マタイの福音書:第17章マタイの福音書第16章第13節~第20節:イエスさまについてのペテロの宣言

2015年12月16日

マタイの福音書第16章第21節~第28節:イエスさまが自分の死を予告する

第16章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Predicts His Death

イエスさまが自分の死を予告する


21 From then on Jesus began to tell his disciples plainly that it was necessary for him to go to Jerusalem, and that he would suffer many terrible things at the hands of the elders, the leading priests, and the teachers of religious law. He would be killed, but on the third day he would be raised from the dead.

21 その時からイエスさまは、エルサレムに行くこと、長老たち、祭司長たち、律法学者たちによって、たくさんの恐ろしい出来事に苦しむことがイエスさまにとって必要なのだと弟子たちに明白に話し始めました。イエスさまは殺されるが、三日目に死からよみがえるのだと。

22 But Peter took him aside and began to reprimand him for saying such things. “Heaven forbid, Lord,” he said. “This will never happen to you!”

22 しかしペテロはイエスさまを横に連れて行き、イエスさまがそのようなことを言うことについて叱り始めました。ペテロは言いました。「主よ、そのようなことがあってたまるものですか。そのようなことは決してあなたには起こりません。」

23 Jesus turned to Peter and said, “Get away from me, Satan! You are a dangerous trap to me. You are seeing things merely from a human point of view, not from God’s.”

23 イエスさまはペテロに向き直って言いました。「私から立ち去りなさい、サタンよ。あなたは私にとっては危険な罠です。あなたは物事を単に人の視点から見ています。神さまの視点ではありません。」

24 Then Jesus said to his disciples, “If any of you wants to be my follower, you must turn from your selfish ways, take up your cross, and follow me.

24 それからイエスさまは弟子たちに言いました。「だれでも私の弟子になりたいのなら、自分勝手なやり方を改めて、自分の十字架を取り、私について来なさい。

25 If you try to hang on to your life, you will lose it. But if you give up your life for my sake, you will save it.

25 もしあなたが命にしがみつこうとすれば、あなたはそれを失います。しかし、あなたが私のために命を譲り渡すのなら、あなたはそれを守るのです。

26 And what do you benefit if you gain the whole world but lose your own soul? Is anything worth more than your soul?

26 あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の魂を失うのだとしたら、何の得をするのですか。あなたの魂以上に価値のあるものがありますか。

27 For the Son of Man will come with his angels in the glory of his Father and will judge all people according to their deeds.

27 なぜなら人の子は父の栄光の中に天使たちを引き連れてやって来て、すべての人をその行ないに応じて裁くのです。

28 And I tell you the truth, some standing here right now will not die before they see the Son of Man coming in his Kingdom.”

28 私はあなた方に本当のことを言います。たったいまここに立っている者の中には、王国の中にやって来る人の子を見るまで死なない人がいます。」




ミニミニ解説

今回、いよいよイエスさまの口から十字架が予告され、エルサレムへ向けた旅が開始されようとしています。前回、イエスさま一行はガリラヤ湖から北へ20キロほどのところにあるピリポ・カイザリヤへ来ました。そこでイエスさまは自分は誰だと思うか、と弟子たちに質問したのに対し、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。「マタイ」はこの後で独自の資料から「マルコ」に3節を追加し、それはペテロを初期の教会のリーダーとして擁護し確立しようとする雰囲気の文面であることを読みました。

今回と同じ記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。マルコは前回の続きにあたる、Mark 8:31-9:1(マルコの福音書第8章第31節~第9章第1節)です。

「31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスさまをわきにお連れして、いさめ始めた。33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。1 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなた方に告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」([新改訳])。

ルカもやはり前回の続きにあたる、Luke 9:22-27(ルカの福音書第9章第22節~第27節)です。

「22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」 23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。26 もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。27 しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」([新改訳])。

マタイの内容はマルコとほぼ同じになっています。第37節は省かれ、第38節は少し違う形になっていますが、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は、ほぼ「マルコ」からの採用です。

第21節、イエスさまはエルサレムに行くこと、そこで長老や祭司長や律法学者たちから酷い目に会わされること、殺されるが、三日後に死者の中から復活することを予告します。ここに出てくる長老たちと祭司長たちはサドカイ派、律法学者たちはファリサイ派の主要な構成メンバーです。

