マタイの福音書第15章第21節~第28節:ある異邦人女性の信仰マタイの福音書:第15章

2015年12月17日

マタイの福音書第15章第1節~第20節:イエスさまが内なる清らかさについて教える

第15章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Teaches about Inner Purity

イエスさまが内なる清らかさについて教える


1 Some Pharisees and teachers of religious law now arrived from Jerusalem to see Jesus. They asked him,

1 さてファリサイ派の人たちが何人かと律法の先生が何人か、エルサレムからイエスさまに会いに来て到着しました。彼らはイエスさまさまにたずねました。

2 “Why do your disciples disobey our age-old tradition? For they ignore our tradition of ceremonial hand washing before they eat.”

2 「なぜあなたの弟子たちは大昔からの慣例に従わないのですか。なぜならあなたの弟子たちは食事の前の手洗いの儀式を無視しています。」

3 Jesus replied, “And why do you, by your traditions, violate the direct commandments of God?

3 イエスさまは答えました。「なぜあなた方は、あなた方の慣例によって、神さまの直接の掟を犯すのですか。

4 For instance, God says, ‘Honor your father and mother,’ and ‘Anyone who speaks disrespectfully of father or mother must be put to death.’

4 なぜならたとえば神さまは、『あなたの父と母を敬え』、そして『父や母に無礼な口をきく者は死刑に処せられなければならない』と言っています。

5 But you say it is all right for people to say to their parents, ‘Sorry, I can’t help you. For I have vowed to give to God what I would have given to you.’

5 ですがあなた方は人々が両親に次のように言ってもかまわないと言っています。『すみません。援助できません。なぜならあなた方にあげられたかも知れないものは、神さまに差し上げると誓ったからです。』

6 In this way, you say they don’t need to honor their parents. And so you cancel the word of God for the sake of your own tradition.

6 こうやって、あなた方は人々に両親を敬う必要はないと言っているのです。あなた方は自分たちの慣例で神さまの言葉をなしにしているのです。

7 You hypocrites! Isaiah was right when he prophesied about you, for he wrote,

7 偽善者たちめ。イザヤがあなた方について預言したときイザヤは正しかったのです。イザヤは次のように書きました:

8 ‘These people honor me with their lips, but their hearts are far from me.

8 『この人々は口では私を敬うが、心は私から離れている。

9 Their worship is a farce, for they teach man-made ideas as commands from God.’”

9 彼らの礼拝は茶番である。なぜなら彼らは人間の考えを神さまの掟として教えるのだから。』」

10 Then Jesus called to the crowd to come and hear. “Listen,” he said, “and try to understand.

10 それからイエスさまは群衆に来て聞くように呼びかけました。イエスさまは言いました。「聞きなさい。そして理解しようと努めなさい。

11 It’s not what goes into your mouth that defiles you; you are defiled by the words that come out of your mouth.”

11 あなた方を汚すのはあなた方の口に入る物ではありません。あなた方は、あなた方の口から出る言葉によって汚されるのです。」

12 Then the disciples came to him and asked, “Do you realize you offended the Pharisees by what you just said?”

12 それから弟子たちがイエスさまのところに来てたずねました。「あなたは、あなたがいま言ったことでファリサイ派の人たちを怒らせたことをわかっているのですか。」

13 Jesus replied, “Every plant not planted by my heavenly Father will be uprooted,

13 イエスさまは答えました。「私の天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。

14 so ignore them. They are blind guides leading the blind, and if one blind person guides another, they will both fall into a ditch.”

14 だから彼らのことは無視しなさい。彼らは目の不自由な人を導く目の不自由な案内人なのです。目の不自由な人が目の不自由な人を導けば、二人ともみぞに落ちます。」

15 Then Peter said to Jesus, “Explain to us the parable that says people aren’t defiled by what they eat.”

15 それからペテロがイエスさまに言いました。「人々は食べるものによって汚されないと言ったたとえ話を私たちに説明してください。」

16 “Don’t you understand yet?” Jesus asked.

16 イエスさまはたずねました。「あなた方は、まだわからないのですか。

17 “Anything you eat passes through the stomach and then goes into the sewer.

17 あなた方が食べる物はどんなものでも、胃を通り、それから下水溝へ行きます。

18 But the words you speak come from the heart -- that’s what defiles you.

18 しかしあなた方が話す言葉は心から出て来ます。それが人を汚すのです。

19 For from the heart come evil thoughts, murder, adultery, all sexual immorality, theft, lying, and slander.

19 なぜなら心から出てくるのは、邪悪な考え、殺人、姦淫、性的な不道徳、盗み、うそ、悪口です。

20 These are what defile you. Eating with unwashed hands will never defile you.”

20 これらが人を汚すのです。手を洗わないで食べても決して人を汚しません。」




ミニミニ解説

マタイの第15章です。

まず、第11節までと同じ記述は「マルコ」に見られます。Mark 7:1-16(マルコの福音書第7章第1節~第16節)です。「1 さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。2 イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、3 -- パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、4 また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある-- 5 パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」 6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』 8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」 9 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。11 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」 14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。16 {聞く耳のある者は聞きなさい。}」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は記述がほぼ同じ「マルコ」からの採用です。

