マタイの福音書第10章第16節~第23節:イエスさまが12人の使徒を送り出す(2)マタイの福音書:第10章

2015年12月22日

マタイの福音書第10章第1節~第15節:イエスさまが12人の使徒を送り出す(1)

第10章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Sends Out the Twelve Apostles

イエスさまが12人の使徒を送り出す


1 Jesus called his twelve disciples together and gave them authority to cast out evil spirits and to heal every kind of disease and illness.

1 イエスさまは十二人の弟子たちを呼び集め、汚れた霊を追い出し、あらゆる種類の重い病気と軽い病気を癒す権威を授けました。

2 Here are the names of the twelve apostles: first, Simon (also called Peter), then Andrew (Peter’s brother), James (son of Zebedee), John (James’s brother),

2 これが十二人の使徒の名前です。まずシモン(ペテロとも呼ばれた)、それからアンデレ(ペテロの兄弟)、ヤコブ(ゼベダイの息子)、ヨハネ(ヤコブの兄弟)、

3 Philip, Bartholomew, Thomas, Matthew (the tax collector), James (son of Alphaeus), Thaddaeus,

3 ピリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ(取税人)、ヤコブ(アルパヨの息子)、タダイ、

4 Simon (the zealot), Judas Iscariot (who later betrayed him).

4 シモン(熱心党員)、イスカリオテのユダ(後にイエスさまを裏切った)。

5 Jesus sent out the twelve apostles with these instructions: “Don’t go to the Gentiles or the Samaritans,

5 イエスさまは次のような指示を与えて十二人の使徒を送り出しました。「異邦人やサマリヤ人のところへ行ってはいけません。

6 but only to the people of Israel -- God’s lost sheep.

6 イスラエルの人々、つまり神さまの迷える羊たちのところにだけ行きなさい。

7 Go and announce to them that the Kingdom of Heaven is near.

7 行って彼らに天の王国は近い、と伝えなさい。

8 Heal the sick, raise the dead, cure those with leprosy, and cast out demons. Give as freely as you have received!

8 病人を癒し、死人を生き返らせ、皮膚病に冒された者を治し、悪霊を追い出しなさい。あなた方が受けたのと同じように、惜しげなく与えなさい。

9 “Don’t take any money in your money belts -- no gold, silver, or even copper coins.

9 金入れのベルトにお金を入れていってはいけません。金貨も、銀貨も、銅貨さえも入れてはいけません。

10 Don’t carry a traveler’s bag with a change of clothes and sandals or even a walking stick. Don’t hesitate to accept hospitality, because those who work deserve to be fed.

10 着替えの服を入れた旅行用のかばんも、サンダルも、杖も持ってはいけません。もてなしを受けることを遠慮してはいけません。働く者には当然、食べ物を与えられるだけの価値があります。

11 “Whenever you enter a city or village, search for a worthy person and stay in his home until you leave town.

11 町や村に入るときには、誰か、ふさわしい人をさがして、その町を去るまでその人の家にとどまりなさい。

12 When you enter the home, give it your blessing.

12 その家に入るときには、その家に祝福を与えるお祈りをしなさい。

13 If it turns out to be a worthy home, let your blessing stand; if it is not, take back the blessing.

13 その家がそれにふさわしい家であれば、あなた方の祝福をそこにとどまらせなさい。もしそうでないなら、その祝福は撤回しなさい。

14 If any household or town refuses to welcome you or listen to your message, shake its dust from your feet as you leave.

14 もしどんな家でも町でも、あなた方を歓迎したり、あなた方の言葉を聞くことを拒むようであれば、去るときに、足のちりを払い落としなさい。

15 I tell you the truth, the wicked cities of Sodom and Gomorrah will be better off than such a town on the judgment day.

15 あなた方に本当のことを言いましょう。邪悪な町であるソドムとゴモラは、裁きの日には、そのような町よりまだましなのです。




ミニミニ解説

第10章は全体が、王国に関する良い知らせを告げさせるために、イエスさまが弟子たちを世の中に派遣する部分と、そのときの心構えを伝える話になっています。

今回の前半部分、第8節までと同じ記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は「マタイ」と「ルカ」が「マルコ」から採用したと考えられます。

「マルコ」は、Mark 3:13-19(マルコの福音書第3章第13節~第19節)です。「13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。16 こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。18 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、19 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。」([新改訳])。

「ルカ」は、Luke 6:12-16(ルカの福音書第6章第12節~第16節)です。「12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。14 すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、16 ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」([新改訳])。

