マタイの福音書第10章第24節~第42節:イエスさまが12人の使徒を送り出す(3)マタイの福音書第10章第1節~第15節:イエスさまが12人の使徒を送り出す(1)

2015年12月22日

マタイの福音書第10章第16節~第23節:イエスさまが12人の使徒を送り出す(2)

第10章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


16 “Look, I am sending you out as sheep among wolves. So be as shrewd as snakes and harmless as doves.

16 いいですか。私は狼の中の羊のようにあなた方を送り出すのです。だから蛇のように抜け目なく、そして鳩のように無害でありなさい。

17 But beware! For you will be handed over to the courts and will be flogged with whips in the synagogues.

17 ですが気をつけなさい。なぜならあなた方は議会に引き渡され、会堂でむちで打たれるのですから。

18 You will stand trial before governors and kings because you are my followers. But this will be your opportunity to tell the rulers and other unbelievers about me.

18 あなた方は私の弟子であるからという理由で、総督たちや王たちの前での裁判の席に立つのです。ですがこれは、あなた方が支配者や他の不信心者に私のことを伝える機会なのです。

19 When you are arrested, don’t worry about how to respond or what to say. God will give you the right words at the right time.

19 あなた方が逮捕されるとき、どのように答えようか、何を話そうかと心配してはいけません。神さまがあなた方に、正しい言葉を正しいときに与えてくださいます。

20 For it is not you who will be speaking -- it will be the Spirit of your Father speaking through you.

20 なぜなら話をするのはあなた方ではありません。あなた方を通じて父なる神さまの霊が話されるのです。

21 “A brother will betray his brother to death, a father will betray his own child, and children will rebel against their parents and cause them to be killed.

21 兄弟は兄弟を裏切って死へ引き渡し、父は自分の子を裏切ります。子どもたちは両親に反逆し、両親を殺させるのです。

22 And all nations will hate you because you are my followers. But everyone who endures to the end will be saved.

22 そしてあなた方が私の弟子であると理由で、あらゆる民族があなた方を憎みます。ですが、最後まで耐え忍ぶ者はすべて救われます。

23 When you are persecuted in one town, flee to the next. I tell you the truth, the Son of Man will return before you have reached all the towns of Israel.

23 あなた方がある町で迫害されるなら、次の町へ逃げなさい。あなた方に本当のことを言います。あなた方がイスラエルのすべての町にたどり着く前に、人の子は戻ってきます。




ミニミニ解説

イエスさまは山に登ってお祈りをし、弟子たちの中から十二人を選び出し、特別に「使徒」と名付けました。第10章は、この十二人の使徒を世の中に派遣するにあたって、イエスさまが言い聞かせた言葉の位置づけになります。

今回の部分との類似箇所は「マルコ」と「ルカ」の中に見つかります。まず第16節の「私は狼の中の羊のようにあなた方を送り出す」の部分は、前回も引用した「ルカ」の第10章にあります。これは「ルカ」の中で、「十二人」とは別に「70人」が選ばれて送り出された箇所です。Luke 10:1-3(ルカの福音書第10章第1節~第3節)です。「1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」([新改訳])。

続く、「あなた方は議会に引き渡され、会堂でむちで打たれる」以降の部分は、「マルコ」の第13章でイエスさまがエルサレムの崩壊の予告に続いて話した終末論の中に見つかります。Mark 13:9-13(マルコの福音書第13章第9節~第13節)です。「9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。11 彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」([新改訳])。

同様の記述は「ルカ」の第21章にもあります。イエスさまがエルサレムの崩壊を予告し、それはいつ起こるのかと問われて、イエスさまがエルサレムの崩壊が実現する前のこととして回答しています。Luke 21:12-19(ルカの福音書第21章第12節~第19節)です。「12 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。14 それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。15 どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」([新改訳])。

これらを「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、前回同様、「マタイ」と「ルカ」がほぼ類似の記述となっていますが、「マルコ」からの引用が含まれることもわかりますから、この部分は「マルコ」に、イエスさまの語録集である「Q資料」から採用の資料を組み合わせて独自の編集を行っていると考えられます。

「マタイ」と言う本は、イエスさまの十字架死~復活を経て、天に戻ったイエスさまに代わって、ひとりひとりの信者に聖霊が与えられ、その聖霊に導かれた信者たちが集う教会(あるいは教会群)のひとつで編集され成立した本です。つまり「マタイ」の教会では、世の迫害に苦しみながら、日々、イエスさまの福音を世の中に広める伝道活動をしていて、その活動の拠り所として「マタイ」と言う本を成立させたのです。福音書の中でイエスさまが十二使徒を世に遣わす場面は、福音を伝えるために世に出て行く自分たちの姿と重なる部分が大きいはずです。なので「マタイ」のこの部分は、教会に集う信者たちを鼓舞する目的で編集されたのではないかと考えることができます。

