マタイの福音書第12章第38節~第45節:ヨナのしるしマタイの福音書第12章第15節~第21節:イエスさま、神さまが選んだしもべ

2015年12月20日

マタイの福音書第12章第22節~第37節:イエスさまと悪霊の王子

第12章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus and the Prince of Demons

イエスさまと悪霊の王子


22 Then a demon-possessed man, who was blind and couldn’t speak, was brought to Jesus. He healed the man so that he could both speak and see.

22 それから目が見えず、口もきけない、悪霊に取り憑かれた男がイエスさまのところへ連れてこられました。イエスさまはこの男を癒し、それで男は口がきけて目も見えるようになりました。

23 The crowd was amazed and asked, “Could it be that Jesus is the Son of David, the Messiah?”

23 群衆は驚いてたずねました。「イエスさまがダビデの息子、救世主なのだろうか」。

24 But when the Pharisees heard about the miracle, they said, “No wonder he can cast out demons. He gets his power from Satan, the prince of demons.”

24 ところがファリサイ派の人たちが、この奇跡について耳にすると、彼らは言いました。「彼が悪霊を追い出せても何の不思議もない。彼は悪霊の王子のサタンから力を得ているのだ。」

25 Jesus knew their thoughts and replied, “Any kingdom divided by civil war is doomed. A town or family splintered by feuding will fall apart.

25 イエスさまは彼らの考えを知って答えました。「どんな王国でも内輪で分裂すれば運の尽きです。町でも家でも不和で割れれば、ばらばらに壊れます。

26 And if Satan is casting out Satan, he is divided and fighting against himself. His own kingdom will not survive.

26 もしもサタンがサタンを追い出しているのなら、サタンは分裂して自分自身と戦っているのです。サタンの王国は生き残れません。

27 And if I am empowered by Satan, what about your own exorcists? They cast out demons, too, so they will condemn you for what you have said.

27 そしてもし私がサタンによって権能を得ているのなら、あなた方の悪魔払いはどうなのですか。彼らも悪魔を追い出すのですから、あなた方の言葉で、彼らがあなた方を有罪に定めるのです。

28 But if I am casting out demons by the Spirit of God, then the Kingdom of God has arrived among you.

28 しかしもしも私が神さまの霊によって悪霊を追い出しているのなら、もう神さまの王国はあなた方のところにすでに来ているのです。

29 For who is powerful enough to enter the house of a strong man like Satan and plunder his goods? Only someone even stronger -- someone who could tie him up and then plunder his house.

29 サタンのような強い人の家に入って物品を略奪できるほどの力を持っているのは誰ですか? 誰か、もっと強い人だけ、誰か、サタンを縛り上げて、それから彼の家を略奪できる人だけです。

30 “Anyone who isn’t with me opposes me, and anyone who isn’t working with me is actually working against me.

30 私と共にいない人はすべて私に反抗しています。そして私と共に働いていない人は、実際のところ、私に逆らって働いているのです。

31 “So I tell you, every sin and blasphemy can be forgiven -- except blasphemy against the Holy Spirit, which will never be forgiven.

31 だから、私はあなた方に言います。どのような罪も冒涜も許されますが、聖霊に対する冒涜は例外です。それは決して許されません。

32 Anyone who speaks against the Son of Man can be forgiven, but anyone who speaks against the Holy Spirit will never be forgiven, either in this world or in the world to come.

32 人の子に反対する発言をしても、どんな人でも許されます。しかし聖霊に反対する発言をする人は、この世でも、これから来る世でも、許されません。

33 “A tree is identified by its fruit. If a tree is good, its fruit will be good. If a tree is bad, its fruit will be bad.

33 「木はその実によって見極められます。木が良ければ、その実も良いのです。木が悪ければ、その実も悪いのです。

34 You brood of snakes! How could evil men like you speak what is good and right? For whatever is in your heart determines what you say.

34 ヘビの子よ。あなた方のように邪悪な者たちに、どうして良いこと、正しいことが言えましょうか。あなたの心にあることが、あなたが何を言うかを決めるのですから。

35 A good person produces good things from the treasury of a good heart, and an evil person produces evil things from the treasury of an evil heart.

35 良い人は、良い心の宝物庫から、良いものを作りだし、邪悪な人は、邪悪な心の宝物庫から、邪悪なものを作り出すのです。

36 And I tell you this, you must give an account on judgment day for every idle word you speak.

36 私はあなた方に言っておきます。あなた方は、裁きの日に、あなた方の話す、くだらない言葉すべてについて申し開きをしなければならないのです。

37 The words you say will either acquit you or condemn you.”

37 あなた方が話す言葉は、あなた方を無罪とするかも知れませんし、あるいは有罪とするかも知れません。」




ミニミニ解説

マタイの第12章、今回はファリサイ派が、イエスさまの悪霊を追い出す除霊能力はサタンから得ているとの言いがかりをつける、一般に「ベルゼブル論争」と呼ばれる部分です。

今回と同様の記述はマルコとルカに見つかります。

マルコはMark 3:20-26(マルコの福音書第3章第20節~第26節)です。「20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」([新改訳])。

