マタイの福音書第13章第24節~第30節:麦と雑草のたとえ話マタイの福音書:第13章

2015年12月19日

マタイの福音書第13章第1節~第23節:種を蒔く農夫のたとえ話、たとえ話をする理由

第13章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Farmer Scattering Seed

種を蒔く農夫のたとえ話


1 Later that same day Jesus left the house and sat beside the lake.

1 同じ日の後で、イエスさまは家を出て、湖の近くに座りました。

2 A large crowd soon gathered around him, so he got into a boat. Then he sat there and taught as the people stood on the shore.

2 大ぜいの群衆がすぐにイエスさまのまわりに集まりましたので、イエスさまは舟に乗り込みました。それからイエスさまはそこに座って教えました。人々は浜に立っていました。

3 He told many stories in the form of parables, such as this one: “Listen! A farmer went out to plant some seeds.

3 イエスさまはたくさんの話を、たとえ話の形で話しました。たとえばこの話のようにです。「聞きなさい。ある農夫が種を蒔くために出かけました。

4 As he scattered them across his field, some seeds fell on a footpath, and the birds came and ate them.

4 彼が畑の中で種を蒔いていると、小道に落ちた種があり、鳥が来てそれを食べました。

5 Other seeds fell on shallow soil with underlying rock. The seeds sprouted quickly because the soil was shallow.

5 ほかの種は下に岩盤のある浅い地面に落ちました。土が浅かったので種はすぐに芽を出しました。

6 But the plants soon wilted under the hot sun, and since they didn’t have deep roots, they died.

6 しかし暑い日差しの下で、木はやがてしおれました。そして深い根がなかったので枯れてしまいました。

7 Other seeds fell among thorns that grew up and choked out the tender plants.

7 ほかの種はイバラの中に落ちました。イバラが育つと、かよわい木を枯らしてしまいました。

8 Still other seeds fell on fertile soil, and they produced a crop that was thirty, sixty, and even a hundred times as much as had been planted!

8 ほかの種は肥沃な地面に落ちて、蒔かれた種の三十倍、六十倍、場合によっては百倍の収穫を生み出しました。

9 Anyone with ears to hear should listen and understand.”

9 聞く耳のある者はだれでも聞いて理解しなさい。」

10 His disciples came and asked him, “Why do you use parables when you talk to the people?”

10 イエスさまの弟子たちが来てたずねました。「どうして人々に話をするときに、たとえ話を使うのですか。」

11 He replied, “You are permitted to understand the secrets of the Kingdom of Heaven, but others are not.

11 イエスさまは答えました。「あなた方は天の王国の秘密を知ることを許されているが、他の人は許されていません。

12 To those who listen to my teaching, more understanding will be given, and they will have an abundance of knowledge. But for those who are not listening, even what little understanding they have will be taken away from them.

12 私の教えに耳を傾けて聞く者たちには、より多くの理解力が与えられ、豊富な知識を持つようになります。しかし聞いていない者たちは、ほんのささいな理解力さえ取り上げられてしまうのです。

13 That is why I use these parables. For they look, but they don’t really see. They hear, but they don’t really listen or understand.

13 それが私がたとえ話を使う理由です。と言うのは彼らは見ているが本当には見ず、聞いてはいるが本当に耳を傾けては聞いて理解することもしません。

14 This fulfills the prophecy of Isaiah that says, ‘When you hear what I say, you will not understand. When you see what I do, you will not comprehend.

14 これはイザヤが次のように言う預言の実現なのです。『あなた方は私の言うことを聞くが、理解しない。あなた方は私のすることを見るが、理解に至らない。

15 For the hearts of these people are hardened, and their ears cannot hear, and they have closed their eyes -- so their eyes cannot see, and their ears cannot hear, and their hearts cannot understand, and they cannot turn to me and let me heal them.’

15 なぜならここの人々の心は硬化し、耳は聞こえないし、目は閉じているのだから。だから彼らの目は見えず、耳は聞こえず、心は理解できない。そして彼らは私に向き直り、私に彼らを癒させることができない。』

16 “But blessed are your eyes, because they see; and your ears, because they hear.

16 ですが、あなた方の目は幸せです。なぜなら見えるのですから。あなた方の耳も。なぜなら聞こえるのですから。

17 I tell you the truth, many prophets and righteous people longed to see what you see, but they didn’t see it. And they longed to hear what you hear, but they didn’t hear it.

17 私はあなた方に本当のことを言います。たくさんの預言者や正義の人たちが、あなた方が見ているものを見たいと願ったのです。しかし彼らは見ませんでした。あなた方の聞いていることを聞きたいと願ったのです。しかし彼らは耳にしなかったのです。

18 “Now listen to the explanation of the parable about the farmer planting seeds:

18 「さぁ、種を蒔く農夫のたとえ話の説明を聞きなさい。

19 The seed that fell on the footpath represents those who hear the message about the Kingdom and don’t understand it. Then the evil one comes and snatches away the seed that was planted in their hearts.