エルサレムからファリサイ派の人たちがやってきます。ガリラヤ湖の北岸まで直線距離で70~80キロの道のりです。おそらくサマリア地方を避けるためにわざわざ一度ヨルダン川を東側へ渡り、ガリラヤ湖近辺で再度西側へ渡り直す行程をとるのでしょうから、旅程は100キロ近くになるだろうと思われます。

ファリサイ派はユダヤ民族の最高議決機関のサンヘドリンに議席を持つ政治結社です。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、サンヘドリンは限定的な自治を許された議決機関ということになります。ファリサイ派の主要な構成員は律法学者です。聖書そのものに精通しているばかりか、ユダヤの長老たちによって代々口頭で伝承されてきた600を超える細則の実践者であり先生でもあります。この細則は聖書の中のモーゼ五書と呼ばれる律法書に書かれた掟を、人々が実生活の中で守るために具体的に何をしなければならないかを定めたものです。人々は厳格な律法の遵守を実践するファリサイ派を尊敬し、褒め称えています。

どうやらガリラヤ地方で人々を集めて奇跡の技を行っているイエスという人物がいるらしいとの噂はいまやエルサレムにも到達し、律法学者であるファリサイ派はその真偽を確かめるために使節を派遣します。聖書にはメシア(救世主)の出現を預言する部分がありますから、果たしてこの人物がこれにあたるのかどうかを確かめなければなりません。また人々を集める様子に反ローマ帝国の武装蜂起のような不穏な動きがあれば、手遅れにならないうちに早めに解体しておかなければ、ローマ帝国軍が派兵されて、せっかく享受してきた既得権益が消滅してしまうかも知れません。

イエスさまの前に現れたファリサイ派がたずねた質問は「なぜあなたの弟子たちは大昔からの慣例に従わないのですか。なぜならあなたの弟子たちは食事の前の手洗いの儀式を無視しています」でした。この「大昔からの慣例」が、聖書の外側で口頭伝承されてきた実践細則のことです。聖書の律法は「清いもの」と「汚れをもたらすもの」を定めていますが、細則では「汚れ」を排除するために「食事の前の手洗いの儀式」を義務化していたのです。ですがイエスさまの弟子たちはどうやらこれを行っていませんでした。

イエスさまは質問に対して質問で対応します。これはイエスさまがよく使う方法です。第3節、「なぜあなた方は、あなた方の慣例によって、神さまの直接の掟を犯すのですか」です。これは読み進めるうちに明らかになりますが、イエスさまは、どうして人間が聖書の外側に定めた細則(=あなた方の慣例)で、聖書に書かれている神さまが定めた律法そのもの(=神さまの直接の掟)に違反するのか、と言うのです。

イエスさまは例をあげます。イエスさまの引用箇所は、十戒の一部であるExodus 20:12(出エジプト記第20章第12節)「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」と、Exodus 21:17(出エジプト記第21章第17節)「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」でしょう(いずれも[新改訳])。

神さまは聖書の中で人々に父と母を敬うことを求め、その重要さは自分の父母をのろう者は死罪であるとさえ言っています。ところが口頭伝承の細則を使えば、食料の取り扱いに関する部分では、父母を養うために使うよりも、神さまの神殿に捧げるとの誓いを優先させることが可能なのです。イエスさまはこのような、ルールのためのルールのような細則があったのでは、父母を大切にするようにと命じた神さまの意図が台無しだと言っているのです。

イエスさまは追い打ちをかけるように、このような事態はもともと預言されていたのだ、としてイザヤの言葉を引用します。引用箇所はIsaiah 29:13(イザヤ書第29章第13節)です。「そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」 ちなみに続きの第14節では、「それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」と予告しています(いずれも[新改訳])。

そしてイエスさまはユダヤ人が耳を疑うような大胆な発言をします。第11節の「 あなた方を汚すのはあなた方の口に入る物ではありません」です。これは驚きです。なぜならモーゼ五書の律法そのものが、清いから食べて良いもの、汚れるから食べてはいけないものを細かく定めているからです。ですがイエスさまは口から入るものでは人は汚れないと言います。そうではなくて、人は「口から出る言葉によって汚される」と言うのです。


第12節以降は場面が移ってイエスさまと弟子たちの会話になります。同じ記述は「マルコ」に見られます。マルコのMark 7:17-23(マルコの福音書第7章第17節~第23節)、前回の続きです。「17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は記述がほぼ同じ「マルコ」からの採用です。「マタイ」でわざわざ付け加えられているのは、「天の父がお植えにならなかった木はみな根こそぎにされる」「ファリサイ派は目の不自由な人を導く目の不自由な案内人」などとされたファリサイ派に対する強烈な批判です。「マタイ」を生み出した教会は、保守的なユダヤ人層と決別して作られたと言われていますから、自分たちの出身母体に近いファリサイ派をことさらに攻撃するのかも知れません。