「マタイ」で省略されているのは、イエスさまは十二人を選ぶにあたり、まず「山に登った」という記述です。「山」は聖書の中では特別な場所のひとつで、ユダヤ人は神さまを求めるときに山に登っていきます。たとえばモーゼは神さまに命じられて、ひとりシナイ山に登り、そこで神さまから律法を授かりました。「ルカ」には十二人を選ぶにあたり、イエスさまが神さまに祈りながら一晩を明かして選び出したと書かれています。選び出された十二人の弟子たちは特別に「使徒(apostles:「t」は発音せず「アポスルズ」と読みます)」と呼ばれました。またこの十二人には、派遣にあたり、汚れた霊を追い出し、あらゆる種類の病気を癒す権威が授けられたのです。

選ばれた十二人は「マタイ」「マルコ」「ルカ」で少しだけ順番が違います。順番に見てみましょう。

1人目。シモン。三つとも同じです。ペテロとも呼ばれます。十二人のリーダー的な存在です。

2人目。「マタイ」と「ルカ」はアンデレ。「マルコ」ではヤコブで、アンデレは4人目です。シモンとアンデレの二人は、ガリラヤ湖北岸のカペナウムの町にいた漁師の兄弟です。

3人目。「マタイ」と「ルカ」はヤコブ。「マルコ」ではヨハネで、ヤコブは2人目です。

4人目。「マタイ」と「ルカ」はヨハネ。「マルコ」ではアンデレで、ヨハネは3人目です。ヤコブとヨハネもやはり、カペナウムの町にいた漁師の兄弟で、父親はゼベダイです。

順番は違いますが、ここまでに登場するのが二組の兄弟(四人)である点は同じです。このうち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人がイエスさまの側近です(アンデレは側近に含まれませんでした)。そういう意味では、アンデレを四番目にした「マルコ」がしっくり来ます。「マルコ」がこの部分のオリジナルなのだとしたらなおさら納得です。

5人目。ピリポ。三つとも同じです。

6人目。バルトロマイ。三つとも同じです。「バル」とか「バー」と言うのは「~の子」と言う意味だそうですので、バルトロマイは「トロマイの子」の意味です。

7人目と8人目。「マタイ」はトマス、マタイの順。「マルコ」と「ルカ」は、マタイ、トマスの順。「マタイ」はトマスを前に出しました。マタイはもともとローマ帝国のために徴税吏をやっていた人です。マルコの第2章にカペナウムの町で収税所に坐っていたアルパヨの子レビがイエスさまから弟子に呼ばれる話が出ていて、ここから「マタイ」と「レビ」は同一人物である(つまりマタイはレビの別名である)という説もあります。また次の9人目がやはり「アルパヨの息子」と書かれていることから、こちらのヤコブがレビと同一人物である、とする説もあります。

9人目。アルパヨの息子のヤコブ。三つとも同じです。ヨハネの兄弟のヤコブと同じ名前なので、「小ヤコブ」と呼ばれたりします。身長が小さいのか、年齢が若いのか、どうして「小ヤコブ」なのかはわかりません。

10人目。「マタイ」と「マルコ」はタダイ。「ルカ」は次の熱心党員のシモンが先に来ます。「熱心党(ゼーロタイ)」はファリサイ派の分派でローマ帝国への納税に強く反対して、武力によるローマ帝国支配からの脱却を目指して市民に行動を呼びかけた一派です。呼びかけに応じて蜂起し、ローマ帝国軍に鎮圧された事件は新約聖書の中にもいくつか記述されています。シモンはそんな熱心党員の一人だったということです。

11人目。「マタイ」と「マルコ」は熱心党員のシモン。「ルカ」はタダイではなくヤコブの子ユダとなっています。先に登場した「タダイ」と「ヤコブの子ユダ」は同一人物ではないか、とされています。

12人目。イスカリオテのユダ。イエスさまを裏切った使徒です。三つとも同じです。

日本語の聖書と英語の聖書では使徒の名前の発音がまったく違います。「イエスさま」も英語では「Jesus(ジーザス)」です。海外では聖書の登場人物の名前を子供の名前にする人も多いので、なるほどと思うかも知れません。ひととおり見てみましょう。「シモン」は英語では「Simon(サイモン)」。同一人物の「ペテロ」は「Peter(ピーター)」。「アンデレ」は「Andrew(アンドリュー)」。「ヤコブ」は「James(ジェイムズ)」。「ヨハネ」は「John(ジョン)」。「ピリポ」は「Philip(フィリップ)」。「バルトロマイ」は「Bartholomew(バーソロミュー)」。「トマス」だけは「Thomas(トマス)」でほぼ同じ。「マタイ」は「Matthew(マシュー)」。「タダイ」は「Thaddaeus(サディアス)」。「ユダ」は「Judas(ジューダス)」あるいは「Jude(ジュード)」。以上です。

