マタイの福音書:第15章マタイの福音書第14章第13節~第21節:イエスさまが五千人に食べさせる

2015年12月18日

マタイの福音書第14章第22節~第36節:イエスさまが水の上を歩く

第14章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Walks on Water

イエスさまが水の上を歩く


22 Immediately after this, Jesus insisted that his disciples get back into the boat and cross to the other side of the lake, while he sent the people home.

22 これの直後、イエスさまは、弟子たちに舟に戻って湖の反対側へ渡るようにと言い張り、その間にイエスさまは群衆を家へ帰しました。

23 After sending them home, he went up into the hills by himself to pray. Night fell while he was there alone.

23 群衆を家へ帰したあとで、イエスさまはお祈りをするためにひとりで山に登りました。イエスさまがそこでひとりでいる間に夜になりました。

24 Meanwhile, the disciples were in trouble far away from land, for a strong wind had risen, and they were fighting heavy waves.

24 そうしている間に弟子たちは陸から遠く離れた場所でトラブルに見舞われていました。強い風が吹き始めて、荒れる波と戦っていたのです。

25 About three o’clock in the morning Jesus came toward them, walking on the water.

25 朝の三時ごろ、湖の上を歩いてイエスさまが弟子たちの方へ向かってきました。

26 When the disciples saw him walking on the water, they were terrified. In their fear, they cried out, “It’s a ghost!”

26 弟子たちはイエスさまが水の上を歩いているのを見ると恐ろしくなりました。恐怖のあまり、「あれは幽霊だ」と叫びました。

27 But Jesus spoke to them at once. “Don’t be afraid,” he said. “Take courage. I am here!”

27 しかし、イエスさまはすぐに弟子たちに話しかけました。「恐れてはいけません。勇気を出しなさい。私はここにいます」とイエスさまは言いました。

28 Then Peter called to him, “Lord, if it’s really you, tell me to come to you, walking on the water.”

28 それからペテロがイエスさまに叫びました。「主よ、もし本当にあなたでしたら、私に水の上を歩いてあなたのところへ来るように言ってください。」

29 “Yes, come,” Jesus said. So Peter went over the side of the boat and walked on the water toward Jesus.

29 イエスさまはいいました。「わかりました。来なさい。」 そこでペテロは舟のへりを超えて、水の上を歩いてイエスさまの方へ行きました。

30 But when he saw the strong wind and the waves, he was terrified and began to sink. “Save me, Lord!” he shouted.

30 ところがペテロが強い風と波を目にすると、怖くなって沈み始めました。ペテロは叫びました。「助けてください、主よ。」

31 Jesus immediately reached out and grabbed him. “You have so little faith,” Jesus said. “Why did you doubt me?”

31 イエスさまは即座に手を伸ばしてペテロをつかまえました。「あなたには信仰がほとんどありません。なぜ私を疑ったのですか。」

32 When they climbed back into the boat, the wind stopped.

32 二人が舟に乗り込むと、風がやみました。

33 Then the disciples worshiped him. “You really are the Son of God!” they exclaimed.

33 それで弟子たちはイエスさまを拝みました。「あなたは本当に神の子です」と弟子たちは大きな声で言いました。

34 After they had crossed the lake, they landed at Gennesaret.

34 彼らは湖を横切ってから、ゲネサレの地に上陸しました。

35 When the people recognized Jesus, the news of his arrival spread quickly throughout the whole area, and soon people were bringing all their sick to be healed.

35 人々がイエスさまだと気がつくと、到着の知らせはその地域全体にすみやかに行き渡りました。すぐに人々はあらゆる病人を治してもうために連れてきました。

36 They begged him to let the sick touch at least the fringe of his robe, and all who touched him were healed.

36 人々は病人に少なくともイエスさまの外衣の房飾りに触らせてあげるように懇願しました。そしてイエスさまに触れた人は全員が癒やされました。




ミニミニ解説

マタイの福音書の第14章です。第14章にはイエスさまの行った奇跡の話が書かれています。前回、洗礼者ヨハネの死の後で、イエスさまはひとりになるために舟で出発しましたが、群衆が湖畔を歩いて着いて来るのを見て、まるで羊飼いのいない羊のようだと思って同情を寄せ、群衆に話をし、病気を癒やし、奇跡の力で五つのパンを増やして、おそらく一万人を超える人たち全員を満腹にしました。

