マタイの福音書:第11章マタイの福音書第10章第16節~第23節:イエスさまが12人の使徒を送り出す(2)

2015年12月22日

マタイの福音書第10章第24節~第42節:イエスさまが12人の使徒を送り出す(3)

第10章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


24 “Students are not greater than their teacher, and slaves are not greater than their master.

24 生徒は先生よりも偉大ではありません。奴隷は主人よりも偉大ではありません。

25 Students are to be like their teacher, and slaves are to be like their master. And since I, the master of the household, have been called the prince of demons, the members of my household will be called by even worse names!

25 生徒は先生のようになるべきですし、奴隷は主人のようになるべきです。そして家長である私が悪魔の王子と呼ばれたのですから、私の家の者たちはもっと酷い名前で呼ばれることでしょう。

26 “But don’t be afraid of those who threaten you. For the time is coming when everything that is covered will be revealed, and all that is secret will be made known to all.

26 ですがあなた方を脅す人たちを恐れてはいけません。なぜなら覆われているものすべてが明らかにされ、秘密のすべてが、あらゆる人に知らされるときが近づいています。

27 What I tell you now in the darkness, shout abroad when daybreak comes. What I whisper in your ear, shout from the housetops for all to hear!

27 いま私が暗やみであなた方に話すことを、夜明けが来たら遠くへ叫びなさい。私があなた方の耳もとでささやくことは、すべての人に聞こえるように屋上から叫びなさい。

28 “Don’t be afraid of those who want to kill your body; they cannot touch your soul. Fear only God, who can destroy both soul and body in hell.

28 あなた方の肉体を殺したがる人たちを恐れてはいけません。その人たちはあなた方の魂に触れることはできません。神さまだけを恐れなさい。神さまは魂も肉体も、地獄で滅ぼすことができるのです。

29 What is the price of two sparrows -- one copper coin? But not a single sparrow can fall to the ground without your Father knowing it.

29 二羽の雀の値段はいくらですか? 銅貨1枚ですか? ですが雀一羽でさえ、あなたの父なる神さまが知らずに地に落ちることはできないのです。

30 And the very hairs on your head are all numbered.

30 それにあなた方の頭の毛も、すべて数えられているのです。

31 So don’t be afraid; you are more valuable to God than a whole flock of sparrows.

31 だから恐れてはいけません。あなた方は神さまにとって、雀の群れよりもずっと価値があるのですから。

32 “Everyone who acknowledges me publicly here on earth, I will also acknowledge before my Father in heaven.

32 私をこの地上で人の前で公に認める人については、私もその人を天の父なる神さまの前で認めましょう。

33 But everyone who denies me here on earth, I will also deny before my Father in heaven.

33 しかしこの地上で私を知らないと言う人については、私もその人を天の父なる神さまの前では知らないと言います。

34 “Don’t imagine that I came to bring peace to the earth! I came not to bring peace, but a sword.

34 私が地上に平和をもたらすために来たなどと思わないように。私は平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来たのです。

35 ‘I have come to set a man against his father, a daughter against her mother, and a daughter-in-law against her mother-in-law.

35 私は人を父に向かわせ、娘を母に対して向かわせ、義理の娘を姑に対して向かわせるために来たのです。

36 Your enemies will be right in your own household!’

36 あなた方の敵は、あなた方自身の家の中にいるのです。

37 “If you love your father or mother more than you love me, you are not worthy of being mine; or if you love your son or daughter more than me, you are not worthy of being mine.

37 あなた方が私を愛する以上に父や母を愛するのであれば、私の者となる価値はありません。また私よりも息子や娘を愛するのであれば、私の者となる価値はありません。

38 If you refuse to take up your cross and follow me, you are not worthy of being mine.

38 もしあなた方が自分の十字架を取って私に従うことを拒むのであれば、あなた方は私の者となる価値はありません。

39 If you cling to your life, you will lose it; but if you give up your life for me, you will find it.

39 もしあなたが自分のいのちに執着すれば、あなたはそれを失います。もしあなたが私のために自分のいのちを渡すなら、あなたはそれを見つけます。

40 “Anyone who receives you receives me, and anyone who receives me receives the Father who sent me.