と言うのもイエスさまの信者が「議会に引き渡され、会堂でむちで打たれる」ような迫害に会うのは、イエスさまの十字架の後だからです。前回も説明したとおり、十二使徒が派遣された時点で使徒たちが伝えていたのは「神さまに向き直れ。自分たちの罪を自覚して悔い改めよ。なぜなら神さまの王国は近い」のメッセージであり、彼らはこれを伝えながら、イエスさまから与えられた力を使って、病人を癒し、皮膚病に冒された者を治し、悪霊を追い出すと言うような奇跡を次々と行っていたのです。これだけでは「議会に引き渡され、会堂でむちで打たれる」ような迫害には発展しません。ですから今回の部分は十二使徒に語られた言葉と言うよりも、「マタイ」が書かれた時点での教会の信者たちに向けられた鼓舞と警告の言葉なのだと思います。ですが語られた言葉自体は、「マルコ」と「Q資料」からほぼそのままの形で採用されていますから、これがイエスさまの口から出た言葉そのものであることもわかります。当時の信者たちはイエスさまの予告したエルサレムの崩壊や、終末論で予告された「最後の日」がいよいよ近づいたとの予感の中で、これらの言葉は臨場感を持って語られていたはずです。

最初の言葉は、「私は狼の中の羊のようにあなた方を送り出す」、「だから蛇のように抜け目なく、そして鳩のように無害であれ」です。クリスチャンは狼の群れの中に放される羊のような存在なのです。イエスさまはそんなクリスチャンに向けて、蛇のように抜け目なくあれ、鳩のように無害であれ、と言っています。クリスチャンの取るべき姿勢として、「右の頬を打たれたら左の頬をも差し出す」ような従順で受け身のイメージばかりが語られがちですが、イエスさま自身からこういう言葉も語られていると言うことは、字面どおり受け取って良いと思います。

「マタイ」の教会が活動した頃には、クリスチャンはローマ帝国ばかりでなく、同胞のユダヤ人からも迫害されていました。ですからクリスチャンはローマ帝国配下の総督や王の前で裁判にかけられたり、同胞の集う会堂でむち打たれるような目に会っていたのです。 ですがそれは衆人の前でイエスさまの福音を告知するまたとない機会である、とイエスさまは言っています。そしてそのときに答える言葉についてあれこれと悩む必要もない、と言っています。それはそのときになれば、ひとりひとりに宿る聖霊を通じて、必要な言葉をきっと神さまが教えてくださるから、と言います。

私自身、きっとそうなのだろう、と思うのです。このメルマガを始めた頃、「次の週に何を書こうかとわからなくなる日が来たらどうしよう」と何度も思い悩み心配しましたが、書くべきことは、自然と私の手の先からワープロに乗って、それもちょうど締め切りに間に合うように紡ぎ出されていきました。時を経て読み返すと、どうしてそれが書けたのか自分でもわかりません。これは私が書いているのではなくて、神さまに書かされているのだと感じます。また書いている内容も、時を経て、そのポジションが少しずつ変わってきていることを感じますが、私の立っていたポジションのひとつひとつも決して間違いではなく、そのポジションからの言葉を必要としていた方が世の中のどこかにいるのだということは、その都度いろいろな形で教えていただけました。だからいま私の過去のポジションに似通った場所に立っている方々も世の中で神さまに生かされてそうしているのだと思いますし、いま私の未来のポジションに立っている方は、私と同じような視点でこれをお読みになるのかも知れません。

兄弟が兄弟を裏切って死へ引き渡し、父が自分の子を裏切り、子が両親を死に至らしめる。このような悲惨な状況の記述は旧約聖書の中に史実として見つかります。イスラエル周辺の多くの都市は城塞都市でした。町の周りをグルリと高い石塀で囲い、何カ所かに設けられた門も堅く閉ざせるように堅牢に作っておいて外部からの敵の侵攻に備えるのです。そのような城塞都市を攻め落とす方法のひとつは、周囲を取り囲んで持久戦を仕掛け、飲食物の補給路を断って中の人民を飢えさせる、いわゆる「兵糧攻め」です。敵の包囲を突破できずに時間が過ぎて、城塞内部の飢餓状態が極限に達すると、兄弟が兄弟を裏切って死へ引き渡し、父が自分の子を裏切り、子が両親を死に至らしめるような局面も起こりました。イエスさまは間もなくそのような状況が起こる、と予告しているのです。もしそれがエルサレムの崩壊を予告したのであれば、城塞都市のエルサレムがローマ帝国軍の包囲で陥落するのは、西暦70年です。ここで歴史上、イスラエルの国家が地上から一度消滅します。