話の最初の部分、今回と同じ記述は、「マルコ」と「ヨハネ」に見られます。

まず「マルコ」です。前回の続きの部分で、Mark 6:45-50(マルコの福音書第6章第45節~第50節)です。「45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。47 夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」([新改訳])。

続いて「ヨハネ」です。ヨハネもやはり前回の五千人に食べさせた記述の続きで、John 6:16-20(ヨハネの福音書第6章第16節~第20節)です。「16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は「マルコ」からの採用です。「マタイ」と「マルコ」の記述はほぼ同じです(「マルコ」では湖上を歩いてきたイエスさまは通り過ぎようとしていますが)。「ヨハネ」のこの部分はかなり簡略化されていますが、五千人に食べさせた話と同様、その続きとして「ヨハネ」に登場すると言うことは、イエスさまが湖上を歩いた話は五千人に食べさせた話とセットで有名な奇跡の物語として流布されていたということではないでしょうか。

今回イエスさまは強引に弟子たちを舟に乗せて先に出発させ、群衆を解散させて家に帰しています。そしてイエスさまはお祈りをするためにひとりで山に登りました。イエスさまはどうしてもひとりになって神さまと会話をする必要があったのです。きっと洗礼者ヨハネの死を転機として、イエスさまの伝道活動が次の段階へ進むために必要なステップなのです。

弟子たちの乗り込んだ舟は「マルコ」ではベツサイダへ向かい、「ヨハネ」ではカペナウムへ向かいますが(どちらもガリラヤ湖の北岸に沿っていて旅程は5キロ未満と思われる)、最終的に舟は湖の北西にあるゲネサレの地に着いています(これはこの後に登場する記述からわかります)。結局、目的地には着けなかったのです。

前回の五千人に食べさせる奇跡の出来事が、あたりが暗くなりそうな夕方に起こったのだとすると、弟子たちが舟で出発したのはたとえば夕方の六時前後でしょうか。その後舟は湖上で立ち往生して、時刻は午前三時になっています。弟子たちはすでに湖上に九時間もいることになります。

舟が思うように進まなかったのは強風のせいです。ガリラヤ湖は地形上、大陸を南北に走る巨大な亀裂の底にある小さな水たまりのような湖です。切り立つ崖の底の部分に存在するので、高原から崖を吹き下ろす強風で湖面が突然荒れることはよくある話なのです。弟子たちの中ではヤコブもヨハネもペテロもアンデレもガリラヤ湖の漁師です。経験豊富な彼らをしても舟は立ち往生して動かない状態だったのです。

すると午前三時の闇の中を湖面を歩いて舟に向かって歩いてくる人影が見えます。午前三時という真っ暗な時間帯に、強風と荒波で荒れた湖面でも遠くから近づいて来るのが見える人影というのはいったいどんな人影でしょうか。弟子たちはそれがイエスさまだとわからずに「あれは幽霊だ」と叫んでおびえています。きっと人影は暗闇の中で青白く発光していたのではないかと思うのです。奇跡が起こるとき、そこに青白い発光が伴う様子はイエスさまのみならず、聖書の他の箇所でも確認できるからです。

弟子たちがおびえているとその人影が声を発します。「恐れてはいけません。勇気を出しなさい。私はここにいます。」 それはよく知っているイエスさまの声なのです。

このときにイエスさまの発した言葉の中に含まれる、「私はここにいます」の言葉、私は[NLT]の「I am here!」を訳したのでこのようになっていますが、より原点に近いと思われる[KJV]ではここは「it is I」(それは私です)となっています。[新改訳]ではたとえばマルコでは「わたしだ」です。

この名乗り方は、旧約聖書で神さまが初めてモーゼの前に現れたときに自分を名乗った言葉を思い出させます。モーゼはある日、荒野で「燃える芝」を見つけました。たしかに燃えているのにいつまでも燃え尽きない不思議な芝なのです。いったいどういうことなのか確かめようとモーゼが近づいていくと声がします。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」と。続いて神さまは、ユダヤ人をエジプトの支配から救い出すためにモーゼを遣わすと宣言しますが、モーゼは怖じ気づいて「誰に遣わされたと言えばよいのか」と食い下がります。そのときの答えが、Exodus  3:14(出エジプト記第3章第14節です。「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」」([新改訳])。