40 誰でもあなた方を受け入れる者は、私を受け入れます。誰でも私を受け入れる者は、私を遣わした父なる神さまを受け入れます。

41 If you receive a prophet as one who speaks for God, you will be given the same reward as a prophet. And if you receive righteous people because of their righteousness, you will be given a reward like theirs.

41 もしあなた方が預言者を、神さまのために語る者として受け入れるのであれば、あなた方は預言者と同じ報いを受け取ります。もしあなた方が正しい人を、その正しさゆえに受け入れるのであれば、あなた方はその人たちのような報いを受け取ります。

42 And if you give even a cup of cold water to one of the least of my followers, you will surely be rewarded.”

42 そしてもしあなた方が、私の弟子の中のもっとも小さい者のひとりに、冷たい水の一杯でも与えるのであれば、あなた方は必ず報われます。」




ミニミニ解説

イエスさまは山に登ってお祈りをし、弟子たちの中から十二人を選び出し、特別に「使徒」と名付けました。第10章は、この十二人の使徒を世の中に派遣するにあたって、イエスさまが言い聞かせた言葉の位置づけになります。

前回も書きましたが「マタイ」を成立させた教会では、ローマ帝国と同胞のユダヤ人の双方からの迫害に苦しみながら、イエスさまの福音を世に広める伝道活動をしていました。福音書の中でイエスさまが十二使徒を世に遣わす場面は、福音を伝えるために世に出て行く自分たちの姿と重なる部分が大きいので、「マタイ」のこのあたりの部分は、どちらかと言うと十二使徒に向けられた言葉というよりも、「マタイ」の教会に集う信者たちを鼓舞する目的で、「Q資料」からイエスさまの言葉を使って編集されたのではないかと考えることができます。

最初のあたりとの類似箇所は「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の中に見つかります。

まず最初の第24節~第25節の「生徒は先生よりも偉大ではない」の部分は、イエスさまの説教の中の一節として、Luke 6:40(ルカの福音書第6章第40節)に見られます。「40 弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」([新改訳])。この箇所については「ヨハネ」にも同じ記述があります。John 13:16(ヨハネの福音書第13章第16節)です。「16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」([新改訳])。

世の中のフィクションでよく描かれるのは、弟子が修業を積んで師を凌駕していく姿、子が最終的に父を越えていく物語などですが、こと福音書については弟子は師であるイエスさまを越えられません。イエスさまは三位一体説に基づけば父なる神さまと同格の、やはり神さまです。イエスさまは神さまでありながら、人の姿をとって私たちの間に住み、人がどれほど神さまの目に正しく生きられるかについて、私たちにお手本を示してくださいました。私たちはイエスさまに従って歩みますが、神さまであるイエスさまには追いつくことさえできません。神さまと同じ視点から語られるイエスさまの言葉は、最後まで不可解で理解に苦しみますが、私たちはイエスさまと同じ視点には到底立てないのですから、それは仕方のないことです。が、理解できるかどうかと、信じられるかどうかは別の話だと思います。

第25節には「家長である私が悪魔の王子と呼ばれたのですから、私の家の者たちはもっと酷い名前で呼ばれる」と書かれています。これはイエスさまが悪霊を追い出す奇跡の技を行って民衆の心を惹きつけているのを見て、ファリサイ派の人たちが、イエスさまが悪霊を追い出せるのは悪魔と通じているからに他ならない、と批判したことに由来しています。師であるイエスさまが悪魔の王子と呼ばれたのですから、狼の群れの中に放される羊に等しい弟子たちは、もっとひどい迫害を受ける覚悟をしておきなさいと注意を促しています。