ルカはLuke 11:14-20(ルカの福音書第11章第14節~第20節)です。「14 イエスは悪霊、それも口をきけなくする悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、口がきけなかった者がものを言い始めたので、群衆は驚いた。15 しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言う者もいた。16 また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用に「Q資料」を加えてできていると考えられます。

[NLT]では繰り返し「サタン」「サタン」とかかれていますが、[新改訳]や[KJV]では、その箇所に「ベルゼブル(Beelzebub)」という単語をあてています。「ベルゼブル」(あるいは「ベルゼバブ」「ベルゼブブ」)はヘブライ語で「ハエの王(蝿の王)」の意味です。単語は前半の「ベル」と後半の「ゼブル(気高い・高い館)」に分かれます。前半の「ベル」はもともとパレスチナ周辺の異国の民族が崇めた「バアル神」から来ていて、「バアル・ゼブル」で「気高き王」または「高き館に住む王」の意味になり、「バアル神」を褒め称えて呼ぶ名前のひとつのようです。

「バアル神」は旧約聖書の中でユダヤ人の周辺の異民族が信仰する邪教の神として何度も登場します。ユダヤ人が周辺の民族と交流してバアル神を信仰し始めると、神さまはそれを嘆き怒って預言者を遣わし、ユダヤ民族を激しく非難させます。もともと「バアル・ゼブル(気高き王)」と呼ばれていたバアル神ですが、後半の「ゼブル」の部分に、音の似た「ゼブブ(ハエ)」を当てはめて「ハエの王」と呼んでバカにしたようで、旧約聖書の中ではそれが定着したようです。

マタイでは、ファリサイ派は群衆が「イエスさまがダビデの息子、救世主なのだろうか」と言うのに対して、「彼は悪霊の王子のサタンから力を得ているのだ」と反論しています。旧約聖書を読むとユダヤ民族の救世主はダビデ王の血筋に現れると解釈できるところが何カ所かあり、ユダヤ人は「救世主」を「ダビデの子」と呼んでいたのです。ファリサイ派はイエスさまが悪霊を追い出す奇跡の技に驚き、「彼は悪霊の王子のサタンから力を得ているのだ」と反論します。イエスさまの除霊の力を神さまから得た権能とするのか、神さまに敵対するサタンから得た権能とするのか、それが「ベルゼブル論争」です。

旧約聖書を読むとサタンはもともと神さまに仕えていた高位の天使でしたが、野望を抱いて追放されたと解釈できます。サタンが天から追放されるときにすべての天使の三分の一がサタンに従ったとされていて、このサタンに追従した天使が悪霊や悪魔となりました。ですのでイエスさまは「サタンがサタンを追い出したらそれは内輪もめになってしまう」と反論します。また第27節では「あなた方の悪魔払い」が言及されています。どうやら当時は悪魔払いがユダヤ人の間で広く行われていたようです。イエスさまはもし自分の悪魔払いがサタンの力によるものなら、そのように言う自分たちの行う悪魔払いはどうなのか、と反論します。

そして第28節でイエスさまは、「もしも私が神さまの霊によって悪霊を追い出しているのなら、もう神さまの王国はあなた方のところにすでに来ているのです」と言います。ここは「マルコ」にはありませんが、「ルカ」と共通ですからイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用でしょう。イエスさまによると、ある条件が整えば「もう神さまの王国はあなた方のところにすでに来ている」と言うことになります。この言葉はほかの箇所にも出てきます。「神さまの王国」とは「神さまの支配が行き届き、神さまの意志が隅々にまで実現している場所」のことでしょう。もしイエスさまが神さまの意志を100%実行しているのなら、あるいは、もしイエスさまが神さまの意志を100%実行していると心の底から信じられるのであれば、その人の心の中には神さまの支配が行き届き、神さまの意志が実現していることになります。「神さまの王国」はひとりひとりの心の中からスタートさせることができるのです。


続く箇所と同様の記述はやはりマルコとルカに見つかります。

マルコはMark 3:27-30(マルコの福音書第3章第27節~第30節)です。「27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」([新改訳])。

ルカはLuke 11:21-23(ルカの福音書第11章第21節~第23節)です。「21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」([新改訳])。またルカにはLuke 12:10(ルカの福音書第12章第10節)に次の記述があります。「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはまず「マルコ」からの採用であり、「マルコ」も「ルカ」もかなり簡潔に書かれていますから、残りの部分は「マタイ」の著者が独自の資料で補ったと考えられます。

前の部分でイエスさまはファリサイ派の言いがかりのように、もし自分がサタンから力を得て悪霊を追い出しているのであれば、サタンがサタンを追い出していることになり、それでは内輪もめになってしまう、と反論しました。そして逆にもし、イエスさまが神さまの霊によって力を得て悪霊を追い出しているのなら、もう神さまの王国は到来しているのだ、と告げたのでした。第29節はこの部分の締めくくりです。「マルコ」と「ルカ」ではわかりにくかった「強い人の家に押し入って家財を略奪する」話が、「マタイ」ではわかりやすく書き換えられています。つまりサタンがサタンを追い出しているのでははなはだ理不尽な話ではあるが、ではサタンほどの強い人の家を略奪できるのは誰なのか、と問いかけます。悪霊が取り憑いた人の身体を家にたとえ、その中に踏み込んで悪霊を追い出せるほどの、サタンの力を凌駕するほどの力を持つのはいったい誰なのか、と問いかけているのです。イエスさまは答えを言いませんが、それは神さましかいないでしょう、自分は神さまの力を借りて悪霊を追い出しているのです、だから神さまの国はもうすでに到来しているのですよ、と告げているのです。

