子どもたちのようにならなければ、決して天の王国には入れません」と答えています。

まず驚かされるのは、弟子たちが当然の前提としていた「天の王国入り」について、二つの条件が提示されたことです。第一に「自身が罪から向き直ること」、第二に「小さな子どもたちのようになること」、この二つの条件が満たされなければ、天の王国に入ることができないのです。王国に入れなければその中で上になるとか下になるとか、その議論自体に意味がありません。イエスさまが私たちがこだわるべき最大の関心事としているのは、上とか下とかではなくて、天の王国に入ること(天国に行くこと)、そこで神さまと一緒になることです。

天の王国に入るための最初の条件、「自身が罪から向き直ること」は、旧約聖書の中の預言者たちが、また福音書では洗礼者ヨハネが、繰り返しユダヤ人に訴えかけたメッセージです。まず自分の罪を認めることですが、ここで言う「罪(sin)を認める」とは自分がどれほど神さまの期待を裏切ってガッカリさせて来たかに気づくことです。そしてそのことを心の底から深く悔いて申し訳ないことをしてきたと思うこと、そしてさらにその罪と決別して、これから先は、神さまの目の中に正しく映る道を歩む、とそう心に決めることです。

天の王国に入るためのもう一つの条件は「小さな子どもたちのようになること」です。これは子供のように純粋無垢な心を持つ、と言う意味ではありません。これは2000年前のイスラエルで語られた言葉です。当時の小さな子供は「純粋無垢な心」の象徴ではありません。ローマ帝国の支配下にあって、成人前の子供は奴隷同然の扱いでした。これは女性の地位についても同様です。そのような状況下で女性や子供にスポットライトを当てる聖書という書き物は革命的な本なのです。

子供に話を戻します。当時の子供は奴隷同然の存在でした。ときには売買さえされました。だとすれば「小さな子どもたちのようになる」とは、社会の最下層の奴隷同然のちっぽけな存在に自分の身を置く、そういうことです。いまこの時代に思い浮かべられる人権も与えられない最下層の存在とは何でしょうか。そこに思いをはせてみてください。そして自分をその対象と同じ立場に置くこと、これが天国に入るための第二の条件です。これは説明を省略したマルコに書かれていたイエスさまの言葉、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」にもつながります。

イエスさまによれば、自分の罪を認めてそこから向き直ることのできる人、自分をちっぽけなつまらない存在に置くことができる人が、神さまの王国に入れるのです。

第5節では、「このような小さな子どもを、私ゆえに喜んで受け入れる者は、私を喜んで受け入れる」と書かれています。ここでは「私ゆえに」、つまりイエスさまとの関わりを理由として、世の中の最下層の存在を受け入れることができる者、そういう人がイエスさまを喜んで受け入れる人だと言っています。マルコではここは「わたしの名のゆえに受け入れる」となっていて、これはイエスさまの名代(代理人)として、そういう存在を受け入れることができる人、の意味でしょう。


後半の第6節~第11節と同じ部分の記述は「マルコ」に見られます。マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:38-41(マルコの福音書第9章第38節~第41節)の4節分は引用されず、その次のMark 9:42-48(マルコの福音書第9章第42節~第48節)が該当箇所です。引用されなかった4節部分に書かれていた内容は、自分たちに以外にもイエスさまの名前を使って悪霊を追い出している者がいる、との報告が弟子から入りますが、イエスさまはそれに対して「その人たちは自分たちの味方だ」と言うくだりです。

では、マルコの類似部分を読んでみましょう。「42 また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。43 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。44 {そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。} 45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。46 {そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。} 47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」([新改訳]) 。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用しながら、オリジナルの記述に少し編集を加えていることがわかります。

ここに書かれているのは、前半の天国に入るための条件に対比して、人が地獄に落とされる可能性についての記述になっています。その可能性とは、第6節に「私を信じる小さな者たちのひとりでも罪に落ちるようにさせる」こととあり、第7節ではこれを言い換えて「誘惑を行う者」と書いています。第7節はマタイが独自に追加した部分です。

ではどのような人が「人を罪に落とさせる人」や「誘惑を行う者」なのでしょうか。これについては具体的な説明がありませんので類推せざるを得ません。「人を罪に落ちるようにさせる」を類推するには、まず、聖書に言う「罪(sin)」の意味の確認になりますが、これは何度も書いてきたように「神さまをガッカリさせること」全般です。