聖書の神さまに名前はないのです。神さまはいつも自分を『わたしはある』という者と名乗ります。[KJV]ではこの部分は「And God said unto Moses, I AM THAT I AM」と書いてあります。肝心の神さまの名前の部分は、わざわざ大文字で書いてあります。訳すと「そして神さまはモーゼに言いました。私はTHAT I AMである」。「THAT I AM」。私たちは英語の授業で「am」はbe動詞を1人称に使うときの形で、主語と補語を「=(イコール)」で結ぶ役割を果たすと習います。たとえば「I am a boy」が「I = a boy(私は少年です)」を意味するように。be動詞は不完全自動詞ですから、普通は補語がないと文章が成立しません。ところが聖書には神さまの名前は「I AM」と書いてあるのです。

研究社の『新英和中辞典辞書』(第6版)を引くと、be動詞が補語をとらない場合の訳し方について、「存在[生存, 実在]する」と訳せると書いてあり、例文には「God is.(神はまします.)」「Troy is no more.(トロイは今はない.)」「I think, therefore I am.(われ思う, 故にわれあり.)」と書かれています。だとすると[新改訳]が「わたしは、『わたしはある』という者である」と訳した[KJV]の「I AM THAT I AM」は、「私は『私は存在する』と言う者だ」となります。燃える芝を見ておびえるモーゼに神さまが名乗ったのは「わたしは、『わたしはある』という者である」でした。そしてイエスさまが湖上でおびえる弟子たちに名乗った言葉は「it is I(それは私です)」です。これは聖書の神さまの名乗り方に極めて近いと思います。


話の続き、第28節以降のペテロが水上を歩く話の部分は「マタイ」のほかには見つかりません。「マルコ」では弟子たちが水上を歩くイエスさまと遭った後ですぐにゲネサレの地についてしまいます。Mark 6:49~55(マルコの福音書第6章第49節~第55節)を見てみましょう。「49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51 そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。53 彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。54 そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、55 そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ペテロが水上を歩く話だけはマタイの「独自の資料」ということになります。洗礼者ヨハネの死から、五千人に食べさせる話、ガリラヤ湖の水上を歩く話と「マルコ」とまったく同じ展開でここまで来て、「マタイ」はそこに今回の話を独自の資料から挿入したことになります。

今回のペテロの話はクリスチャンの「信仰」そのものの話と言ってもよいでしょう。ペテロは十二使徒の中でもリーダー格で、イエスさまと最も深く関わったとされる弟子の一人です。そのペテロの物語であるからこそ、説得力があります。

まずペテロは水上に浮かぶイエスさまに向かって、「主よ、もし本当にあなたでしたら、私に水の上を歩いてあなたのところへ来るように言ってください」と呼びかけます。私なら、これはしません。「人は水の上は歩けない」と言う先入観があるからです。暗闇の嵐の中で、イエスさまが青白く輝きながらどういうわけか水上にとどまっているのだとしたら、それは預言者であり、師である特別な方のされる特別な技なのであり、自分とはまったく違う次元の話だろうと解釈するからです。

ところがペテロは違います。自分も水の上を歩きたい、とイエスさまに申し出ます。なぜならイエスさまと一緒であれば不可能はないからです。イエスさまの裂いた五つのパンは自分の手を経由して一万人の人たちに渡りました。裂いても裂いてもイエスさまの手の中のパンがなくならない様子をペテロはそのすぐ横で見ていたのです。そしてパンの残りを集めたら十二のかごが一杯になりました。これからペテロはイエスさまが死者をよみがえらせるところも目撃します。イエスさまはこれらの出来事を「不思議」とはとらえていないのです。イエスさまにとってパンは無限にあるし、死者も死んでいるようには見えないのです。すぐ横にいるペテロにはそれが感じられます。