第30節からは解釈が難しくなります。許される罪と許されない罪が書かれていて、どうやら「聖霊に対する冒涜」は許されないようです。三位一体説では、父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三者は別々の位相を持っているが実は一体の神さまである、と説きます。つまりイエスさまも聖霊も、神さまと同格に扱われているのです。私はここの部分は単純に次のように考えています。「イエスさま」という地上で人々の前で奇跡を行い、神さまの言葉を語る個人を信じるか信じないか、たとえそれについて間違うようなことがあっても(つまりそれはイエスさまを信じない、イエスさまを認めない、という選択をすることを指すのでしょう)、そのことは許されます。が、すべての出来事の根源となっている旧約聖書から脈々と描かれ預言されている、神さまを信じないのであれば、それは決して許されない、と。あるいは神さまの意志とか、神さまの正しさを信じないのであれば、それは許されない、のように言い換えた方が良いのかも知れません。


第33節からは、人の善し悪しは、その「実」を見ればわかる、という話です。これは一度、マタイの第7章で語られた内容の繰り返しです。Matthew 7:15-20(マタイの福音書第7章第15節~第20節です。もう一度、見てみましょう。「15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。 19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」([新改訳])。 「マタイの福音書」が書かれたのは、イエスさまの十字架死~復活の後、30~40年ほど経った頃です。この頃は十二使徒とその仲間たちを含め、ユダヤ人のコミュニティを巡回して話をする指導者が数多く存在したようです。「マタイ」は第7章で「にせ預言者に気をつけろ」と警告を発しています。それはつまり「マタイ」の教会から見て、「危険な教え」を伝える預言者が存在していたと言うことです。

ただ、この部分が「マタイ」独自の資料でないことは、類似の記述が「ルカ」に見つかることからわかります。Luke 6:43-45(ルカの福音書第6章第43節~第45節)です。「43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用と言うことになります。

良い実を結ばない悪い木が切り倒されて火に投げ込まれる、との記述は、洗礼者ヨハネの言葉に似ています。Matthew 3:5-10(マタイの福音書第3章第5節~第10節)を見てみましょう。「5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」([新改訳])。「Q資料」は洗礼者ヨハネの言葉も載せていたようですから、この部分が「Q資料」からの引用によって編集されていることがここからもわかります。この部分は、「Q資料」から採用されて、「マタイ」の著者によって「危険な教え」を伝える預言者を警戒する文脈に編集されたのです。

第34節に「ヘビの子よ」と言う呼びかけがありますが、これは洗礼者ヨハネがファリサイ派とサドカイ派に「まむしのすえたち」と呼びかけているのをそのまま使っています。ただし、マタイが「ヘビの子よ」と呼んでいるのは、第7章からもわかるように「危険な教え」を伝える預言者たちです。マタイの教会が警戒した「危険な教え」が何なのか、それは推測の域を出ません。マタイの教会はファリサイ派と類似の保守的なユダヤ人層から出て、そこから決別してできた教会のようで、福音書の内容を見ても、引き続きモーゼの律法を重視していることがわかります。イエスさまは自分の役目を「律法の真の成就者」として、ユダヤ人が誤ってとらえていた律法の意味からユダヤ人を解放する発言をしていますから、どこまで律法を守ることを正しいとするのか、「マタイ」の教会の立場は難しいところにあったはずです。

本来の成り立ちがそのようなところにあるとしても、この部分は一般的な教えとして読むことも可能です。「あなたの心にあることが、あなたが何を言うかを決める」、これは私の心にグサリと突き刺さります。 平静を保っているうちは良いのですが、感情的になって自分をコントロールできなくなるような状況下で、私は自分の口から出て来る言葉に驚かされることがあります。そういう自分も驚くような意外な言葉は、まぎれもなく自分の内面から出てきているわけで、自分の深層心理の奥底に隠されてる「自分の正体」を知って愕然とします。

マルコに次の記述があります。Mark 7:14-23(マルコの福音書第7章第14節~第23節)です。「14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。16 {聞く耳のある者は聞きなさい。} 17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」([新改訳])。

このように私たちの口から出る不品行な言葉、欲望、批判や悪口、高慢な言葉が、人を汚すのです。ここで言う「汚(けが)れ」とは、神さまから見たときに私たちが汚れて見える、と言う意味で、この汚れを見て神さまはガッカリされ、この汚れがある限り私たちは神聖な神さまの元へは行けません。 そしてイエスさまによれば、私たち全員がこれから来る裁きの日に、こういう邪悪な言葉のひとつひとつについて、神さまに申し開きをしなければならないのです。









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