それでは果たして何が神さまをガッカリさせるのか、その判断は大変難しいです。ですが私たちには誰にも漠然と感じられる「良心」があります。神さまは最初に人間を創造されたときに、ご自身の姿に似せて創造されたとあります(Genesis 1:26/創世記第1章第25節)。これが地球上で人間だけがほかの動物と違う生き方をする理由です。そしてどうやら、何が善であるか悪であるかは、わざわざ聖書を読むまでもなくひとりひとりの人間の心に神さまが書き込んでくださっているのです。人のものを盗んだり、人を傷つけたり、人を裏切ったり、そういうことが悪であると、私たちはいつの間にか知っています。これが神さまが私たちの心に書いてくださった善悪の基準です。聖書を読むと、その基準がより明確にわかります。

イエスさまが今回話している人が地獄に落とされる可能性とは、そういう悪を行う人ではなくて、そういう悪を人に行わせる、そんな誘惑をする人のことです。ですがこれも難しいです。いったい自分のどんな行動が、人を悪へ誘ってしまうのか、それはとてもわかりません。ですがビクビクして生きていても仕方ありません。私が大切だと思うのは、神さまの目を意識して生きることです。自分の言動は、果たしていま神さまの目に正しく映っているだろうか、できるだけその意識を絶やすことなく生きるのです。そのときに神さまと会話ができればもっと良いと思います。「どうですか。いまの私は神さまの目にどのように映っていますでしょうか。どうか私が神さまをガッカリさせることのないように私を導き助けてください。私のすることや言うことが神さまに栄光をもたらすことができるように、私をたくさん祝福してください」と心の中で神さまと会話しながら生きるのです。少なくともこのような姿勢で生きようとする自分が、神さまにとって少しでも喜びであるとうれしいのですが。

続く第8節からは、手を切り落としてしまえ、足を切り落としてしまえ、目をえぐり出してしまえ、とイエスさまの大変恐ろしい言葉が続きます。これらが私たちに罪を犯させるものだと言うのです。

まず「目」。私たちの目はキョロキョロと忙しく動いて、自分を罪に走らせる情報を次々と拾い集めてきます。自分が持っていない者を所有している他人の姿、自分の気に入らないことをする他人の姿、そして見目麗しい異性の姿。そういう情報が次々と目から飛び込んできて、他人を羨ませたり、憎ませたり、不道徳な気持ちを抱かせたりします。次に「足」です。あれが欲しい、あの人が憎い、あの異性に近づきたい、そうやって「目」から入った情報から生じた気持ちを育てていくと、自分はついに「足」を動かして行動を起こし、目的の対象へと近づいて行きます。そして最後に「手」。いよいよ最後の最後に私たちは手に入れたいものや人に手を伸ばして、不当に手に入れたり、あるいは自分の手で人を傷つけてしまいます。

だったら、目も足も手もなければ、罪の犯しようがないではないか、だからいっそのこと切り落としてしまえ、その方が罪を犯すよりはましでしょう、というのがここのメッセージです。でもどうでしょうか。果たして自分の手足を切り落とし、目をえぐり出したら、自分の罪は止まるのでしょうか。そんなことはないと思います。手に入る情報ならなんでも使って妄想を膨らませ、なんとかそれを行動に移す方法はないものかと、残された身体を使ってあらゆる画策をする、それが人間の姿だからです。そもそも神さまは人の心をご覧になる方です。だから、自分で妄想を育て始めた時点で、目や手足があってもなくても、自分はもう神さまをガッカリさせてしまっているのです。

だからここの部分は、実際に手足を切り落とせとか、目をえぐり出せと言っているのではないと思います。実際にそういうことをした弟子の記述も聖書にはどこにもありません。それくらいの覚悟を持って罪と対峙しなさい、自分で罪を何とかできるなどとは思わず、罪に至りそうな可能性を感じたら一目散に逃げなさい、聖書はそう教えています。

人が落とされる地獄の記述はマルコの中に大変恐ろしく書かれています。そこでは落とされた人を食ううじが尽きることがなく、火も消えることがないのです。人の魂は不滅ですから、地獄に落とされた人は永遠にうじに食われ、火に焼かれることになります。私はそんなところへは行きたくありません。

最後の第10節と第11節は、マタイ独自の追加のようです。






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