マタイの福音書第11章第20節~第24節:不信心者への裁きマタイの福音書:第11章

2015年12月21日

マタイの福音書第11章第1節~第19節:イエスさまと洗礼者ヨハネ

第11章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus and John the Baptist

イエスさまと洗礼者ヨハネ


1 When Jesus had finished giving these instructions to his twelve disciples, he went out to teach and preach in towns throughout the region.

1 イエスさまはこのような指示を十二人の弟子に与え終えると、その地方中の町々で教え、説教をするために出て行きました。

2 John the Baptist, who was in prison, heard about all the things the Messiah was doing. So he sent his disciples to ask Jesus,

2 獄中にいた洗礼者ヨハネは、救世主が行っている事柄のすべてを聞きました。そこでヨハネはイエスさまに次の質問をするために弟子たちを送りました。

3 “Are you the Messiah we’ve been expecting, or should we keep looking for someone else?”

3 「あなたは私たちが待ち望んでいる救世主ですか。あるいは私たちは他の人を探し続けるべきでしょうか。」

4 Jesus told them, “Go back to John and tell him what you have heard and seen --

4 イエスさまは彼らに言いました。「ヨハネのところへ戻り、あなた方が聞いたこと、見たことを話しなさい。

5 the blind see, the lame walk, the lepers are cured, the deaf hear, the dead are raised to life, and the Good News is being preached to the poor.

5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、皮膚病に冒された者が癒され、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返らされ、貧しい者たちに良い知らせが宣べ伝えられています。

6 And tell him, ‘God blesses those who do not turn away because of me.’”

6 そしてヨハネに伝えなさい。私を理由にして顔を背けない者を神さまは祝福します。」

7 As John’s disciples were leaving, Jesus began talking about him to the crowds. “What kind of man did you go into the wilderness to see? Was he a weak reed, swayed by every breath of wind?

7 ヨハネの弟子たちが帰ろうとしているときに、イエスさまは群衆に向けてヨハネについて話し始めました。「あなた方は荒野へどんな人を見に行ったのですか。風が吹くたびに揺れる弱々しい葦ですか。

8 Or were you expecting to see a man dressed in expensive clothes? No, people with expensive clothes live in palaces.

8 あるいはあなた方は高価な服を着た人を期待していたのですか。違います。高価な服を着た人は宮殿に住んでいるのです。

9 Were you looking for a prophet? Yes, and he is more than a prophet.

9 あなた方は預言者を探していたのですか。そうです。そして彼は預言者以上の人です。

10 John is the man to whom the Scriptures refer when they say, ‘Look, I am sending my messenger ahead of you, and he will prepare your way before you.’

10 ヨハネこそが、聖書が次のように書いている箇所で言及している、その人なのです。『見なさい。私はあなたに先立つ使いを差し向ける。彼があなたの前にあなたの道を整える。』

11 “I tell you the truth, of all who have ever lived, none is greater than John the Baptist. Yet even the least person in the Kingdom of Heaven is greater than he is!

11 あなた方に本当のことを言います。これまでに生きた人すべての中で、洗礼者ヨハネよりすぐれた人はいません。しかし天の王国でもっともつまらない者でも、彼より偉大なのです。

12 And from the time John the Baptist began preaching until now, the Kingdom of Heaven has been forcefully advancing, and violent people are attacking it.

12 そして洗礼者ヨハネが説教を始めてから今日まで、天の王国は御国は力強く進軍しており、乱暴な者たちがそれを攻撃しています。

13 For before John came, all the prophets and the law of Moses looked forward to this present time.

13 なぜならヨハネが来る前までに、すべての預言者たちとモーゼの律法が、いまのこのときを待っていたのです。

14 And if you are willing to accept what I say, he is Elijah, the one the prophets said would come.

14 そしてもしあなた方が私の言うことを喜んで受け入れるのなら、彼こそが、預言者が来ると言ったエリヤなのです。

15 Anyone with ears to hear should listen and understand!

15 聞く耳のある者は聞いて理解しなさい。

16 “To what can I compare this generation? It is like children playing a game in the public square. They complain to their friends,

16 この時代の人たちは何と比較できるでしょうか。それは広場で遊びをしている子供たちのようです。子供たちは友だちに不満をこぼします。

17 ‘We played wedding songs, and you didn’t dance, so we played funeral songs, and you didn’t mourn.’