19 小道に落ちた種が意味するのは王国の話を聞いても理解しない人たちのことです。すると邪悪な人が来て、心に蒔かれた種をひったくっていきます。

20 The seed on the rocky soil represents those who hear the message and immediately receive it with joy.

20 岩盤のある地面に落ちた種が意味するのは、話を聞いてすぐに喜んでそれを受け入れる人たちのことです。

21 But since they don’t have deep roots, they don’t last long. They fall away as soon as they have problems or are persecuted for believing God’s word.

21 しかし深い根がないため長く持続しません。問題があったり、神さまの言葉を信じることで迫害を受けると、すぐに脱落します。

22 The seed that fell among the thorns represents those who hear God’s word, but all too quickly the message is crowded out by the worries of this life and the lure of wealth, so no fruit is produced.

22 イバラの中に落ちた種が意味するのは、神さまの言葉を聞くが、世の中の心配事と富の誘惑に心を奪われて、実を結ばない人たちのことです。

23 The seed that fell on good soil represents those who truly hear and understand God’s word and produce a harvest of thirty, sixty, or even a hundred times as much as had been planted!”

23 肥沃な地面に落ちた種が意味するのは、神さまの言葉を誠実に聞いて理解し、蒔かれた種の三十倍、六十倍、ときには百倍の収穫をもたらす人たちのことです。」




ミニミニ解説

マタイの福音書の第13章です。第13章にはイエスさまの話したたとえ話が書かれています。イエスさまは群衆に向かってたくさんのたとえ話をしました。「種を蒔く農夫」の話もそのうちのひとつですが、この箇所が画期的なのは、たとえ話の後でイエスさまがたとえ話をする理由が明かされるからです。

このたとえ話と同じ記述は、マルコとルカに見られます。

マルコは、Mark 4:1-9(マルコの福音書第4章第1節~第9節)です。「1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」 9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」」([新改訳])。

ルカは、Luke 8:4-8(ルカの福音書第8章第4節~第8節)です。「4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は記述がほぼ同じ「マルコ」からの採用です。

イエスさまがいる場所はおそらくイエスさまがガリラヤ地方の伝道活動で拠点としていたガリラヤ湖北岸のカペナウムの町です。イエスさまは家を出て湖の方へ歩いていき、湖の近くに腰を下ろします。すぐにたくさんの人々が集まって来たので、イエスさまは船に乗り込みます。きっとあまりにもたくさんの人が押し寄せて来たので、イエスさまは船に乗って避難したのでしょう。船に乗って湖上へ出てしまえば、人々はイエスさまのところへ殺到することができません。人々は岸に立ち尽くすしかありませんでした。そういう状態でイエスさまは群衆に向かって話し始めます。

今回の話は農夫が種を蒔く話です。「小道に落ちた種」、「浅い地面に落ちた種」、「イバラの中に落ちた種」、「肥沃な地面に落ちた種」の四つの状態が出現し、種はそれぞれの運命をたどります。

最初にこの話を読むと、この農夫はどうして貴重な種を小道や、浅い地面や、イバラの中に蒔くような愚かなまねをするのか、そんなことをしたら鳥に食べられてしまったり、枯れてしまうのもやむを得ないではないか、と考えてしまいます。ところがどうやら2000年前のイスラエルで行われていた農法は私たちが考える農法とは違ったようです。私たちが農夫の種蒔きを想像すると、農夫はまず畑を耕して、それから細長く土を盛り上げた畝(うね)をきれいに作って、そこに種を蒔いていきます。それから種が順調に作物へと育つように、注意深く管理します。農夫は収穫の時期になれば、畑からある程度の量の作物が得られることを確実に期待していて、もし何か、たとえば災害とか害虫など被害で収穫が失われてしまったら、それはそれはがっかりします。

これに対して当時のイスラエルの農法はまったく違ったようです。種蒔きの季節になると、農夫は収穫の終わった後でそのまま放置されていた畑に出ていって、そのあたりにところかまわずバラバラと種を蒔いてしまうのです。それからザクザクと種を蒔いたあたりを耕して種の成長を助けます。近代的な農具がなければ、農法はそうならざるを得ないのかも知れません。毎回そんな風に作られる畑だとすると、「収穫の後放置されていた畑」と言うのも、私たちには想像できないくらい荒れた状態だったのかもしれません。そういう農法ですから、結果としてうまく収穫に結びつく種もあれば、そのまま失われてしまう種もありました。