第22節にはイエスさまの言葉で「ですが最後まで耐え忍ぶ者はすべて救われる」と書かれており、この部分が議論を呼びます。「救われる(will be saved)」という用語は、福音を伝えるクリスチャンにとって特別な意味を持つからです。まず福音が伝えるメッセージの意味を改めて説明します。私たち人間は例外なく神さまをガッカリさせながら生きています。どんな人にも知られたくない闇の部分があり、いまの自分の姿を、いまの自分の心を神さまがご覧になったら、きっと神さまはガッカリするだろうな、と思い当たる人は少なくないだろうと思います。この神さまをガッカリさせる事柄が「罪(sin)」と呼ばれ、それは神聖な神さまから見ると「汚(けが)れ」にあたります。

聖書によると、どうやら人間は朽ちて滅びる肉体に宿る不滅の魂であり、この魂の最終的な行く先は二つだけ、神さまのいる天国か、永遠の炎が燃える地獄です。天国は神聖な神さまのいる清浄な場所なので、「汚れ」を持つ私たちは誰も入れません。神さまから見て、神さまとつながった状態が「いのち」であり、神さまから切り離される状態が「死」です。つまり最終的に天国にいる者の状態が「いのち」であり、地獄へ堕とされる者は、その時点で神さまから完全に切り離されて「死」に至ります。すべての人間は、例外なく神さまが許容できない「汚れ」を持っていて、神さまから切り離されていますので、神さまから見ればすでに死人なのです。ですが、聖書には「清め」の方法が定められているのです。聖書によると、人の「汚れ」を清められるのは、「いけにえの命」だけです。十字架にかかったイエスさまは、神さまが愛する人間のために与えた「清め」のためのいけにえであり、これが神さまが人類救済のために用意した壮大な計画なのです。聖書とは、この救済計画の最初から最後を書いた本なのです。

話を最初に戻します。この神さまの救済計画を信じる人は、一度死んだ状態であったのに、再びいのちを得ることになります。これをクリスチャンは「救われる(will be saved)」と言うのです。「あなたは救われていますか(Are you saved?)」という問いは、「あなたはイエスさまを通じた神さまの救済計画を信じていますか」と同じ意味なのです。さて、第22節の「ですが最後まで耐え忍ぶ者はすべて救われる」が呼ぶ議論とは、その「救われる」ことについて、「最後まで耐え忍ぶ者は」という別の条件がついているように見える点です。救われて天国へ行くためには、「最後まで耐え忍ぶ」必要があるのではないか、だとしたら「最後まで」と言うのはいつまでのことなのか、どうしたら「堪え忍んだ」ことになるのか、この節はそういう議論を呼ぶのです。

第23節には、「あなた方がイスラエルのすべての町にたどり着く前に人の子は戻ってきます」と書かれています。「人の子」と言うのは、これまでも何度か触れましたが、旧約聖書の「Daniel(ダニエル書)」に出てくる言葉で、イエスさまが自分を呼ぶのに好んで使った呼称です。つまりイエスさまはここで「あなた方がイスラエルのすべての町にたどり着く前に私は戻って来る」と宣言していることになります。

これも議論になります。イエスさまは十字架死の後に復活して天へ戻り、その入れ替わりに信者のひとりひとりに聖霊が訪れて宿りました。イエスさまは天に戻るときに、「自分は戻って来る」と言っているので、クリスチャンはイエスさまの再来を待ち望んでいます。イエスさまは、私がいまこれを書いている時点でまだ戻って来ていませんが、当時の信者のリーダーたちには、イエスさまの直接の弟子だった十二使徒などや、その十二使徒の弟子たちで、イエスさまと直接交流した人たちが少なからず含まれていたこともあり、イエスさまは比較的早い時期に戻るだろう、信じて期待していたのです。そのタイミングがここでは「あなた方がイスラエルのすべての町にたどり着く前に」と書かれていますから、はたして自分たちはすでにイスラエルのすべての町にたどり着いたのか、そうであればどうしてまだイエスさまは戻らないのか、イエスさまが戻らないのであれば、自分たちはまだイスラエルのすべての町にはたどり着いてはいないのではないか、あるいは「イスラエルのすべての町」というのは、何か他の意味を持っているのではないか、などの議論になるのです。









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