マタイの福音書第12章第9節~第14節:イエスさまが安息日に癒すマタイの福音書:第12章

2015年12月20日

マタイの福音書第12章第1節~第8節:安息日についての議論

第12章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


A Discussion about the Sabbath

安息日についての議論


1 At about that time Jesus was walking through some grainfields on the Sabbath. His disciples were hungry, so they began breaking off some heads of grain and eating them.

1 そのころイエスさまは安息日に穀物畑の中を歩いていました。弟子たちは空腹だったので、穀物の穂先をいくつか割り取って食べ始めました。

2 But some Pharisees saw them do it and protested, “Look, your disciples are breaking the law by harvesting grain on the Sabbath.”

2 ところがファリサイ派の人たちがそれを見ていて、異議を申し立てました。「見なさい。あなたの弟子たちは、安息日に刈り入れをして律法を破っています。」

3 Jesus said to them, “Haven’t you read in the Scriptures what David did when he and his companions were hungry?

3 イエスさまは彼らに言いました。「聖書で、ダビデと連れの者たちが空腹だったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。

4 He went into the house of God, and he and his companions broke the law by eating the sacred loaves of bread that only the priests are allowed to eat.

4 ダビデは神さまの家に入っていって、ダビデと連れの者たちは、祭司だけに食べることが許されている聖なるパンを食べて律法を破りました。

5 And haven’t you read in the law of Moses that the priests on duty in the Temple may work on the Sabbath?

5 それから寺院で仕事に従事する祭司たちは安息日にも働いて良いと、モーゼの律法にあるのを読まなかったのですか。

6 I tell you, there is one here who is even greater than the Temple!

6 あなた方に言います。ここに寺院よりも偉大な者がいるのです。

7 But you would not have condemned my innocent disciples if you knew the meaning of this Scripture: ‘I want you to show mercy, not offer sacrifices.’

7 ですがもしあなた方が聖書に書かれている『私はあなた方に慈悲を示して欲しい。いけにえを捧げて欲しいのではない』の意味を理解していたら、私の無実の弟子たちをとがめることはしなかったでしょう。

8 For the Son of Man is Lord, even over the Sabbath!”

8 なぜなら人の子は安息日の主でもあるからです。」




ミニミニ解説

マタイの第12章は、第11章に引き続きイエスさまの言葉が続きます。

今回と同様の記述はマルコとルカに見つかります。

マルコはMark 2:23-28(マルコの福音書第2章第23節~第28節)です。「23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」 25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」 27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。28 人の子は安息日にも主です。」([新改訳])。

ルカはLuke 6:1-5(ルカの福音書第6章第1節~第5節)です。「1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」 3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。4 ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」 5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用です。

イエスさまと弟子たちは麦畑の中を歩いていて、お腹が空いたので麦の穂先の殻を割って中の実を食べ始めました。それをファリサイ派の人たちが見ていて非難します。「人の麦を盗んで食べてはいけない」と言うのかと思ったら、「安息日に刈り入れの作業をするのは律法違反だ」と言うのですね。驚きました。麦の穂をつまんで手のひらでもんで殻を割る行為は「刈り入れ」の労働にあたる、だから労働行為がいっさい禁止された安息日に「刈り入れ」をするのは律法違反だ、と言う理屈です。ファリサイ派は「安息日」を守ることをことのほか重視していたと言われますが、こういう使い方をするのです。

これに対してイエスさまは、ファリサイ派の大半が律法(つまり聖書)の先生なので、聖書から引用して反論します。ダビデの話は1 Samuel  21:1-6(サムエル記第1の第21章第1節~第6節です。後にイスラエル史上でもっとも讃えられる王となるダビデは、その頃、サウル王から逃れていました。ダビデは祭司アヒメレクのところへ行きますが、なぜ一人なのかと問われて嘘をつきます。「1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」 2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」 4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」 5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」 6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。」([新改訳])。

こうしてダビデは祭司だけに許された聖なるパンを手に入れて空腹をいやします。旧約聖書の律法は「聖なるもの」と「そうでないもの」を厳格に区別していて、「そうでないもの(=汚れたもの)」が「聖なるもの」を犯すことを決して許しませんが、ここでは非常事態に陥ったダビデが「聖なるもの」の禁を犯しているのです。どうして禁を犯しても良いのか、その理由はマルコの引用部分の第27節に次のように記述されていました。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」。安息日を守ろうとするばかりに空腹で難儀していたのでは、もともと人間のために安息日を定めた神さまの意志に背いてしまうから、と言うのです。

第5節にある「寺院で仕事に従事する祭司たちは安息日にも働いて良い」の部分は、旧約聖書の律法には何カ所も見られます。たとえば安息日に、人々は仕事を休んで寺院へいけにえを捧げに行きますから、そのいけにえを受け取る役目を祭司たちは寺院で果たさなければなりません。こういう祭司の仕事は安息日の労働行為とはみなされないのです。この第5節は、マルコとルカには見られませんから、マタイが独自に差し込んだ節ということになるのでしょう。

第7節もマタイ独自の挿入です。イエスさまが引用したのはHosea 6:6(ホセア書第6章第6節)です。「私は誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」([新改訳]) 。ここでは「誠実であること」「いけにえを捧げること」「神さまを知ること」が書かれています。「いけにえを捧げること」は他の人の目に麗しく映る善行です。いけにえを捧げるところを人に見せれば「ああ、あの人は今日もいけにえを捧げているね、たいへん良い心がけだね」と良い評判を得るかも知れません。が、ホセアが言っているのは、そういう善行をして見せることよりもまずは「誠実であること」、そして「神さまを知ること」、つまり神さまの意志、神さまの意図を感じることだと言うのです。どうでしょうか、神さまの目で客観的に自分のさまざまな行為を眺めてみて、そこに誠実はあるか、動機が不純なところにないか、神さまをガッカリさせていないか、そうやってよく考えてみなさい、とイエスさまはこの句を引用して言っているのです。

第6節の「ここに寺院よりも偉大な者がいる」は、ここまでの優先順位についての総括でしょう。「寺院」が象徴する律法の遵守と、生命の危険の救済を天秤にかけたときに、人の生命を救うことを優先できるのは、律法を定めた神さまの意図を正しく解釈できる者だけです。寺院がユダヤ人にとっての最大の聖域であるとはいえ、人間の生命には代えられません。ましてやイエスさまは、神さまの元から来て人間の姿をとって地上に立った神さまです。だから自分は「寺院よりも偉大な者」なのだと言います。

そして第8節は「人の子は安息日の主でもあるからです」と結びます。「人の子」は何度も書いているように、イエスさまが話をするときに好んで用いた自分を指す呼称です(「Daniel(ダニエル書)」に登場する「人の子」から取っています)。イエスさまはここで「自分は安息日の主でもある」と言っているのです。「安息日の主」とは安息日を定めた神さまのことでしょうから、イエスさまは自分を神さまだと言っているのです。

ちなみに他人の麦畑で麦の穂を折り取って食べるのは、旧約聖書の律法では泥棒ではありません。Deuteronomy 23:25(申命記第23章第25節)には「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」([新改訳])と書いてあります。つまり泥棒と言うのは、他人の麦畑でかまなどの農具を使ってザクザク刈り取るような行為を言うのであって、麦の穂をいくつか折り取って食べるのはかまわない、と書いてあるのです。









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