続く、「あなた方を脅す人たちを恐れてはいけません」の部分は、「マルコ」のMark 4:22(マルコの福音書第4章第22節)で「燭台の話」の続きで「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」と書かれ、「ルカ」ではまず独立してLuke 8:17(ルカの福音書第8章第17節)に「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」([新改訳])と登場した後、第12章でも、Luke 12:1-10(ルカの福音書第12章第1節~第10節)に、マタイと同様にまとまって書かれています。「1 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。2 おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。3 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、前回同様、「マタイ」と「ルカ」がほぼ類似の記述となっています。「マタイ」はイエスさまの語録集である「Q資料」から採用の資料を組み合わせて独自の編集を行っていると考えられます。

さてここまでの部分の解釈ですが、まず明らかにされる「覆われているもの」、あらゆる人に知らされる「秘密のすべて」とは何のことでしょうか。これはすなわち「私(イエスさま)が暗やみであなた方に話すこと」であり、「私(イエスさま)があなた方の耳もとでささやくこと」なのですから、神さまの福音に関する「真実」、あるいは「奥義」でしょう。それはつまり旧約聖書の中に最初から折り込まれていた人類救済計画の一部始終です。

ただこれは私たちが決して追いつくことも越えることもできない師の語る言葉なので、その奥義の実現がどんなものであるのかは、いまの私たちには到底わかりません。きっとこうなのではないか、いやそうではなくてこのように解釈できる、とハッピーな議論を、ときには教義を衝突させながら繰り返すだけです。ただ、「その日」は確実に来るのです。私たちのすべてにその奥義と真実のすべてがわかる日が来るのです。だから「あなた方の肉体を殺したがる人たちを恐れてはいけない」と書かれます。その終わりの日には、最後の審判を下し、天国行きと地獄行きを選り分ける裁判官としてのイエスさまが再来します。本当に私たちが恐れるべきは、私たちの永遠の運命を決める、その最後の審判の判決なのですから、この地上で私たちの肉体を痛めつけることしかできない人たちを恐れる必要はない、と言うのです。

ところで[新改訳]聖書を見ると、「地獄」の代わりに「ゲヘナ」という言葉が使われています。[新改訳]聖書には死後の世界を示す場所として、「ハデス」と「ゲヘナ」の二つの言葉が登場します。

「ハデス」はヘブライ語で書かれた旧約聖書がギリシア語に翻訳されたとき、へブライ語の「シェオル」にあてられた言葉のようです。日本語では「冥界」とか「黄泉(よみ)」などと呼ばれることもあるようです。イメージは、どこか私たちの下方(地面の下?)にある広い空間です。新約聖書に登場する「地獄」も「ハデス」に結びつけられているようで、これを合わせて解釈すると「ハデス」は地上で死んだ者が最後の審判を待つ場所とされているようです。つまり、最終的に天国へ行く人も、地獄へ堕とされる人も、同じようにハデスで最後の審判の日を待ちます。ただし天国行きの人と地獄行きの人がいる場所の間には、決して越えることのできない深い谷があるようです。

死後の世界を示すもうひとつの言葉が、ここで登場する「ゲへナ」です。ゲヘナはヘブライ語の「ゲヒンノム(ヒノムの谷)」に基づくギリシア語だそうです。ヒノムの谷はエルサレムの城外の南方にある谷で、長くゴミ捨て場に使われていました。旧約聖書の南北朝の時代には、ここで異教(モレク神)を拝む儀式が行われ、いけにえに幼児を捧げていた場所でもあります。
旧約聖書の中でユダヤ人は、何度も繰り返し異教に心を奪われて、幼児をいけにえに捧げるような忌むべき邪神崇拝の行為を行い、預言者から「神さまに向き直りなさい。悔い改めなさい」との警告を受け続けます。ここから転じて「ゲヘナ」は最後の審判で有罪宣告を受けた魂が堕とされる終着地点とされていて、永遠に燃える炎に焼かれる場所です。ここが私たちが「地獄」と呼ぶ場所です。[新改訳]聖書では、二つの言葉の混同を避けるために「ゲへナ」が用いられている場所にはそのまま「ゲヘナ」と書いているようです。