17 『婚礼の歌を演奏したら、あなた方は踊らなかった。だから葬式の歌を演奏したのに、あなた方は嘆かない。』

18 For John didn’t spend his time eating and drinking, and you say, ‘He’s possessed by a demon.’

18 ヨハネは食べたり飲んだりして時間を使うことはしませんでした。あなた方は言います。『あいつは悪霊に取り憑かれているのだ。』

19 The Son of Man, on the other hand, feasts and drinks, and you say, ‘He’s a glutton and a drunkard, and a friend of tax collectors and other sinners!’ But wisdom is shown to be right by its results.”

19 その一方で、人の子が大いに食べたり飲んだりすると、あなた方は言います。『あいつは大食家で大酒飲みだ。徴税人や罪人と友だちなのだ。』 ですが賢さは結果によって正しいと証明されるのです。」




ミニミニ解説

マタイの第11章です。第10章はイエスさまが十二人の使徒を世の中に派遣するにあたって言い聞かせた言葉でした。第11章は派遣された弟子たちの様子ではなく、イエスさまに関するエピソードが続きます。

最初の部分との類似箇所は「ルカ」に見つかります。Luke 7:18-23(ルカの福音書第7章第18節~第23節)です。「18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。19 すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と言わせた。20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか』とヨハネが申しております。」 21 ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。23 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」から採用と考えられます。

第2節に「獄中にいた洗礼者ヨハネ」とありますが、洗礼者ヨハネは十二使徒のヨハネ(「ヨハネの福音書」のヨハネ)とは別人で、イエスさまの伝道活動が開始される半年ほど前にイスラエルに現れ、荒野で神さまのメッセージを伝えた預言者です。ヨハネはヘロデ・アンティパスにより投獄され、やがて殺されてしまいます。その顛末はマルコの福音書の第6章に出ています。ヘロデは自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを横取りして自分の妻にしたことについて、洗礼者ヨハネから旧約聖書の律法に反する行為であるとの批判を受けると、おそらくヘロデヤの差し金でヨハネを逮捕し、死海の近くにある牢に幽閉しました。後にヘロデの誕生日に、ヘロデヤの娘がヘロデの前で踊りを披露し、ヘロデがその踊りをいたく気に入って褒美を与えようとすると、ヘロデヤは娘に「洗礼者ヨハネの首を盆に載せてきて欲しい」と言わせます。ヘロデは何でも褒美を与えると言った前言を撤回できず、ヘロデの首をはねてヘロデヤの娘に渡しました。

ヨハネは荒野で説教しているときに、マタイの福音書第3章第11節~第12節でイエスさまについて次のように話しています。「11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」([新改訳])。ヨハネは「私のあとから来られる方」の到来を予期していたので、弟子たちからイエスさまがガリラヤ地方で行っている活動についての報告を聞くと、イエスさまこそが救世主であるとの確認をするために弟子を送り出しました。

派遣された弟子たちは、第3節で「Are you the Messiah?」と聞いています。私はこれを「あなたは救世主ですか?」と訳しました。「Messiah」という単語は「メサイア」と発音し、カタカナ表記では「メシア」となります。辞書で引くと研究社の英和中辞典には、「救世主」とした後で、(1)ユダヤ教でユダヤ人が待望するメシア、(2)キリスト教のキリスト、の二つが出ています。救世主=メシア=キリスト、のような位置づけです。「メシア」はヘブライ語で「油を注がれた者」「油を塗られた者」の意味です。研究社の英和中辞典で「anoint」(アノイント)という単語を引くと「(聖別のしるしとして)(人・頭などに)聖油を塗る、(国王・司祭などを)聖別する」と出ていますが、「油を塗る」「油を注ぐ」行為は、ここに書かれているように特別な聖なる存在としてその人を他の人から分けると言う意味を持ちます。メシアはその聖別の儀式を経て特別に選ばれた存在ということです。旧約聖書では最終的にユダヤ民族を窮地から救い出すヒーローが出現することが予告されていると解釈できる箇所があちこちにあって、ローマ帝国の圧政に苦しむ当時のユダヤ人たちは、いよいよそのヒーローがイスラエルに現れても良いだろうと待望していました。ユダヤ人たちは神さまに油を注がれたヒーローとしての「メシア」を待っていたのです。その脈絡でヨハネの弟子は「Are you the Messiah?」と、「the」をつけて「あなたはあの救世主なのですか?」のようにたずねたのです。