イエスさまは山に登ってお祈りをし、弟子たちの中から十二を選び出し、特別に「使徒」と名付けました。ここからこの章の最後までは、この十二人の使徒を世の中に派遣するにあたって、イエスさまが言い聞かせた言葉になります。「マタイ」は十二使徒に伝えた言葉を第10章全体にまとめていますが、その中身を「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめるるのは困難です。「マルコ」の中にここまでの詳細な伝達がないことはわかりますが、どこまでが「Q資料」で、どこからが「マタイ」著者の独自の編集による部分なのかの判別は大変難しいです。

まず最初の第5節、イエスさまは使徒たちに「異邦人やサマリヤ人のところへ行ってはいけません」と伝えています。「異邦人」とはユダヤ人から見ての「外国人」のこと。「サマリヤ人」とはサマリヤ地方に住んでいたユダヤ人のことですが、「サマリヤ人」はここで異邦人と同格に扱われて、使徒たちが行くべき場所から除外されています。サマリヤ人に関して少し背景を説明しておきます。

イスラエルは地理的に南北に長い国で、三つ(あるいは四つ)の地方に分かれています。国内唯一の寺院があり、政治の中心でもあるエルサレムは南部の「ユダヤ地方」にあります。イエスさまが伝道活動を開始した北部のガリラヤ湖周辺が「ガリラヤ地方」です。そして南北の二つの地方に挟まれた真ん中のあたりが「サマリヤ地方」になります。

イスラエルは歴史上、王朝が北朝と南朝に分かれた時代がありました。北朝はイスラエル王国、南朝はユダ王国と呼ばれました。三つの地方のうち、南部のユダヤ地方が南朝のユダ王国、真ん中のサマリヤ地方と北部のガリラヤ地方が北朝のイスラエル王国にあたります。分裂は紀元前930年頃(イエスさまの時代を900年遡った頃)に起こり、どちらの王朝も王が何代も代替わりした後で滅亡します。北朝のイスラエルが先にアッシリアに滅ぼされ(紀元前722年)、その後、南朝のユダがバビロニアに滅ばされました(紀元前586年)。アッシリアに滅ぼされた北朝のイスラエルからは、アッシリアの政策で、おおかたのユダヤ人が国外へ連れ去られ、代わりにアッシリアが自国民や他民族を植民しました。北朝から連れ去られたユダヤ人は歴史上、その後の消息の記録がなく、どこかへ消滅してしまいました。どうやら東へ東へと旅をしたようで、アジアの各国に伝承や通説があります。私個人はこのユダヤ人の一部は日本にも渡来して、日本文化の一部を構成するに至ったと信じています。日本とユダヤの文化上の共通点を指し示す書物が何冊か出版されていて、大変興味深く読めます。

一方、バビロニアに滅ぼされた南朝のユダ王国からは富裕層を中心にユダヤ人がバビロニア国内へ連れ去られましたが、それから70年後、これらのユダヤ人はエルサレムに戻ることを許されるのです。このときの様子は旧約聖書に大変劇的に記述されていて、エルサレムへ戻ることを選択したユダヤ人の人数や戸籍の名前までもが記録されています。そうやってエルサレム周辺に再度建国されたユダヤ人国家がイエスさまの時代のイスラエルの元になっています。ユダヤ人はもともと血筋や家系を重視する民族です。イエスさまの時代にエルサレムに住んでいたユダヤ人は自分たちの家系図を遡って、自分たちが純血のユダヤ人であることを誇りにしていました。

当時、サマリヤ地方や、その北のガリラヤ地方に住んでいたユダヤ人はどういう人たちだったかと言うと、アッシリアがおおかたのユダヤ人を国外へ連れ去った後に土地に残ったユダヤ人が、植民されてきた異邦人と交わって混血になっていたのでした。これはエルサレムに住む、自称「正統」のユダヤ人たちから見ると、律法に照らして「汚(けが)れ」にあたる、忌むべき存在なのでした。特にサマリヤ人は北朝の時代に南部のエルサレムへの道を絶たれ、民族唯一の寺院へ参拝することが叶わなくなると、ユダヤ教と似て非なるゲリジム山への信仰を独自に確立したことから、エルサレムのユダヤ人たちからは特に嫌われていたのです。