「二羽の雀の値段はいくらですか」と問われているのは、イスラエルでは雀二羽がセットにされて、いけにえのための動物として売られていたからです。いけにえの動物はエルサレムの寺院で、旧約聖書の律法書の定めに従って使います。清めの儀式の中でまず二羽のうちの一羽を殺してその血を「清め」のために使い、残りの一羽は生きたまま野に放つのです。


続く部分との類似箇所は主に「ルカ」の中に見つかります。

まず「私をこの地上で人の前で公に認める人については、私もその人を天の父なる神さまの前で認めましょう。しかしこの地上で私を知らないと言う人については、私もその人を天の父なる神さまの前では知らないと言います」の記述は、Luke 12:8-9(ルカの福音書第12章第8節~第9節)と同じです。「8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」([新改訳])。

続く「 私が地上に平和をもたらすために来たなどと思わないように。私は地上に剣をもたらすために来た」の部分は、Luke 12:51-53(ルカの福音書第12章第51節~第53節)です。「51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」([新改訳])。

次の「私を愛する以上に父や母や息子や娘を愛するのであれば、私の者となる価値はない」「自分の十字架を取って私に従うことを拒むのであれば、私の者となる価値はない」の部分は、Luke 14:25-26(ルカの福音書第14章第25節~第26節)です。「25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」([新改訳])。

「あなた方が自分の十字架を取って私に従うことを拒むのであれば、あなた方は私の者となる価値はありません」は、マルコにもあります。Mark 8:34(マルコの福音書第8章第34節)です。「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」([新改訳])。ルカにもまったく同じ記述があります。Luke 9:23(ルカの福音書第9章第23節です。「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」がほぼ類似の記述となっています。「マタイ」はイエスさまの語録集である「Q資料」から採用の資料を組み合わせて独自の編集を行っていると考えられます。この部分が「マタイ」の教会に集う信者たちを鼓舞する目的で独自に編集されたとはいえ、謎めいた独特の語り口からも、これらが「Q資料」から採用されたイエスさま自身の言葉であることがうかがえますから、これらはイエスさまの十字架死よりも前の時点で語られた言葉と言うことになります。

最初の部分は迫害を恐れて「イエスさまを知らない」と言う者は、天国で神さまの前に立つとき、あるいは最後の審判者として再来するイエスさま自身の前に立つときに、イエスさまから「私はあなたのことは知らない」と言われてしまうと言う、恐ろしい言葉です。類似の記述はマルコにも、Mark 8:38(マルコの福音書第8章第38節)に見られます。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」([新改訳])。イエスさまが「父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき」と言うのは、イエスさまが再来する時です。この言葉は紛れもなくイエスさまの口から出ています。クリスチャンであることを世の中に知られることが、そのまま社会からの追放や、投獄や、死に直結する場所や時代に生きるクリスチャンには大変重い言葉です。宗教の自由が憲法に保障され、クリスチャンであることを公言しても特別な迫害を受けることのない日本のいまの時代は、大変恵まれた環境だと思います。

イエスさまへの信仰を公言することについては、この前の部分の次の言葉の続きです。つまり「覆われているもの(=旧約聖書に織り込まれていた神さまの人類救済計画の奥義)はすべてが明らかにされ、秘密のすべてがあらゆる人に知らされるときが近づいて」いるのです。だから「いま私(=イエスさま)が暗やみであなた方に話すことを、夜明けが来たら遠くへ叫びなさい。私(=イエスさま)があなた方の耳もとでささやくことは、すべての人に聞こえるように屋上から叫びなさい」となります。

「私は平和をもたらすためではなく剣をもたらすために来た」の言葉の意味は、「イエスさまを救世主として受け入れる」と宣言することが、当時のユダヤ人にとっては、ローマ帝国からの迫害を覚悟するばかりか、同胞のユダヤ人社会からも追放されることにつながったからです。キリスト教への信仰を表明すれば、血縁の父からも母からも兄弟からも姉妹からも子供からも「信じられない」という目で見られ、神さまへの冒涜者としてののしられ、その日以降、血のつながった家族と対立し、共同体からも自身の家からも追放され、以降は死者として扱われるのです。ユダヤ人にとってキリスト教を選択することは、決して平安の道ではなく、茨(いばら)の道を選択することだったのです。