当時の農法がそんな風なのだとすると、農夫は「小道」や「浅い地面」や「イバラの中」や「「肥沃な地面」を選んで種を蒔いているのではないのです。種はただバラバラと蒔かれ、ひとつひとつの種はさまざまな状況をくぐり抜けて、ときには鳥に食べられたり、ときには枯れてしまったり、そしてときには収穫に結びついたりするのです。ギャンブル的な要素がかなり濃い農法ですから、もし三十倍、六十倍、百倍といった大きな収穫が得られたら、それは当たり前のことではなくて、そのこと自体に単純に大きな喜びがあるのです。

イエスさまは第9節で「聞く耳のある者はだれでも聞いて理解しなさい」と呼びかけます。何を理解すれば良いのでしょうか。実はこの話には裏の意味があって、イエスさまがその意味をここから弟子たちだけに明かしていきます。


第10節からと同じ記述は、マルコとルカに見られます。

マルコは、Mark 4:10-12(マルコの福音書第4章第10節~第12節)です。「10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」([新改訳])。

ルカは、Luke 8:9-10(ルカの福音書第8章第9節~第10節)です。「9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は記述がほぼ同じ「マルコ」からの採用です。

マタイはマルコの話を詳しく書いています。まずイエスさまがわざわざたとえ話を使って、人々に意味の伝わりにくい、わかりにくい話をする理由、それはまず第14節に書かれているように預言者イザヤの言葉の実現なのです。そしてそれは耳を傾けてよく聞く者だけが話の真の意味を理解して、そうでない者にはわざとわからないようにするため、つまり聞き手を、理解できる人とそうでない人の二つのグループに分けるためなのです。

イザヤは紀元前700年頃、つまりイエスさまの時代の700年くらい前の預言者です。イスラエルの王国が栄華を極めたのははるか昔の話で、その後王朝は南北に分かれ、何代もの王が代を重ね、いよいよ壊滅へと向かう頃にイザヤは現れました。引用の箇所は、Isaiah 6(イザヤ書第6章)の第9節~第10節ですが、イザヤ書の第6章は全体が13節と短く、なんともすばらしい私の大好きな章ですのでぜひ全体を読んでみましょう。冒頭に登場するウジヤ王は南朝ユダの王です。

「「1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」 4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」 6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」 8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』 10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」 11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」」([新改訳])。

少し解説します。預言者イザヤはウジヤ王が死んだ年に神さまを見てしまいます。神さまを褒め称えながらまわりを多数飛んでいるセラフィムは高位の天使です。六つの翼を持ちますが、そのうちの四枚で自分の顔と足を隠しています。自分の姿を神さまにさらしたくないのです。

イザヤは神さまを見た瞬間、「ああ。私は、もうだめだ」と言っています。神さまとその周囲の空間のあまりの神聖さにうちのめされ、自分のような汚れた存在が神さまを直接目にして、そのまま生きていられるわけがない、きっと殺されると自然に悟ったのです。ところが天使がひとり飛んできて、火を使ってイザヤに触れて、汚れを瞬時に取り去ってしまいます。イザヤは喜びにあふれ、神さまが「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言うのを耳にして、「私が行きます」と立候補します。神さまの言葉を預かって伝えるのが、もともと預言者に与えられた仕事なのです。

そのときに神さまから預かる言葉が、今回、イエスさまが引用した部分です。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』。その理由は「自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」とされています。天に君臨する神さまは全知全能であり、宇宙の創造主です。人類の中から特別にユダヤ人を選んだというのに、そのユダヤ人は神さまの存在を無視して汚れた愚行のやりたい放題です。だから神さまはユダヤ人に対して激しく怒っているのです。

イザヤは悲しくなって嘆願するようにたずねます。「主よ、いつまでですか」。神さまは、それは国が滅び、土地が荒れ果てて、人口が十分の一にまで減って、さらにその人たちさえもが焼き払われるまでだと言います。ですが「その中に切り株がある」と結びます。そこに最後の希望が残されているのです。そしてその希望とは「聖なるすえ」だと言います。「すえ」とは「末」のことで、家系の後の方に生まれる人のことです(私たちも「末っ子」のように使うことがあります)。聖なる家系の末裔に生まれてくる人、そこに最後の希望が残されている、と結ばれているのです。この希望の聖なるすえこそがイエスさまだとするのが福音書です。

イエスさまは第11節で弟子たちに「あなた方は天の王国の秘密を知ることを許されている」と言いました。そして第17節では、これまでに存在したたくさんの預言者や義人たちが、見たい、聞きたい、と願って叶わなかったことを弟子たちが見て聞くことになるのだ、と言います。


第18節からはイエスさまが「種を蒔く農夫」のたとえ話の本当の意味を明かします。

同じ記述は、マルコとルカに見られます。マルコは、Mark 4:13-20(マルコの福音書第4章第13節~第20節)です。「13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです -- みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです -- みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです -- みことばを聞いてはいるが、19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」([新改訳])。

