マタイの福音書第17章第22節~第27節:イエスさまが再び死を予告する、寺院税の支払いマタイの福音書第17章第1節~第13節:変容

2015年12月15日

マタイの福音書第17章第14節~第21節:イエスさまが悪魔に取り憑かれた少年を癒やす

第17章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Heals a Demon-Possessed Boy

イエスさまが悪魔に取り憑かれた少年を癒やす


14 At the foot of the mountain, a large crowd was waiting for them. A man came and knelt before Jesus and said,

14 山の麓でたくさんの群衆が一行を待っていました。男の人がひとり、イエスさまのところへ来てひざまずいて言いました。

15 “Lord, have mercy on my son. He has seizures and suffers terribly. He often falls into the fire or into the water.

15 「主よ。私の息子をあわれんでください。発作が出て、ひどく苦しんでいます。何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりするのです。

16 So I brought him to your disciples, but they couldn’t heal him.”

16 そこで、その子を主の弟子の方々のところへ連れて行きましたが、治すことができませんでした。」

17 Jesus said, “You faithless and corrupt people! How long must I be with you? How long must I put up with you? Bring the boy here to me.”

17 イエスさまは言いました。「あなた方は不信仰で堕落した人たちです。どのくらいの間、私はあなた方といっしょにいなければならないのですか。どのくらいの間、あなた方にがまんしなければならないのですか。その子を私のところに連れて来なさい。」

18 Then Jesus rebuked the demon in the boy, and it left him. From that moment the boy was well.

18 それからイエスさまは、その子の中の悪魔を叱りつけ、悪魔はその子から出て行きました。そのときからその子は具合が良くなりました。

19 Afterward the disciples asked Jesus privately, “Why couldn’t we cast out that demon?”

19 後で弟子たちはイエスさまにこっそりたずねました。「なぜ私たちにはあの悪魔を追い出せなかったのですか。」

20 “You don’t have enough faith,” Jesus told them. “I tell you the truth, if you had faith even as small as a mustard seed, you could say to this mountain, ‘Move from here to there,’ and it would move. Nothing would be impossible.”

20 イエスさまは弟子たちに言いました。「あなた方には十分な信仰がないのです。あなた方に本当のことを言います。もしあなた方に、ほんのからし種ほどの大きさの信仰があったら、あなた方はこの山に向かって『ここからあそこへ移れ』と言えるのです。そして山は移ります。不可能なことはありません。」

21 [But this kind of demon won’t leave except by prayer and fasting.]

21 [ですが、この種の悪魔は祈りと断食によらなければ出て行きません。]




ミニミニ解説

マタイの福音書第17章です。前回、イエスさまはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてピリポ・カイザリヤの近くの山に登り、おそらく山中でお祈りをしている間にイエスさまの顔が太陽のように輝き、衣服が光のように白くなる「変容」が起こりました。今回はその後で彼らが山から下りてきたところの場面です。

今回と同じ記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。

マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:14-29(マルコの福音書第9章第14節~第29節)です。「14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。15 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。18 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」 19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」 23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」 25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」 26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」 29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈り{と断食}によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」([新改訳])。

今回の部分の最後に書かれている、「信仰があれば山に向かって動けと言えば動く」の部分はマルコのほかの部分に書かれています。これは一行がエルサレムに到着した直後の場面です。Mark 11:19-24(マルコの福音書第11章第19節~第24節)です。「19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」 22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」([新改訳])。

ルカも前回の続きにあたる、 Luke 9:37-42(ルカの福音書第9章第37節~第42節)です。「37 次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。38 すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。39 ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。40 お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」 41 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」 42 その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は、「マルコ」からの採用ですが、マタイはマルコの記述をかなり簡略化していることがわかります。また最後の部分は別の箇所から引用して組み合わせて編集しています。

第14節、山を下りてきたイエスさまのところへ男性が一人歩み寄ってきます。マタイでは省略されていますが、山を下りてきたイエスさまたちが目撃したのは、麓に残してきたほかの弟子たちがぐるりと群衆に取り囲まれていて、その輪の中心では律法学者、つまりファリサイ派の人たちが弟子たちに議論を仕掛けている、そんな場面でした。

第15節~第16節で、この男はイエスさまに自分の息子を助けてほしいと願い、実は弟子のところへ連れて行ったのだけれど、弟子たちには解決できなかったのだ、と話します。ということはたくさんの群衆を集めて行われていた議論とは、子供を助けることのできなかった弟子たちに、好機とばかりにファリサイ派が言いたい放題の議論を仕掛け、弟子たちはどうすることもできずに窮地に立たされていたのではないか、と考えられます。