イエスさまは何という残酷な選択を信者に強いるのか、とも考えられますが、いまから2000年前のイスラエルで、イエスさまの十字架死~復活のイベントを経て、十二使徒に代表されるイエスさまの直系の弟子たちが世の中に福音を伝え始めたときには、これほどの重大な覚悟と選択が求められていたのです。それほどの信念と覚悟を持って福音を伝えようとしたたくさんの信者たちがいたからこそ、今日の私たちがこうして福音を読み伝えることができるのです。

続く「あなた方が私を愛する以上に父や母を愛するのであれば、私の者となる価値はありません」の言葉もまた残酷に、またカルト的に響きますが、イエスさまを通じて人類を救済しようとする神さまの計画を信じることは、家族を愛することの前提なのですし、宇宙を運行する神さまを愛し信じることが、家族と平安な人生を歩むことの前提なのですから、適切に読めばこの言葉に矛盾はありません。カルト教団はまさに聖書のこの部分を歪めて利用しているのです。イエスさまはここで「あなた方が『私』を愛する以上に父や母を愛するのであれば」と言っているのであって、イエスさまは「あなた方が『教会』を愛する以上に父や母を愛するのであれば」と言っているのではありませんから、信者の忠誠はあくまでも神さま(あるいはイエスさま)に置かれ、決して教会や教祖に置かれるものではありません。

「あなた方が自分の十字架を取って私に従うことを拒むのであれば、あなた方は私の者となる価値はありません」の「十字架」は、当時のクリスチャンにとっては「いのち」であり「死」です。自分の命を賭す覚悟を持って福音は伝えられていたのです。


さて第10章の最後、締めくくりの部分ですが、こうして読んでみると、とても不思議に感じます。「マルコ」や「ルカ」との関連性を見ると、「マタイ」のここの部分は明らかにイエスさまの実際の言葉を「Q資料」から採用して編集しているのに、つまりイエスさまが逮捕されて十字架にかかるずっと前にイエスさまが弟子たちに語り聞かせた言葉を集めて編集しているのに、イエスさまの言葉はまるで、自分の十字架の後で弟子たちが行うことになる伝道活動で、弟子たちがどれほどの苦難に遭うかを見越していたかのように響きます。

締めくくりの部分との類似箇所は「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」のすべての福音書に見つかります。

まず「自分のいのちに執着すればそれを失う。私のために自分のいのちを渡すならそれを見つける」の部分です。マルコはMark 8:35(マルコの福音書第8章第35節)です。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」([新改訳])。ルカはLuke 9:24(ルカの福音書第9章第24節)です。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」([新改訳])。ヨハネはJohn 12:25(ヨハネの福音書第12章第25節)です。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」([新改訳])。最後に原典の逐語訳に近い[KJV]の拙訳をしてみようと思います。「He that findeth his life shall lose it: and he that loseth his life for my sake shall find it.(自分の命を探す者はそれを失う。私のために自分の命を失う者はそれを見つける。)」([拙訳])。「執着する」と「見つける」と言うように区別されて訳されていた二つの動詞は、[KJV]では同じ「find(探す・見つける)」になっています。

これはイエスさま特有の、「私たちの一般常識の反対に真実がある」のタイプの難解な言葉です。これはどういう意味でしょうか。次のように解釈してみました。イエスさまは自分個人の利害よりも、神さまの視点で正しいことだけを実行しようと、それだけを考えて生きていらっしゃる方です。イエスさまは自分個人のいのちに執着することをやめて、神さまのために自分のいのちを全うしようと考え、そのように歩んで行くと、神さまからあふれるほどの祝福が得られて、そこに「いのちの真理」を見つけるのです。

