マタイの福音書第12章第15節~第21節:イエスさま、神さまが選んだしもべマタイの福音書第12章第1節~第8節:安息日についての議論

2015年12月20日

マタイの福音書第12章第9節~第14節:イエスさまが安息日に癒す

第12章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Heals on the Sabbath

イエスさまが安息日に癒す


9 Then Jesus went over to their synagogue,

9 それからイエスさまは会堂へ出かけて行きました。

10 where he noticed a man with a deformed hand. The Pharisees asked Jesus, “Does the law permit a person to work by healing on the Sabbath?” (They were hoping he would say yes, so they could bring charges against him.)

10 そこでイエスさまは片手が変形している人に気づきました。ファリサイ派の人たちがイエスさまにたずねました。「律法は安息日に癒しの活動をすることを許可していますか。」 (ファリサイ派はイエスさまが「はい」と言い、それでイエスさまを告発できるのではないかと思っていたのでした。)

11 And he answered, “If you had a sheep that fell into a well on the Sabbath, wouldn’t you work to pull it out? Of course you would.

11 イエスさまは答えました。「安息日にあなたの羊が井戸に落ちたとしたら、あなたはそれを引き上げるために作業しないのですか。もちろん、するでしょう。

12 And how much more valuable is a person than a sheep! Yes, the law permits a person to do good on the Sabbath.”

12 人間は羊よりも、どれほど価値があるでしょうか。はい、そうです。律法は安息日に人が良いことをすることを許可しています。」

13 Then he said to the man, “Hold out your hand.” So the man held out his hand, and it was restored, just like the other one!

13 それからイエスさまはその人に言いました。「手を伸ばしなさい。」 そこでその人は手を伸ばしました。すると手は元通りになっていて、もう一方の手と同じなのでした。

14 Then the Pharisees called a meeting to plot how to kill Jesus.

14 それからファリサイ派の人たちは、イエスさまを殺す方法をたくらむために会合を召集しました。




ミニミニ解説

マタイの第12章は前回の安息日の議論に引き続き、今回は、イエスさまとファリサイ派の会堂での直接対決の場面です。

今回と同様の記述はマルコとルカに見つかります。

マルコはMark 3:1-6(マルコの福音書第3章第1節~第6節)です。「1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。」([新改訳])。

ルカはLuke 6:6-11(ルカの福音書第6章第6節~第11節)です。「6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。7 そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。8 イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」 10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。11 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。」([新改訳])。

今回の話の舞台となった会堂(シナゴーグ)はユダヤ人の町や村に必ず存在する建物で、安息日(土曜日)には町の成人男子が全員集まって礼拝の儀式を開き、平日には町の子供たちを集めて学校として使っていました。イエスさまの時代には、本来はユダヤ教の礼拝儀式を司るべき祭司職層が堕落して支持を失い、彼らに代わって旧約聖書の律法の専門的な学習過程を終えた「律法の先生」が会堂で中心的な役割を果たしていました。律法では祭司職に就けるのはユダヤ人士族のレビ族に限られますが、律法の先生は長い専門課程を終えれば誰にでもなれるのでした。そしてこの律法の先生たちの大半は宗教結社のファリサイ派に所属していました。会堂にはモーゼの座と呼ばれる特別な場所があって、そこにはたいていファリサイ派の律法の先生が座っていました。

「マタイ」「マルコ」「ルカ」を比較すると違いに気づきます。マルコとルカではイエスさまが主体的に出来事をすすめています。つまりイエスさまの側でファリサイ派の視線を感じ、イエスさまからファリサイ派に質問をして挑戦し、ファリサイ派が黙していると、ファリサイ派の人たちの目の前で癒しの奇跡を行います。「マルコ」ではイエスさまはファリサイ派に対して怒りを抱き、心の頑なさを嘆いてさえいます。そしてマルコではファリサイ派は最後に「ヘロデ党」と一緒にイエスさまの殺害計画を練り始めます。一方「マタイ」では、会堂に現れたイエスさまに対してファリサイ派の側から質問をして、イエスさまは彼らの質問に答える形で癒しを行います。またマタイではイエスさまは井戸に落ちた羊の話を例に挙げていますが、マルコとルカでは羊の話は出てきません。

いつものように「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用となります。話の展開は「マルコ」と「ルカ」がよく似ていますから、オリジナルの話は「マルコ」と「ルカ」に近かったのではないかと考えられ、「マタイ」が福音書の方針に合わせて話を編集しているようです。

ファリサイ派は旧約聖書のモーゼの律法を守ることが神さまの目に正しく映ることだと信じて主張し、さらにその「モーゼの律法」の範疇には旧約聖書の最初の五冊のモーゼ五書に記載されているルールだけでなく、ユダヤ人長老の間で口頭で伝承されて来た律法の運用規則を定めた慣習法までもが含まれるのだとして、それらの掟のすべてを厳格に守って見せることで民衆の支持と尊敬を集めていました。特に「安息日」については厳格に対応していたようで、前回の「刈り入れ」の件も、今回の「癒し」の件も、安息日についての議論になっています。イエスさまは安息日の考え方でファリサイ派と対立し、さらに癒しの奇跡を行うなどして民意を集めたので、ファリサイ派はこれを理由にイエスさまの殺害を企てるようになりました。

「マタイ」の教会はファリサイ派に代表される保守的なユダヤ人層を母体としていたようです。そういう意味でファリサイ派は「マタイ」の教会を強く弾圧していたことでしょう。これを反映してか、「マタイ」では会堂ではファリサイ派の側からイエスさまに議論をふっかけて挑戦する話に変えています。

またオリジナルに近いと思われる「マルコ」でイエスさまは「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と発言していますが、「マタイ」ではこの主張を補うために井戸に落ちた羊の話を入れたのかも知れません。ですが井戸に落ちた羊はすぐに助けなければ死んでしまいますが、片手の変形してしまった男の人の癒しは、わざわざ安息日にやる緊急性はないように思えます。なので、ややちぐはぐな補強のような気がします。イエスさまは純粋に、ファリサイ派が「安息日にしてはいけないこと」として固執する細則を攻撃して、そもそも安息日はそのような理由で作られたのではない、たとえ安息日であろうと正しいことをするのに何の遠慮がいるだろうか、と主張していたのだと思います。

イエスさまに「手を伸ばしなさい」と言われて、男の人が変形してしまっていた手を差し出すと、病んでいたはずの手は、もう片方の健康な手とまったく同じに復元してしまいます。この人の手が変形していることは、町に住んでいる人なら以前から誰でもよく知っていたことのはずで、それを町中の男性が見守る集会のど真ん中で瞬時に癒してしまうのですから、人々の尊敬の目がファリサイ派からイエスさまへと移るのは当然でしょう。自分たちの教義の中心部分を攻撃され、支持基盤を脅かされたファリサイ派がイエスさまを殺す計画を練り始めるのも納得が行きます。








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