マタイの福音書第17章第14節~第21節:イエスさまが悪魔に取り憑かれた少年を癒やすマタイの福音書:第17章

2015年12月15日

マタイの福音書第17章第1節~第13節:変容

第17章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Transfiguration

変容


1 Six days later Jesus took Peter and the two brothers, James and John, and led them up a high mountain to be alone.

1 六日後、イエスさまはペテロと、ヤコブとヨハネの兄弟を連れて、彼らだけになるために高い山の上へと導いて行きました。

2 As the men watched, Jesus’ appearance was transformed so that his face shone like the sun, and his clothes became as white as light.

2 弟子たちが見ていると、イエスさまの姿が変わり、顔が太陽のように輝き、衣服は光のように白くなりました。

3 Suddenly, Moses and Elijah appeared and began talking with Jesus.

3 突然、モーゼとエリヤが出現して、イエスさまと話し始めました。

4 Peter exclaimed, “Lord, it’s wonderful for us to be here! If you want, I’ll make three shelters as memorials -- one for you, one for Moses, and one for Elijah.”

4 ペテロが叫びました。「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。もしお望みであれば記念に私がここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーゼのために一つ、エリヤのために一つ。」

5 But even as he spoke, a bright cloud overshadowed them, and a voice from the cloud said, “This is my dearly loved Son, who brings me great joy. Listen to him.”

5 しかしペテロが話していると、輝く雲が人々に覆い被さり、、雲の中から声が聞こえました。「これは私に大きな喜びをもたらしてくれる、私が心から愛する息子です。彼の言うことを聞きなさい。」

6 The disciples were terrified and fell face down on the ground.

6 弟子たちは恐れおののき、地面にひれ伏しました。

7 Then Jesus came over and touched them. “Get up,” he said. “Don’t be afraid.”

7 それからイエスさまがやって来て、弟子たちに触れて言いました。「立ちなさい。恐れないで。」

8 And when they looked up, Moses and Elijah were gone, and they saw only Jesus.

8 それで弟子たちが顔を上げると、モーゼもエリヤもおらず、イエスさまだけが目に入りました。

9 As they went back down the mountain, Jesus commanded them, “Don’t tell anyone what you have seen until the Son of Man has been raised from the dead.”

9 彼らが山を降りて行くと、イエスさまが弟子たちに命じました。「人の子が死者の中からよみがえるときまで、あなた方が目撃したことは誰にも話してはいけません。」

10 Then his disciples asked him, “Why do the teachers of religious law insist that Elijah must return before the Messiah comes?”

10 弟子たちはイエスさまにたずねました。「どうして律法学者たちは、メシヤが来る前にエリヤが来るはずだと言い張るのですか。」

11 Jesus replied, “Elijah is indeed coming first to get everything ready.

11 イエスさまが答えました。「本当のところ、エリヤはすべての準備を整えるために最初に来るのです。

12 But I tell you, Elijah has already come, but he wasn’t recognized, and they chose to abuse him. And in the same way they will also make the Son of Man suffer.”

12 しかし私はあなた方に言います。エリヤはもう来たのです。ところが彼は気づかれませんでした。そして彼らはエリヤをそまつに扱ったのです。そして同じように彼らは人の子をも苦しみに遭わせるのです。」

13 Then the disciples realized he was talking about John the Baptist.

13 弟子たちはイエスさまが洗礼者ヨハネのことを話しているのだと気づきました。




ミニミニ解説

マタイの福音書第17章です。第16章の最後ではイエスさまがいよいよ自分の十字架と復活を予告しました。

今回と同じ記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。

マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:2-13(マルコの福音書第9章第2節~第13節)です。「2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。4 また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。10 そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。11 彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」 12 イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。13 しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」([新改訳])。

ルカも前回の続きにあたる、Luke 9:28-36(ルカの福音書第9章第28節~第36節)です。「28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。 30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、31 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は、「マルコ」からの採用です。