逆に、もし私たちが神さまの目を無視して、神さまから与えられた大切ないのちを、自分個人の私利私欲の目的だけに使おうとすれば、それは神さまの期待を裏切ってガッカリさせることとなり、それは「罪(Sin)」となって自分を汚(けが)し、最終的に自分自身を神さまから切り離すことになります。それがすなわち聖書に描かれた「死」なのです。いのちに執着した結果、いのちを失ってしまうことになります。「私(イエスさま)のために自分のいのちを渡せ」とは、神さまの意志だけを遂行しようと心がけ、100%神さまの目に正しく映るイエスさまに従うのであれば、それはそのまま神さまの目にも正しく映り、結果として、そこに自分のいのちを見つけることになる、という意味かも知れません。大変大胆な発言ですが、旧約聖書の中でユダヤ人が預言者をどのように扱ったか、その結果何が起こったかに通じる言葉でもあります。

続く、「誰でもあなた方(十二使徒)を受け入れる者は私(イエスさま)を受け入れ、誰でも私(イエスさま)を受け入れる者は、私(イエスさま)を遣わした父なる神さまを受け入れる」は、まずルカのLuke 10:16(ルカの福音書第10章第16節)に見つかります。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」([新改訳])。ヨハネは、John 13:20(ヨハネの福音書第13章第20節)です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」([新改訳])。マルコはMark 9:37(マルコの福音書第9章第37節)「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」([新改訳])。

最後のマルコの引用で「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば」と書かれている「幼子」は、その前の節でイエスさまが連れてきたひとりの子供を指しています。もしマルコがもっともオリジナルのイエスさまの言葉に忠実なのであれば、もともとのこの部分のイエスさまの言葉はここから派生したのかも知れません。当時の「小さな子供」の社会的な地位は、女性の地位と同様、いまとはまったく異なっていて、子供は世の中では「まったく価値のないもの」でした(成人男子にしか人権はなかったようなものです)。ですからこの部分は、「まったく価値のない存在をイエスさまの名によって受け入れる」と言う意味になります。

たとえば「犬」や「猫」を考えてみましょう。イエスさまの名前のゆえに「犬」や「猫」を自分と同等に扱うのです。「イエスさまの名前のゆえに」と言うのも、「イエスさまがそう言うから」と考えればわかりやすいかも知れません。いまでこそ「イエス」という名前も知れ渡っていますが、当時は「イエスさま? それいったい誰?」と言う状態でしょう。もしかすると「あ、もしかして、あの次から次へとものすごい奇跡をやっている預言者の人?」くらいの噂は広まっていたかも知れません。その、会ったことも聞いたこともない、あるいは噂をちょっとだけ聞いたことのある程度の「イエスさま」と言う人が、どうやらそうしろと言っているらしいから、今日からは「犬」や「猫」を自分と同等の存在として考えることにする、ここではそれくらい極端なことが求められているのです。もし、それくらいの突拍子もない行動が取れるのなら、それはイエスさまを信じていると言うことの証になる、そしてイエスさまをそのようなレベルで信じていると言うことは、つまりイエスさまを遣わした神さまを信じていると言うことになると、言うのです。

私自身、イエスさまを信じています。2000年前にいたユダヤ人です。どんな顔をしていたか、どんな声をしていたかさえわかりません。手元には聖書があるだけです。もちろん世の中にはクリスチャンによる聖書研究の資料もたくさんありますが・・・。どうして信じられるの?ときかれても答えられません。私にとって「理解すること」と「信じること」は別なのです。どうやらこの「小さな子供」の話から転じて、「マタイ」「ルカ」「ヨハネ」では、イエスさまが弟子たちに伝えた言葉として「人は自分の名のゆえに私の遣わす使徒を受け入れよ」となっており、そして「それが神さまの意志なのだ」と書かれます。前の節から続いて、イエスさまと神さまを明確に結びつけた大胆な言葉になっています。

残りの二つの節も同じ内容の延長ですから解説は省略します。これで第10章が終わりました。マタイは難しいです。ですがこのようにして「マタイ」を「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」と比較して読むと、福音書の成り立ちが少しずつわかってきてとても勉強になります。








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