マタイの福音書:第12章マタイの福音書第11章第20節~第24節:不信心者への裁き

2015年12月21日

マタイの福音書第11章第25節~第30節:イエスさまの感謝の祈り

第11章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus’ Prayer of Thanksgiving

イエスさまの感謝の祈り


25 At that time Jesus prayed this prayer: “O Father, Lord of heaven and earth, thank you for hiding these things from those who think themselves wise and clever, and for revealing them to the childlike.

25 そのときイエスさまは次のようなお祈りをされました。「天と地の主である父よ。これらのことを、自分で自分が賢いと考える者たちからは隠し、子供のような者には開示していただき、どうもありがとうございます。

26 Yes, Father, it pleased you to do it this way!

26 そうです、父よ。このようにやることがあなたを喜ばせました。

27 “My Father has entrusted everything to me. No one truly knows the Son except the Father, and no one truly knows the Father except the Son and those to whom the Son chooses to reveal him.”

27 私の父はすべてを私に託されました。父を除けば、子を本当に知る者はいませんし、子と、子が父を知らせるために選ぶ者たちを除けば、父を本当に知る者はいません。

28 Then Jesus said, “Come to me, all of you who are weary and carry heavy burdens, and I will give you rest.

28 それからイエスさまは言いました。「疲れた人、重荷を背負っている人は、すべて私のところへ来なさい。私があなた方を休ませてあげましょう。

29 Take my yoke upon you. Let me teach you, because I am humble and gentle at heart, and you will find rest for your souls.

29 私のくびきを背負いなさい。私にあなたを導かせなさい。なぜなら私の心は控えめで優しいので、あなた方は魂の安らぎを見つけることでしょう。

30 For my yoke is easy to bear, and the burden I give you is light.”

30 私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。」




ミニミニ解説

前回、イエスさまは初期の伝道の活動で巡回したガリラヤの町の人たちを厳しく非難し、旧約聖書の中で神さまに滅ぼされたり、預言者から邪悪と糾弾された異教の町の方がはるかにましであると切り捨てたのでした。

今回の部分は前回の記述とは直接関係のない、独立した語録のようです。大きく、三つのことが書いてあります。まず「これらのことを賢いと自称する人たちから隠し、子供のような者に示した」という話。次に「神さまを除けばイエスさまを真に知るものはなく、イエスさまと弟子を除けば神さまを本当に知る者はいない」という話。最後に「イエスさまのくびきは負いやすい」と言う話。

最初とその次の部分は、Luke 10:21-22(ルカの福音書第10章第21節~第22節)に同様の記述があります。「21 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。22 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、イエスさまの語録集である「Q資料」からの採用と考えられますが、ルカでは70人の弟子たちが派遣先からイエスさまの元に帰ってきたときに話した言葉の中に含めて編集されていますので、マタイとルカはそれぞれQ資料から採用して、独自の編集をしているようです。が、どちらにしてもイエスさま自身の言葉を集めた語録集からの採用です。

これらのことを賢いと自称する人たちから隠し、子供のような者に示したという話で、「賢いと自称する人たち」と言われているのは、多くがファリサイ派に所属する律法の先生たちのことでしょう。ファリサイ派はモーゼの律法と、それに紐付けて口頭伝承されてきた慣習法のすべてを表面的に守って見せることが神さまの目に正しく映る方法だと信じ、洗礼者ヨハネやイエスさまの批判には耳を傾けようとしませんでした。一方、イエスさまのまわりに集まった弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師であったり、世間一般から忌み嫌われる徴税人であったりと、2000年前のユダヤ社会では社会的地位が低く、人格さえ与えられていなかった子供のような人たちです。この人たちはイエスさまを信じて従いましたが、実はその弟子たちでさえ、イエスさまの十字架と復活を経るまでは福音の意味を理解していたわけではありませんでした。イエスさまが別の箇所で「子供のように」と例を引いた、疑いを知らない純粋な信仰を実行していた人は弟子たちの中にもいなかったのです。

神さまを除けばイエスさまを真に知るものはなく、イエスさまと弟子を除けば神さまを本当に知る者はいないと言う話は、父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三者は別々のようでいて実はひとつの神さまであるという三位一体説に通じる言葉です。地上ではイエスさまだけが神さまの視点で世の中を見て、神さまの視点で聖書に秘められた神さまの意志を語りました。それはイエスさまこそが神さまの元から、神さまの名代として地上へ派遣され、神さまの人類救済計画を実現した存在だからです。

最後のイエスさまのくびきは負いやすく軽いと言う言葉は、他の福音書には見つかりませんから、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイの教会が独自に組み込んだ言葉ということになります。

「yoke(くびき)」は漢字で「軛」と書きます。牛や馬の首の後ろにあてて後ろに車を連結して引かせるための道具です。「疲れた人、重荷を背負っている人は、すべて私のところへ来なさい。私があなた方を休ませてあげましょう」と言うイエスさまは、疲れた人をどこかのんびりとできる場所へ連れて行って、さぁ、ここでゆっくりしなさい、と言うのではなく、「 私のくびきを背負いなさい。私にあなたを導かせなさい」と言うのです。つまり牛や馬のように自分の首の後ろにくびきをとりつけて、イエスさまの車を引きなさい、と言っています。

たとえば学校が嫌な人、会社が嫌な人、他にもさまざまな理由で疲れてヘトヘトで、背中の重荷を降ろしたいと願っている人、イエスさまはそういう人たちを招いています。が、イエスさまがそういう人たちに用意している場所は、何もしないでのんびり過ごせるリゾート地ではありません。もっと良い学校はないかな、もっと素敵な会社はないかな、ストレスなく過ごせる場所はないかな、きっと自分に向いた場所があるはずだ、と探し求める場所、イエスさまが提供するのはそういう選択肢のひとつです。神さまの王国では人々は神さまのルールに従って歩み、神さまのために働かなければなりません。が、王である神さまは控えめで優しい方です。全知全能の宇宙の支配者なのですから、ご自身ですべてをお持ちです。神さまの王国の住人の仕事は、神さまに感謝し、神さまを賛美することです。そうやって神さまの王国に住んで魂の安らぎを見つけるのです。イエスさまの説く王国の秩序の下に入ることは、いま味わっている疲労や重荷に比べると、はるかに負いやすくて軽いのです。

以前にも私の家で飼っている長毛の猫の話を書きました。我が家の猫は私の家の中で、家族に愛されてぬくぬくと生活しています。ときどき窓から外を見て何を考えているのでしょうか。表に出れば家の中にいるよりもおもしろいことがたくさんあるでしょう。猫は家の中に不満があるからではなくて、チョコチョコと動くものに目を奪われて、自分も知らないうちに外の危険の中へ踏み出してしまいます。でも表へ出れば長毛はすぐにドロドロに汚れ、病気になり、食べ物も見つからなくなります。自分を攻撃してくる他の動物にも遭遇するでしょう。我が家の猫は私の家という秩序の中にいるから、ぬくぬくとしていられるのです。私たちも神さまの王国の中に住めば、そこに魂の安らぎを見つけられるのです。








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