今回の部分は「Six days later(六日後)」という書き出して始まっていますが、これが果たして何から数えて6日後なのかはよくわかりません。第16章からの続きだとするとピリポ・カイザリヤでイエスさまが自分の十字架と復活を予告してから6日後、ということになります。ちなみにルカでは8日後の記述になっています。

イエスさまはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて山に登ります。この三人はいつもイエスさまの近くで活動していた三人で、イエスさまの側近とも言える人たちです。数々の奇跡を自分たちの目で目撃しました。

ピリポ・カイザリヤは標高2,800メートルのヘルモン山の麓にある町です。周囲には山がたくさんある風光明媚なところです。ルカには「祈るために山に登られた」と目的が書かれています。これまでもイエスさまが一人で山に登ってお祈りをする場面がありました。イエスさまはこれからエルサレムに行くにあたり、神さまと長く深く会話する必要があったのです。

聖書の中では「山」は神さまと会う場所なのです。今回登場する旧約聖書に登場する二人の人物も山へ登っています。モーゼはシナイ山の上で神さまから十戒を授かりましたし、預言者エリヤはアハブ王の妻イゼベルを逃れてホレブ山にたどり着き、そこでで神さまと出会います。イエスさまが大切な祈りのために山へ向かうのは、聖書の中では自然なことなのです。

第2節、イエスさまの「変容」が始まります。おそらくイエスさまがお祈りを捧げている間に起こった出来事なのではないかと思います。イエスさまの顔が太陽のように輝き、衣服は光のように白くなります。

「顔が光り輝く」変容は、モーゼが神さまから十戒を授かったときにも起こっています。Exodus  34:28-30(出エジプト記第34章第28節~第30節)を読んでみましょう。「28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。」([新改訳])。

「白い衣服」は、終末論を詳細に書いた新約聖書最後の本、「Revelation(ヨハネの黙示録)」に何度か登場します。イエスさまと共に天から降りて来る軍勢や、イエスさまが十字架で流す血によって罪を洗い流された人々がまとう着物の色は純白です。白は罪のないことを象徴する色なのです。イエスさまはお祈りによって神さまと深く接触したことで、まるでモーゼが神さまと接触した後のように顔が輝き、衣服が光のように白くなりました。

第3節、そこにモーゼとエリヤが出現してイエスさまと話し始めます。どちらも旧約聖書の登場人物です。モーゼはイエスさまの時代から約1500年前、エリヤは800~900年前の人物です。モーゼは死んで葬られましたが、エリヤは死んでいません。死ぬ前に神さまが天へ連れ去りました(そういう人間は聖書上では二人しかいません)。果たしてモーゼとエリヤはどこから現れたのでしょうか。死んだ者も、死んでいない者も、同じように現れてイエスさまと話しています。

第4節、ペテロが叫びます。「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。もしお望みであれば記念に私がここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーゼのために一つ、エリヤのために一つ。」 ペテロは興奮してわけがわからなくなっているようです。「幕屋」というのは[NLT]では「shelter」、[KJV]では「tabernacle」となっています。これはモーゼがシナイ山で神さまから製作の方法を細かく指示された移動式のテント型神殿のことです。最終的にイスラエル第三代の王のソロモンが、エルサレムに豪壮な神殿を建築したので、この移動式神殿は不要になりました。ペテロは三人のためにこの移動式の神殿を一つずつ造りましょうと提案したのです。神殿はエルサレムに一つだけ、神さまのために存在するものと決まっているのですから、明らかに気が動転してどうかしていると思います。

第5節では、そうやってペテロが話している間に輝く「雲」が出現します。旧約聖書では「雲」は神さまの象徴なのです。神さまが現れるときには必ずあたりを雲が包みます。モーゼが神さまと語るためにシナイ山に登ると山全体がすっぽりと雲に包まれますし、モーゼが神殿で神さまと話すときにはいつも上空に雲が出現しました。この雲はエジプトを脱出したユダヤ人が、パレスチナに入るまで40年間砂漠を放浪した間、ずっと彼らの上にありました。日中は彼らを強い日差しから守り、夜間には炎となって彼らを砂漠の冷気から守りました。神さまはあまりにも神聖なので、私たち人間のような卑しい存在には直視することができません。神さまが自らの姿を雲で包むのは、人間が神さまを直視することのないように、神さまが配慮してくださっているのではないか、と思います。