これに対してイエスさまは、何が起こっているかを耳と目で観察し、それをそのままヨハネに伝えなさい、と言います。その起きていることとは、目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、皮膚病に冒された者が癒され、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返らされ、貧しい者たちに良い知らせが宣べ伝えられている、そういう状況だとイエスさまは言うのです。この部分を聞くとユダヤ人は旧約聖書の「イザヤ書」の一節を想起します。Isaiah 35:4-6(イザヤ書第35章第4節~第6節)で、預言者イザヤは、イスラエルにヒーローが現れるときに起こることを予告しているのです。「4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」 5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」([新改訳])。つまりイエスさまがガリラヤ地方で行っている奇跡の技は、イザヤ書のこの部分を意識した活動であり、イエスさまの活動がそのままイザヤ書のこの部分の預言の成就になっているのです。イザヤ書のこの部分がいま実現していることは、誰が見ても明らかなのだから、果たしてイスラエルにメシアが到来しているのか、などという問いの答えは、たずねるまでもなく推して知るべし、というのがイエスさまのメッセージでしょう。

第6節の「God blesses those who do not turn away because of me.(私を理由にして顔を背けない者を神さまは祝福します)」([拙訳])は、[KJV]では「And blessed is he, whosoever shall not be offended in me.(そして祝福される人とは、私によって気分を害しないすべての人だ)」([拙訳])と書かれています。


続く部分との類似箇所は「ルカ」に見つかります。Luke 7:24-28(ルカの福音書第7章第24節~第28節)です。「24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。25 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。26 でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。27 その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう』と書かれているその人です。28 あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここもイエスさまの語録集である「Q資料」から採用と考えられます。

洗礼者ヨハネの使いが帰ろうとするうとイエスさまは群衆に向かってヨハネについて語り始めます。ヨハネはイエスさまの伝道活動に先立って荒野でメッセージを伝えていたのでした。人々はヨハネの話を聞こうと荒野へ出て行ったときのことをよく覚えているのです。そのときのことについてイエスさまがたずねます。第7節、「あなた方は荒野へどんな人を見に行ったのですか。風が吹くたびに揺れる弱々しい葦ですか」。風が吹くたびに揺れる弱々しい葦とは権力から迫害があればすぐに弱々しく屈し、強い者の言葉に迎合するような態度でしょう。ヨハネは違いました。旧約聖書の律法に貫かれた倫理観に反することであれば、たとえそれが王であろうと大きな声で否定しました。そういう態度がヘロデ大王の反感を買い、投獄されてしまっていたのです。第8節、「あるいはあなた方は高価な服を着た人を期待していたのですか。違います。高価な服を着た人は宮殿に住んでいるのです」。ヨハネはどんな服装をしていたのでしょうか。Matthew 3:4(マタイの福音書第3章第4節)には、「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」([新改訳])と書かれています。荒野に住みラクダの毛皮をまとってイナゴを食べている預言者です。何という迫力でしょうか。それはユダヤ人に旧約聖書の偉大なる預言者エリヤの姿を想起させるのです。エリヤの姿は2 Kings 1:8(列王記第二第1章第8節)に「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人」と書かれているのです。

第10節でイエスさまが旧約聖書から引用した箇所はMalachi 3:1(マラキ書第3章第1節)です。ここは旧約聖書の最後の最後、旧約聖書の預言の本当の締めくくりの部分にあたります。イエスさまの時代を遡ること約400年前、預言者マラキは次のように言いました。「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。」([新改訳])。そして旧約聖書の最後は次のように締めくくられます。Malachi 4:5-6(マラキ書第4章第5節~第6節)です。「5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])。

つまり旧約聖書は「主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と書かれて終わっています。それをよく知っているユダヤ人の前に、洗礼者ヨハネはエリヤを想起させる姿で現れ、まるでエリヤのような力強いメッセージを発し、まるでエリヤのように権力からの迫害に屈することなく神さまの言葉を説きました。ヨハネこそが、マラキが「わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と予告したその人なのだとイエスさまは言うのです。

イエスさまは第9節で「彼は預言者以上の人」といい、さらに第11節で「これまでに生きた人すべての中で、洗礼者ヨハネよりすぐれた人はいません」と言いました。本当に最大の褒め言葉です。が、すぐその後で「しかし天の王国でもっともつまらない者でも、彼より偉大なのです」と付け加えます。それは、天の王国、すなわち神聖なる神さまの国に神さまと一緒にいる者には「汚(けが)れ」がひとつもないからです。神さまの意志を為すヨハネでさえも一人の人間なのです。これほどまでに神さまの目に正しく映ることを実行し続ける人でも、何かひとつ、神さまをガッカリさせるようなことを行えば、それは「罪(sin)」であり、「汚れ」となり、そのままでは天国に入ることは叶いません。だから私たちには、その「汚れ」を洗い流す「清め」が必要なのです。聖書ではその「清め」のことを「購い(あがない)」と言い、意味は「お金や品物で、罪や失敗の埋めあわせをすること」です。英語では「atonement(アトーンメント)」です。人間に、自分のいのちを代償にして「罪の購い」をもたらし、神さまへの道を開く救世主がイエスさまなのです。ヨハネは旧約聖書の予告どおりに、そのイエスさまの前に道を整える目的で現れたエリヤなのです。