マタイでは省略されていますが、オリジナルのマルコでは山から下りてきたイエスさまを見た群衆が「驚いた」と書かれています。イエスさまは山上で、神さまとの深く長い祈りの途中で姿が変容し、その過程を経て、おそらく何か並々ならぬ威厳のようなものをまとったのではないかと思います。

第17節でイエスさまが人々の不信仰を嘆き怒りますが、これは、いつまでも「信仰」の意味を理解しないまま癒やしや悪魔払いの施術を行っている弟子たちについても、それがひとたびうまくいかないところを見つけると軽率な議論を仕掛けるファリサイ派についても、そしてその議論を楽しむかのように取り巻いて見ている群衆に対しても、悲しみ、怒っているのでしょう。イエスさまは神さまとの会話を経て、いよいよ重大な決心を固めてエルサレムへ出発しようとしているのです。いまここに旧約聖書の預言がことごとく実現する史上最大のイベントが幕を開けようとしています。それなのにいつまでも理解するそぶりさえ見せずに、次元の違う議論を続ける人々を見て、嘆き怒っているのです。

第18節、イエスさまは子供の中の悪霊を叱りつけ、悪霊は子供から去って行きます。イエスさまは100%、神さまへの信仰の上に立って生きている存在です。神さまの意志をなし、神さまの目に正しく映る存在です。だからイエスさまの命じることは、神さまがすべて実行してくださるのです。

第19節で、弟子たちはどうして自分たちには悪霊を追い出せなかったのか、とイエスさまにたずねます。イエスさまはマタイの第10章で、十二人の使徒に、悪霊を追い出し、あらゆる病気を癒す権威を授けているのです。それにも関わらず、弟子たちはこの悪霊を追い出すことができませんでした。弟子たちにはそれが不思議なのです。

マルコの最後のところに書かれている一節、「この種のものは、祈り{と断食}によらなければ、何によっても追い出せるものではありません」の部分は、マタイではカッコの中に入っています。これは発見された聖書の原典の中に、この箇所が表記されたものとそうでないものの二種類が存在したので、こういう表記になっています。マルコには存在する節ですから、もともとは書かれていたようです。ここを読むと、どうやらこの子供の中にいた悪霊は別の悪霊とは格が違っていて、そもそも弟子たちの手には負えなかったようです。

それにしても悪霊は「信仰」によって追い出すものなのです。弟子たちはそれがわかっていませんでした。では「信仰」とはなんでしょうか。「あぁ、信仰の薄い人たち」とイエスさまに言われて、ドキリとする信者は少なくないでしょう。自分の信仰は弱いのではないか、薄いのではないか、と思い悩む信者はたくさんいます。でもそれは「自分が神さまを信じる力」を測る考え方です。これだとどこかで必ずくじける日が来ます。人間はつまらない存在なのです。聖書の中で何度も何度も繰り返し神さまを裏切り続けます。自分は違う、自分だけはそうしない、自分だけは絶対に神さまをガッカリさせない、という考え方は、聖書の中で負け続けます。

人間は神さまをガッカリさせずにはいられない愚かでつまらない存在なのです。それなのに神さまは、そんな人間を救うためにわざわざイエスさまを遣わしてくださいました。そのイエスさまは、旧約聖書で預言されたとおりに、史上最悪の残虐刑である十字架にかかって、私たちのために苦しい苦しい死を味わうのです。そのイエスさまの流した血が、私たち人間の愚かさ、つまらなさを洗い流す、そういう話です。ありえない、ありがたい、申し訳ない話なのです。だから「福音(良い知らせのこと)」なのです。「信仰」とは、それほど素晴らしい神さまの愛を、尽きることのない全知全能の力を信じることです。

何が神さまの目から見て正しいのか、聖書では「義」と表現されますが、それを書いた箇所がルカにあります。Luke 18:9-14(ルカの福音書第18章第9節~第14節)です。「9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」([新改訳])。神さまの前に立ったら、ありがたくて、同時に申し訳なくて、顔も上げられず、跪いて、自分の胸をたたいて、自分がどれほどの罪人であるかを告白して謝罪し、憐れを乞う、そういう姿勢の人が義と認められるのです。






english1982 at 21:00│マタイの福音書 
マタイの福音書第17章第22節~第27節:イエスさまが再び死を予告する、寺院税の支払いマタイの福音書第17章第1節~第13節:変容