ルカは、Luke 8:11-15(ルカの福音書第8章第11節~第15節)です。「11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は記述がほぼ同じ「マルコ」からの採用です。

まず最初にここの部分は[NLT]の英文を訳していて違和感を感じました。蒔かれた種のたどる四つのパターンについて、[NLT]では、「The seed that fell on the footpath represents(小道に落ちた種が意味するのは)」などのように、「The seed(種)」を主語に話を進めています。が、[新改訳]では、たとえばマルコでは第14節でわざわざ「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」と断った上で、「みことばが道ばたに蒔かれるとは」と、「(種が)蒔かれること」を主語にしています。同様にルカは「(種が)落ちること」を主語にしています。[KJV]では「When any one heareth the word of the kingdom, and understandeth it not(拙訳:王国の話を聞いて理解しない人は)」と話し始め、「This is he which received seed by the way side.(拙訳:種を小道で受け止めた人です)」と結び、主語は「he(彼=人)」です。この部分は[新改訳]では、「御国のことばを聞いても悟らないと」で始まり、「道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです」と結びます。つまり原本の主語は「種」ではなくて、「種が蒔かれること」「種を受け止める人」のようです。どうして[NLT]が「種」を主語にした文章にしてしまったのか、ちょっと不思議に思いました。

さてたとえ話の意味です。上でも触れたようにマルコでは第14節でわざわざ「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」と書いています。つまり農夫によって蒔かれる種とは「みことば」=「聖書」のことなのです。そして四種類の種が蒔かれる土壌は、その聖書の話を聞く人のことなのです。だとすると種を蒔く農夫はイエスさまであり、あるいはイエスさまを信じる弟子たちであり、イエスさまの十字架の後で世の中に福音を伝える教会の人たちです。人に聖書の話をすると、神さまの言葉はその人の心に入り、それから四種類の運命をたどる、と言うのがこの話の本当の意味なのでした。それは「理解しない人」(この人たちからは聖書の言葉が奪い取られる)、「喜んで受け入れるが長続きしない人」、「受け入れはするが心配事や誘惑に心を奪われて実を結ばない人」、そして「誠実に聞いて話を理解し、たくさんの収穫をもたらす人」の四パターンです。

当時の農法では、種は農夫によって荒れた畑に向かって一方的に蒔かれて、その後で蒔かれた種がどうなるかは、種の蒔かれた場所の土壌次第でした。そんなギャンブルみたいな農法だから、もし一部の種からたくさんの実を結ぶような大きな収穫が得られたら、それはそれは農夫にとっては大きな喜びなのでした。聖書の言葉、神さまの言葉を伝えるのも同じ考え方で良いと言うのです。聞き手がどんな人なのかは気にしないで、一方的にどんどん伝えればよいのです。その種がどのような運命をたどるかは、聞き手のコンディション次第なのです。

当時の畑は収穫の後でそのまま放置されていたようですから、次に種を蒔こうとしたときにそこが果たして肥沃な土壌なのか、岩の上の浅い土なのか、すぐにイバラが生えてきてしまうような場所なのかは、表面を見ただけではわかりません。同じように聖書の話を聞く人の内面は、その人を表面的に見ただけではまったくわかりません。また人の考え方は年齢やそのときどきの状況でも変化しますから、まったく予測不可能です。だから伝える人は相手の土壌のことは気にしないで、ただ一方的に伝えればそれで良いのです。聖書の言葉はきっとその人の中で、四つのパターンのいずれかをたどるのです。

私はいまこうして聖書を紹介していますが、2002年に私がクリスチャンになったとき、私の家の近所の教会で私を聖書を使った英会話教室に招いてくれた日本人の牧師さんは「あなたがクリスチャンになるとは思いもよりませんでした」と言っていました。その英会話教室で、私に最初に英語で聖書の中身を教えてくれたテネシー州から来たアメリカ人も、「まさか、あなたがクリスチャンになるとは思わなかった」と言っていました。つまり私は彼らから見ればまったく見込みのない土壌だったわけです。マタイの福音書を生み出した1世紀当時の教会では、クリスチャンを敵視してコミュニティから追放して迫害しようとするユダヤ人や、まったく聖書の文化を共有しない異邦人(外国人)に対して福音を伝えなければなりませんでしたから、それはもう、荒れ野に向かってひたすら種を蒔くような気持ちだったでしょう。聖書のこの部分はそういう人たちに向けて書かれたのだと思います。

最後に、今回の最初のたとえ話の説明を読んでわかったことの確認です。それはイエスさまのひとつひとうのたとえ話の裏には、弟子にしか知ることが許されていない、裏の意味がある、と言うことです。








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