第12節は解釈が難しい節です。私は[NLT]をそのまま訳して「洗礼者ヨハネが説教を始めてから今日まで、天の王国は御国は力強く進軍しており、乱暴な者たちがそれを攻撃しています」と書きました。つまり天の王国が進軍し、乱暴者がそれ(天の王国)を攻撃しています。[新改訳]は「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」となっていて、天の王国は攻め立てられて奪い取られています。[KJV]も「the kingdom of heaven suffereth violence, and the violent take it by force.(天の王国は暴力に苦しみ、暴力がそれを力で奪い取っている)([拙訳])となっています。どうして[NLT]だけ前半部分が受動態ではなく、能動態になっているのかはわかりません。天の王国は進軍している側なのか、攻め込まれている側なのか。たぶん原典のギリシア語の語法解釈が二通りに可能で、どちらにも解釈ができるのだと思います。[KJV]と[新改訳]は原典に近い訳のはずなので「天の王国は暴力的に攻撃され、力ずくで奪い取られている」と言う受動態の解釈が原典に近いのかも知れません。

それにしても意味がわかりません。天の王国が「暴力的に攻撃され」の部分は「迫害」を指すのかも知れませんが、何が奪い取られているのか、理解に苦しみます。また神さまは全知全能の方なのですから、神さまのいらっしゃる天の王国が暴力的に攻撃されることなど果たしてあるのだろうか、とも思います。類似の記述は Luke 16:16(ルカの福音書第16章第16節)で、そこには「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」([新改訳])となっています。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」から採用の考えられますから、少なくともこれがイエスさま自身の言葉であることはわかります。ルカの方が理解しやすく書かれています。神の国の福音の話が述べ伝えられて、それを聞いた誰もが無理やりにでも天国へ入ろうとしている、と言う意味でしょう。ただ、わかりやすいけれども、マタイで書かれている内容とはニュアンスがぜんぜん違うような気がします。ここの節の解釈は私にはわかりません。

第16節~第19節は、イエスさまに先立ってイスラエルに現れ、神さまに向き直るようにと説いたヨハネの伝道活動に対する人々の反応と、その後ガリラヤ地方から始まってイスラエルの人々の心を捉えたイエスさまの伝道活動に対する人々の反応を冷ややかに対比しながら伝えています。

類似の記述は、Luke 7:31-35(ルカの福音書第7章第31節~第35節)に見つかります。「31 では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。32 市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』 33 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。35 だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」([新改訳])。やはり「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここもイエスさまの語録集である「Q資料」から採用と考えられます。

ヨハネは荒野でラクダの毛皮を着て皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていたのです。厳しく禁欲的な生活をしていたのでしょう。そんなヨハネの様子を見て、ヨハネを理解しない人々は、「あいつは悪霊に取り憑かれているのだ」と批判したのです。一方でイエスさまと弟子たちは、特に断食などの苦行はせず、徴税人の酒宴に招かれたり、婚礼の席で酒がなくなると水を酒に変える奇跡を起こしたり、貧しい人々に気前よくパンを分け与えたりと、ヨハネとはまったく違う動きをしました。ファリサイ派も洗礼者ヨハネの一派も、神さまの目に正しく映ろうとする人たちは律法の解釈を守るために断食をしましたから、神さまの言葉を伝える人として、イエスさまの行動は風変わりに映ったのでした。そんなイエスさまの様子を見て、人々は「あいつは大食家で大酒飲みで、徴税人や罪人と友だちだ」と批判したのです。

ヨハネが厳しい口調で悔い改めよ、神さまに向き直れと伝えても、イエスさまが神さまの王国は近いと大きな喜びを伝えても、それぞれにたくさんの群衆は集まりましたが、大半の人々の反応は冷ややかなのでした。まるで人ごとのように「あいつは悪霊に取り憑かれているのだ」、「あいつは大食家で大酒飲みだ」と噂するばかりで、きちんと自分と向き合って自分のこととしてとらえ行動につなげることをしません。そういうきちんと神さまと向き合おうとしないユダヤ人に対して、イエスさまは厳しく非難の言葉を浴びせて行きます。








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