マタイの福音書第16章第13節~第20節:イエスさまについてのペテロの宣言マタイの福音書第16章第1節~第4節:指導者たちが奇跡のしるしを求める

2015年12月16日

マタイの福音書第16章第5節~第12節:ファリサイ派とサドカイ派のパン種

第16章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Yeast of the Pharisees and Sadducees

ファリサイ派とサドカイ派のパン種


5 Later, after they crossed to the other side of the lake, the disciples discovered they had forgotten to bring any bread.

5 後で一行が湖の反対側へ渡った後で、弟子たちはパンを持って来るのを忘れたことに気づきました。

6 “Watch out!” Jesus warned them. “Beware of the yeast of the Pharisees and Sadducees.”

6 イエスさまは弟子たちに警告しました。「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に気をつけなさい。」

7 At this they began to argue with each other because they hadn’t brought any bread.

7 これを聞いて、弟子たちはパンをまったく持って来なかったことについて互いに議論を始めました。

8 Jesus knew what they were saying, so he said, “You have so little faith! Why are you arguing with each other about having no bread?

8 イエスさまは弟子たちが何を言っているか知っていたので言いました。「あなた方にはほとんど信仰がありません。どうしてパンがないことを互いに論じ合っているのですか。

9 Don’t you understand even yet? Don’t you remember the 5,000 I fed with five loaves, and the baskets of leftovers you picked up?

9 まだわからないのですか。私が五つのパンで満たした五千人のことを、あなた方が余分を拾い集めたかごのことを覚えていないのですか。

10 Or the 4,000 I fed with seven loaves, and the large baskets of leftovers you picked up?

10 あるいは私が七つのパンで満たした四千人のこと、あなた方が余分を拾い集めた大きなかごのことを。

11 Why can’t you understand that I’m not talking about bread? So again I say, ‘Beware of the yeast of the Pharisees and Sadducees.’”

11 私がパンのことを言っているのではないと、どうしてあなた方にはわからないのですか。だからもう一度言います。ファリサイ派とサドカイ派のパン種に気をつけなさい。」

12 Then at last they understood that he wasn’t speaking about the yeast in bread, but about the deceptive teaching of the Pharisees and Sadducees.

12 弟子たちはようやく、イエスさまがパンの中のパン種のことを言っているのではなくて、人を欺くようなファリサイ派とサドカイ派の教えのことを言っているのだとわかりました。




ミニミニ解説

マタイの福音書第16章です。イエスさまは第15章で一度ガリラヤ地方を離れて北のレバノンのあたりを旅してガリラヤ地方へ戻ってきましたが、今回の最初の部分で一行は船でガリラヤ湖を渡っています。マタイでは引用されていないのですが、今回の箇所に続くMark 8:22(マルコ第8章第22節)は「彼らはベツサイダに着いた」と始まっていますので、船が渡った先の舞台はベツサイダのようです。ベツサイダはカペナウムと同様に湖の北岸にあります。

第15章でも書きましたが、「マルコ」ではイエスさまが北方から戻った場所が「デカポリス地方のあたり」と書かれています。これは湖の東南にあたりますから、今回渡った先がベツサイダだとすると、最初のところに書かれている「湖の反対側へ渡った」という内容と符合します。それにしても不可解なのは、北の方から戻って来たイエスさまが、どうして伝道の本拠地であるガリラヤ湖北岸のカペナウムを通り越して、わざわざ湖の東南にまで行ったのか、です。これには答は出ないのですが、今回以降の舞台はベツサイダと想定して読もうと思います。

今回と同じ記述は「マルコ」に見られます。マルコのMark 8:13-8:21(マルコの福音書第8章第13節~第21節)で、今回も前回の続きになっています。このあたりのマタイはマルコの話の順番をなぞっています。「13 イエスさまは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。15 そのとき、イエスさまは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」 16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。17 それに気づいてイエスさまは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなた方は、覚えていないのですか。19 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」 20 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」 21 イエスさまは言われた。「まだ悟らないのですか。」」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」から採用して編集を加えたものと考えられます。

船から降りた弟子たちがパンを持ってくるのを忘れたことに気づきます。ちょうどそのときイエスさまが「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に気をつけなさい」と注意を発しました。弟子たちはイエスさまの言葉の中の「パン種」と、自分たちが持ってくるのを忘れた「パン」を結びつけて、そら、イエスさまもパンのことを言い出したぞ、と議論を始めます。弟子たちの議論のポイントはよくわかりません。旅程を考えるといまここにパンを持ってきていないと適切に食事が取れないのかも知れませんが、ベツサイダはペテロとアンデレの出身地と考えられている町、つまり地元なのですから、パンはすぐに手に入りそうな気がします。きっと弟子たちの間で誰がパンを持ってくるべきだったのか、責任のなすりつけ合いのような低レベルの口論が始まったのだろうと想像します。

イエスさまが言わんとしている「ファリサイ派やサドカイ派のパン種に気をつけろ」の意味は、人々の指導者としてのファリサイ派やサドカイ派が、守るようにと伝えている教えは、神さまの目から見れば「真の正しさ」ではなくて、実は「偽善」なのだということに関連しています。聖書の中のパン種は「罪(sin)」の象徴として使われます。人の心(深層心理)の奥に潜んでいて人間を神さまの目から見て汚れた存在とするものです。

実際のパン種は酵母(イースト)のことで、小麦粉に加えられるとパン生地全体に拡がって生地を膨らませます。ファリサイ派やサドカイ派が説く誤った教えも、ひとたび人々の心の中に入るとそこに根付いて、人々の心の全体をすっかりダメにしてしまうので、その様子はまるでパン種のようなものなのだよ、だから注意しなさいと警告しているのです。

イエスさまは「まだわからないのですか」と怒りますが、イエスさまが問題にしているのは、イエスさまの言っている忠告の意味を、弟子たちがパンを忘れたことと取り違えたことではないだろうと思うのです。イエスさまは「私が五つのパンで満たした五千人のことを覚えていないのですか」と言います。これはもっともな話です。もし私が弟子の一人だとしたら、誰かがパンを忘れたことはもはや問題にしないと思うのです。ちょっと調子が良いかも知れませんが、パンを忘れたらイエスさまにお願いすれば、イエスさまの手の中からいくらでも無限に出てくるのですから。ことパンのことに関してはイエスさまがいるかぎり心配無用なのです。

だからイエスさまが「まだわからないのですか」と怒っているのは、自分(イエスさま)がいまここにいることの意味がまだわからないのか、パンを忘れたなどと世俗的なことで悩む必要のない時がこうしてあなた方の目の前にやって来ていることに気づかないのか、そのことがまだわからないのか、ということだと思うのです。

イエスさまは弟子たちがいつまでも理解しないことにあきれて、「五千人のときのことを忘れたのか」「四千人のときのことを忘れたのか」と言います。これだとパンと魚がイエスさまの手の中で無限に増え続けた奇跡が二回起こったように読めますが、私は一回の奇跡がいろいろなルートで伝承される間に数字の部分が少しずつ変わったのかな、と思っています(テレビも新聞もない時代ですから)。でも実際の奇跡が二回であろうと一回であろうと、この奇跡そのものが起こったことには変わりはないので、大きな問題ではないと思います。






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