水上のイエスさまが「わかりました。来なさい」とペテロに声をかけると、ペテロは「イエスさまと一緒であれば不可能はない」と信じて船の外へ足を踏み出します。船から足を出して水面に自分の足を置くのです。するとどうでしょう、水は自分の体重を支え、本当に水の上を歩けます。すごいことです。ペテロはイエスさまに向かって水上を歩いて行きます。なんて素敵な「信仰」でしょうか。ペテロのような一直線の信仰を持ちたいものです。

ところがしばらくするとペテロの目に湖面を吹く強風や荒れ狂う波が入り込みます。自分のまわりは夜の暗闇です。その中でイエスさまだけが青白く輝いています。自分の足の下は冷たいガリラヤ湖です。すると「本当に大丈夫なのか」と小さな不安の種が生まれます。そしてその不安の種はぐんぐん育って心を支配し始めます。そして怖くなります。するとどうでしょう、いままでは確かだったはずの足下の水が、ズブズブと自分の足を飲み込み始めます。「あ、沈む。やっぱりだめなんだ」と思ったときには、本当にもうだめなのです。

これがクリスチャンの姿です。イエスさまの福音を聞いて、聖書を読んで、自分の経験に照らし合わせて納得して、イエスさまを信じると決めます。イエスさまへの信仰を表明した後も、イエスさまがどんな方なのか、福音とはどういう意味なのか、それを心の底から理解する機会が繰り返し繰り返し訪れて、イエスさまへの信仰が強化されます。イエスさまの存在を強く感じ、「だいじょうぶだ」と思うときです。

ところがその矢先、困難が襲いかかってクリスチャンを揺さぶります。そういう出来事に心を奪われてイエスさまから目を離すと、堅かったはずの足下が崩れてグラグラし始め、自信にあふれていたはずの心は不安で一杯になるのです。自分の信仰っていったい何だったのだろう、自分の信仰はどれほど弱いのだろう、と悲しくなります。

でもイエスさまの一番近くにいたペテロでさえこうやって沈むのです。イエスさまの奇跡を目撃し、目の前にイエスさまの実物を見ながら水面を歩いたペテロでさえ沈むのです。どうして私たちが沈まないことがありましょうか。「あなたには信仰がほとんどありませんね。なぜ私を疑ったのですか」というイエスさまの言葉はすべてのクリスチャンに投げかけられています。

さぁ、そんなとき、「私に水の上を歩いてあなたのところへ来るように言ってください」と大胆に信仰を発言できる直線的なペテロはどうしたでしょうか。「助けてください、主よ!」と大きな声で叫んでいます。そしてイエスさまはそれに応えて即座に手を伸ばしてペテロをつかまえています。ペテロは自分の力で何とかしようとか、なんとかして信仰を取り戻して自分の足下を固めようなどとはみじんも思ってはいません。ただ「神さま、助けてください!」と大きな声で叫ぶ、これだけです。そうしたら神さまの側から手がさしのべられて、即座に助けてもらえるのです。

どんなときも頼るべきは自分ではありません。神さまです。神さまは全知全能の宇宙の支配者です。神さまから「あなたには信仰がほとんどありませんね」と言われるとしたら、「いつもいつも申し訳ありません。でもそのような私を救っていただいて本当にありがとうございます。神さまは本当に偉大な方です。神さまを心より賛美します。」と、私たちはただただ神さまを褒め称えるのです。

イエスさまとペテロの二人が舟に乗り込んだ瞬間、ガリラヤ湖の風がやんで大凪になります。驚くべきことです。一部始終を目撃した弟子たちは、「あなたは本当に神の子です」と大きな声で言ってイエスさまを拝みました。

船はカペナウムやベツサイダの船着き場ではなくて、ゲネサレの地につきました。ゲネサレはガリラヤ湖の北西のあたりです。きっと弟子たちは九時間も嵐と格闘していたので、早く近くの浜へ上がりたかったのでしょう。カペナウムやベツサイダに近いので、イエスさまの行う奇跡の技の噂は上陸地点の周囲にも届いていて、すぐに人々が病人を連れて現れます。驚くべきことにイエスさまの上衣についている房飾りに触れただけで人々の病気は癒やされてしまいます。








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