第22節、これを聞いたペテロはイエスさまを横に連れ出して叱りつけます。ペテロは直前でイエスさまに「あなたはメシアです」と宣言しました。これはイエスさまこそが旧約聖書に出現が予告された預言者なのであり、約1000年前のイスラエル栄光の時代、ダビデの王国を復活する人物なのだ、あなたこそがユダヤ人全体が待望するメシアなのだと言ったのです。それなのにイエスさまは自分はエルサレムに行って酷い目に会うだの、その後で殺されるだのと言い出すので、ペテロはイエスさまを叱ったのです。ペテロにはイエスさまが言う三日後に復活するなどと言う言葉は戯言にしか聞こえません。きっとペテロはイエスさまよりも年長で、年下のイエスさまに、これからイスラエルの王になろうと言う人が、そんなネガティブなことを言い出してどうするのですか、と諫める調子で言ったのだと思います。

すると第23節、ついさきほどまでペテロを褒めていたイエスさまは一変して、「私から立ち去りなさい、サタンよ!」と激しく怒ります。サタンは旧約聖書の解釈では、もともとは高位の天使だったのですが、神さまと同じ高見にまで至ろうとの野望を抱いて、神さまによって天国から追放されて地上へ落とされたのでした。神さまに恨みを抱くサタンは、創世記では最初の人間のアダムとエバを誘惑してエデンの園から追放させて結果として福音が成就するためのきっかけを作り、イエスさまが洗礼者ヨハネの洗礼を受けた後にはイエスさまを荒野で誘惑して、イエスさまに福音の成就をあきらめさせようとしています。イエスさまが誘惑を退けると、Luke 4:13(ルカの福音書第4章第13節)では「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」([新改訳])と書かれていて、サタンはイエスさまを陥れようと次のチャンスを狙っているように書かれています。サタンはこの時にペテロを利用してイエスさまがエルサレムへ行くのを阻止しようとしていたのかも知れません。イエスさまは「サタンよ、私の前から消えろ!」と叫んで、ペテロの後にいるサタンに宣告したのです。

第24節には、イエスさまの弟子になりたければ、自分勝手なやり方を改めて自分の十字架を取りなさい、と書かれています。自分の十字架を取る、と言う言葉は比喩的な解釈をすることも可能ですが、当時はローマ帝国によって現実に十字架刑が行われていた時代です。この時代の人たちが「十字架」という言葉を聞いて心に思い浮かべるのは、みな同じイメージだったはずです。「十字架刑」はローマ帝国が配下に置いて支配する領土に住む外国人に対して科した刑で、特にローマ帝国への反逆を企てた人(政治犯・反逆者・煽動者)に課した死刑です。歴史上、もっとも残虐な死刑だとも言われています。

十字架刑を言い渡された人は、自分の十字架を背負って処刑地へと向かわなければなりません。ローマ帝国に対して反逆を企てた者がどういう目に会うのか、受刑者を被征服民の間での見せしめとするため、十字架刑は大通りに面した場所で行われましたが、死刑囚はその場所まで、たくさんの人々に見られる中を、自分の十字架を背負ってひとりで歩かされたのです。周囲からは非難やからかいの声が容赦なく浴びせられます。悲しみの目で見ている人もいます。その中には自分の家族も親戚も友人も含まれているのです。

つまり「自分の十字架を取る人」とは、世の中のあらゆる人々から拒絶され、非難され、悲しみの目を向けられる「死刑囚」のことです。死刑囚には、自分勝手なやり方を選択する余地などありません。イエスさまは、もし自分について来たいと思うのなら、十字架を背負う死刑囚のように、自分本位のやり方をすべて奪われ、世の中全体からの拒絶を受ける覚悟をして来なさい、と言っているのです。

第25節はイエスさまの言葉によく見られる謎かけです。「 もしあなたがいのちにしがみつこうとすればそれを失う。しかしあなたが私のためにいのちを譲り渡すのなら、あなたはそれを守る」。これはすぐ前の言葉で「十字架を取れ」と厳しい覚悟を迫った後の励ましの言葉ではないでしょうか。死刑囚となる覚悟を持って自分について来なさい、と言われれば誰でも怖くなります。だからイエスさまは「怖いですか。でもあなたがいのちにしがみつこうとすればそれを失う」のですよ、「しかし私のためにいのちを譲り渡すのなら、あなたはそれを守る」ことができるのです、と人々を励ましているのです。

「自分のいのちを失う」「自分のいのちを守る」という言葉の意味は、神さまの視点に立った「死」と「いのち」の考え方だと思うのです。神さまにとっての「死」と「いのち」は、私たちの考えるそれとは違います。聖書の中でその一端に触れることはできますが、本当のところはどうなのか、何が正解なのかは、最後の最後までわからないだろうと思います。でも最後の最後にはわかるのだろうとも思います。

イエスさまの言葉を聞いているこのときの弟子たちには、イエスさまが神さまの視点で語っているということさえ理解していません。弟子たちはイエスさまがローマ帝国の支配からユダヤ人を解放する王だと思って信じているのです。イエスさまの王国が成立したら、王国の中で高い位に取り立てもらおうと野心を持っているのです。だからこのときのイエスさまの言葉は、ここから王への道は険しい、だからいのちを捨てる覚悟でついて来い、自分のいのちを私のために捨てる覚悟があるのなら、その者のいのちは必ず守る、のように聞こえているはずです。