そして弟子たちを包んだ輝く雲の中から声がします。「これは私に大きな喜びをもたらしてくれる、私が心から愛する息子です。彼の言うことを聞きなさい。」 これはイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときに聞こえた声と似ています。マタイは、Matthew 3:16-17(マタイの福音書第3章第16節~第17節にあります。「16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17  また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」([新改訳])。

イエスさまがやって来て弟子たちが我に返ると、そこにはもうモーゼもエリヤもいません。ですが弟子たちは三人が一緒にいて、イエスさまの変容を目撃し、モーゼとエリヤの姿を見て、雲の中から神さまの声が響き渡るのを聞いたのです。イエスさまはいま見たことを、自分が死からよみがえるまでは、誰にも言うなと言います。弟子たちにはイエスさまが何を言っているのか意味がわからないだろうと思います。わかるのは「誰にも言うな」の部分だけです。

モーゼとエリヤを目撃した弟子たちが「どうして律法学者たちは、メシヤが来る前にエリヤが来るはずだと言い張るのですか」とたずねます。律法学者というのはファリサイ派とほぼ同義です。この質問から、当時のファリサイ派が旧約聖書最後の本、「Malachi(マラキ書)」の一番最後に書かれている預言を人々に教えていたことがわかります。Malachi 4:5-6(マラキ書第4章第5節~第6節)です。「5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])。

第11節のイエスさまの答は、「エリヤはすべての準備を整えるために最初に来る」です。マルコではこの後に「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか」と書かれているのですが、マタイではこの部分が省略されています。実はその答はマラキ書に書かれているのです。

エリヤが来るのは先ほど引用したように「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」です。ここに書かれている「わたし」とは神さまのことです。逆に言えばもしエリヤが来なければ、父の心は子に向かず、子の心も父に向かないことになり、それだと最終的に神さまが来て地上を滅ぼすことになってしまうのです。神さまが地上を滅ぼすのはどのようなときでしょうか。旧約聖書では大洪水を起こして地上をすべて水没させてしまったり、ソドムとゴモラの上に火(硫黄)を降らせて壊滅させましたが、それは人間の「罪(sin)」が度を超して、神さまがそれ以上我慢できなくなったときでした。いまの地上の乱れ様はどうでしょうか。壊滅させられる前のソドムと比べてどうなのでしょうか。

つまり神さまが怒りで地上を滅ぼすことのないように、まず最初にエリヤが来なければならないのです。そして第12節のイエスさまの言葉によると、エリヤはすでに来たのでした。ですが、その人がエリヤであることに気づいた人はいませんでした。弟子たちはイエスさまが洗礼者ヨハネのことを言っていると気づきます。

しかし弟子たちにはその意味まではわかりません。洗礼者ヨハネはイエスさまに先立って荒野に現れて、神さまに対する「罪(sin)」を自覚するように、自分の非を悔いて改めるようにと叫んで人を集めました。そして悔い改めを表明した人にはその印として洗礼を授けていたのです。

イエスさまもその場に現れてヨハネの洗礼を受けました。そしてイエスさまが水の中から上がって来たときに、さきほどの「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」の神さまの声が聞こえたのです。これで準備が整いました。父の心が子に向き、子の心が父に向いたのです。イエスさまはここから伝道活動を次の段階へ進めます。そしてその伝道活動の成就がエルサレムでの十字架なのです。イエスさまは旧約聖書の預言を成就する形で、人間の罪をすべて背負って十字架にかかります。イエスさまの流した血によって人々の罪(sin)による汚(けが)れがすべて洗い流されて、人間は純白となったのです。







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