今回は何が人を汚すのかについてのイエスさまの説明です。イエスさまは「それは食べるものではない」と発言しています。今回の話の内容を読むとなんとなく言わんとしていることはわかりますが、会堂で人々に神さまの言葉を教える先生の立場のイエスさまが、群衆に向かってこのような発言するのは大変革新的なことでした。なぜなら旧約聖書のモーゼの律法には「人を汚す食べもの」「人を汚さない食べもの」が、きちんと区分けされて書かれているからです。イエスさまの発言は、場合によっては聖書のこの部分を否定することになります。

ここで考えなければいけないのは、いま読んでいる「マタイの福音書」は、イエスさまの十字架死~復活を経て、その後何十年かして書かれた本だと言うことです。その頃になるとイエスさまに関する話や教えはエルサレムを飛び出して、書簡や福音書を題材として、イエスさまの弟子たちがユダヤ人にも異邦人(外国人)にも広い範囲へ伝えようと活動しています。そういう伝道活動を行う団体には、今日私たちが信仰するキリスト教の教義の根本を伝道して守り抜いたパウロのグループの他に、本来神さまからの無償の贈り物であるはずの福音に、わざわざ条件を付け加えようとする保守的なグループもありました。旧約聖書を根拠に、食べ物や、割礼や、儀式に最後までこだわったのは保守的なグループで、パウロはそのような人たちと徹底的に戦いました。

「マタイ」を用いた教会は、もともと保守的なユダヤ人層を母体としていたと考えられています。イエスさまを救世主として信じること自体が保守的なユダヤ人からすれば大変大きなパラダイムの変更ではありますが、「人を汚すのは食べるものではない」との教えを素直に受け入れるのにはかなり抵抗があったのではないかと思います。たとえば「マルコ」の第19節には「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた」とあり、これは当時からすれば革新的な記述なのですが、「マタイ」は「マルコ」を題材としながらこれを省いています。ですが、イエスさまのこの言葉は福音全体の中できっちりとつじつまの合う言葉ですから、「マタイ」の教会もこの言葉を無視することはできません。

「人を汚すのは口から出る言葉である」。聖書に言う「罪(sin)」とは、もともと「的(まと)から外れること」を意味しているそうです。神さまが人間を造ったときに、人間には「このようになって欲しい」と神さまが意図された姿、有り様がありました。人間がそこから外れる様を見ると、神さまは怒り、あきれ、ガッカリします。そういう「神さまをガッカリさせること」全般を「罪(sin)」というのです。旧約聖書は、神さまが聖書を託した民としてのユダヤ人にどれくらいガッカリしたか、どのようにしてユダヤ人が神さまの期待を裏切ったか、を書き綴った本と言ってもよいくらいです。

ではどのようなことをすると神さまはガッカリされるのか、その内容を聖書で確認しようと考えるのは大変良い心がけだとおもいます。が、実はそれは、「良心」として神さまが一人一人の人間の心にすでに書いておいてくださっています。ここに列挙されている私たちの口から出る言葉の数々、つまり、邪悪な考え、殺人(これは人に対する憎しみから始まります)、姦淫(倫理道徳に反する性的な欲求から生まれます)、盗み(これは盗みの動機となる人の持ち物を欲しがる気持ちから始まります)、うそ、悪口、このような言葉が私たちの口から出て来るのを聞くと、神さまはガッカリされるのです。

私は自分の口からそういう言葉が出て来るのを聞いて、自分でびっくりすることがあります。「あぁ、自分はいったい何を言っているのだろう」と。ときに私はそういう言葉が自分の口から出て行くのを自分でコントロールできません。それはきっと私の心が汚れているからですし、言い方を変えればそれが私の深層心理の部分にある私の正体なのです。私はそういう言葉を言う自分を、たとえば自分の息子には見られたくないし、もし息子の口からそういう言葉が出て来るのを聞いたら相当ガッカリするはずです。だからこれが神さまをガッカリさせる「罪(sin)」であろうことは、とてもよくわかります。

どんなものを食べたってそれは私の中を通過してトイレへ出て行ってしまう。だから食べ物は人を汚さない。そうではなくて、神さまをガッカリさせる「罪(sin)」となって、私を汚すのは私の口から出てくるもの、私の心から出てくる汚れた言葉なのだ。今回の部分でイエスさまの言っていることは、とてもよくわかります。

ここの部分で最後に覚えておきたいのは、イエスさまがこの言葉を言った時の状況です。「マタイ」などの福音書をもちいてイエスさまの教えや、救世主としてのイエスさまの意味が伝道されていた頃、つまりイエスさまの十字架死~復活の後、数十年も経った後には、こういう革新的なイエスさまの言葉に出会っても、これを自分の中でどのように消化しようかと、ある意味冷静な議論や思考ができるようになっていたのかも知れません。が、いまこのときガリラヤ地方の舞台でイエスさまが「人を汚すのは食べるものではない」とファリサイ派を前にして堂々と宣言するとき、この発言を支持する人はイエスさまの弟子たちを始め、誰一人としていません。だから弟子たちは、「あなたは、あなたがいま言ったことでファリサイ派の人たちを怒らせたことをわかっているのですか」と言ってオロオロしますし、聞いている群衆も気分を害して、イエスさまに対して憎しみの感情さえ抱くのです。








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