第26節には、「 あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の魂を失うのだとしたら、何の得をするのか。自分の魂以上に価値のあるものがあるのか」と書かれています。これは十字架を取る選択をしない側の人に訪れる顛末のことでしょう。自分のいのちに執着して自分勝手な生き方をして、仮に全世界を手に入れるほどの成功を収めたとしても、最後の最後に自分の魂を失うのだとしたら、何の得をするのか、と。これはまさしく私たちの生き方のように思えます。自分の寿命を意識して、何歳までに何を達成しようかと考えてがんばる、がんばってがんばってがんばり抜いて、成功したり失敗したりして、それでも最後の最後に死ぬのだとしたら、そのがんばりはいったい何なのでしょうか、そこに利益はあるのでしょうか、とイエスさまは言います。

ここでもイエスさまの視点の「いのち」は、私たちの考えるそれとは違うようです。私たちの考える「死」の先にまだ続きがあるような口ぶりです。そしてそこに到達する方法があるような口ぶりです。私たちの考える「死」とイエスさまの伝える「死」もまた別物のようです。「魂」は、「死」とは別の次元で「失ったり」「奪われたり」、逆に「保つ」こともできるもののようです。私たちの考える「死」の先にも存続する「魂」があるのだとしたら、その「魂」は自分本位で追求する富や幸せよりも大切なのかも知れません。

でもその判断を下すためには、まず「魂」とは何か、「死後の世界」がどうなっているのか、それを明確に教えてくれ、納得したらついて行く決心がつくかも知れないから、と言いたくなるかも知れません。でもそのアプローチはもしかすると、何度も繰り返し奇跡のわざを見せられながら、相変わらず「権威を証明するために奇跡のわざを見せてみろ」と言い続けるファリサイ派と同じなのかも知れません。イエスさまからすれば、判断を下すのに十分な証拠はすでに示しているのです。あとは私たち次第なのです。現代を生きる私たちの手元には幸いにも聖書があるのですから、まずは自分で聖書を読んで答を探してみれば良いのに、と私は思います。マタイでは、マルコの第37節「自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」が省略されています。これは逆に言えば、ある日、自分の「いのち」を買い戻したいと思う日が来るのです。でもそのときに人の側には差し出すものが何もないのです。

第27節は「 なぜなら」と始まります。どうして「魂」がそれほど大切なのか、答を教えてあげましょう、と言うのです。イエスさまは「なぜなら人の子は父の栄光の中に天使たちを引き連れてやって来て、すべての人をその行ないに応じて裁くのです」と教えます。これは「終末論」です。「マルコ」の第38節では、終末論の終わりの日には、イエスさまとイエスさまの言葉を恥じる人のことを恥じる、と間接的に書かれていますが、マタイでは、その日には「すべての人をその行ないに応じて裁く」と、最後の審判があることを直接的に書いています。その審判ですべての人が、神さまの視点での「いのち」「魂」を維持するのか、奪われるか、が決められるのです。

最後の第28節は議論の的となる節です。「 私はあなた方に本当のことを言います。たったいまここに立っているものの中には、王国の中にやって来る人の子を見るまで死なない人がいます」。イエスさまのまわりに立っている弟子たちの中には、「王国の中にやって来るイエスさまを見るまで死なない」人がいる・・・。これはどういう意味なのでしょうか。

ここは「~まで死なない」の「~まで」の部分の解釈が難しいのだと思います。マタイでは「王国の中にやって来る人の子(=イエスさま)を見るまで」と書かれていますが、オリジナルのマルコには「神の国が力をもって到来しているのを見るまで」と書かれています。聖書に沿って、これ以降に起こる大きなイベントを整理すると、「十字架死」「復活」「イエスさまの昇天」「聖霊の訪れ」「終わりの日」となります。私たちはいま、「聖霊の訪れ」と「終わりの日」の間に生きています。

マタイは「~まで」を「王国の中にやって来る人の子を見るまで」と「終わりの日」を強く意識させる文面になっていますが、オリジナルのマルコは「神の国が力をもって到来しているのを見るまで」と、柔軟に解釈できる表現になっています。わたしは「神の国が力をもって到来している」状態と言うのは「聖霊の訪れ」のことではないかと思います。この出来事は新約聖書の「Acts(使徒のはたらき)」の最初のところに書かれています。マタイはマルコの書き方があいまいだったので、もう少し明確にして、危機感と期待感を煽る意味で、ここを「終わりの日」を強く意識させるように書き換えたのかも知れないと思います。






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