ガリラヤ地方で伝道活動をしていたイエスさまは十二使徒に「異邦人やサマリヤ人のところへ行ってはいけません」と伝えました。つまりイエスさまの伝道の対象は「純粋な」ユダヤ人に限られ、外国人や、その当時「サマリヤ人」と呼ばれていた人たちは対象から除外されていたのです。第6節でイエスさまはこれに付け加えて、「イスラエルの人々、つまり神さまの迷える羊たちのところにだけ行きなさい」と言っていますから、「イスラエルの人々」以外、異邦人やサマリヤ人は 「神さまの迷える羊たち」ではないことになります。ちなみにイエスさまの十字架死~復活後、天に戻ったイエスさまと入れ替わりに、弟子たちのひとりひとりに聖霊が訪れますが、弟子たちは今度は異邦人に対して福音を伝えるようにと、改めて神さまから命じられます。これは後の話です。

第7節でイエスさまは「行って彼らに天の王国は近い、と伝えなさい」と言っています。つまり、十二人の使徒たちは出かけていって人々に「天の王国は近い」とだけ伝えていたのです。これは基本的にイエスさまや、洗礼者ヨハネが民衆に伝えていたメッセージと同じであり、旧約聖書におさめられた預言者の書のメッセージにも通じるものです。すなわち「神さまに向き直りなさい。どれほど自分たちが神さまの期待を裏切って神さまの怒りを買っているか、自分たちの罪を自覚して悔い改めなさい。なぜなら神さまの王国が近いからです」というメッセージです。「イエスさまは神さまが世に送り出した救世主であり、イエスさまを信じる者には永遠のいのちが与えられる」という今日の「福音(ゴスペル)」は、イエスさまの十字架死~復活を経て、イエスさまと入れ替わりに聖霊が訪れて信者に宿り、そこで初めて明らかにされたことなのです。第10章の時点で、十二人使徒たちを初め、イエスさまの弟子たちが信じていたのは、イエスさまは偉大な預言者の一人であり、きっと旧約聖書に出現を約束されたダビデ王の家系から出たメシヤなのであり、そうであればやがてイエスさまは、ローマ帝国の支配を打ち破る王として立ち、ユダヤ民族にかつての繁栄と栄華を再び取り戻すのではないか、と言うことだけです。

第8節でイエスさまは使徒たちに「病人を癒し、死人を生き返らせ、皮膚病に冒された者を治し、悪霊を追い出しなさい。あなた方が受けたのと同じように、惜しげなく与えなさい」と命じています。つまり十二人の弟子たちは、イエスさまからこういう奇跡の術を行う力を与えられて、それを持って旅立っていったのです。こういう奇跡の施術で人々の関心を集め、「見よ。天の王国は近いのだ」とのメッセージを伝えて回ったのです。


第9節からの部分との類似箇所は「マルコ」と「ルカ」の中に見つかります。

まず、Mark 6:7-11(マルコの福音書第6章第7節~第11節)を見てみましょう。「7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」 10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」([新改訳])

「ルカ」はまず、Luke 9:1-6(ルカの福音書第9章第1節~第6節)です。「1 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。4 どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。5 人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」 6 十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」([新改訳])。

また「ルカ」の中ではこれとは別に「70人」が選ばれて送り出された箇所があり、ここの記述がやはり類似しています。Luke 10:1-16(ルカの福音書第10章第1節~第16節)です。「1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。4 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。5 どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。6 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。7 その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。8 どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。9 そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。11 『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』 12 あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。13 ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。14 しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。15 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスにまで落とされるのだ。16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」([新改訳])。

この部分を「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」・「ルカ」がほぼ類似の記述となっていますが、「マルコ」からの引用が含まれることもわかりますから、この部分は「マルコ」に、イエスさまの語録集である「Q資料」から採用の資料を組み合わせていると考えられます。

まずイエスさまは第9節、第10節で「旅には何も持っていくな」と言っています。「何も」はほとんど手ぶらの状態を指していることがわかります。現代ではどこの町にもコンビニエンスストアがあるので、必要なものは現地で調達するつもりで、ほとんど手ぶらで旅行に行くというスタイルもあるかも知れませんが、これは2000年前のイスラエルの話です。コンビニエンスストアはおろか、行き先の小さな町や村には宿泊施設さえほとんどないでしょう。

ですがこの言葉の意図は、「旅先で必要になるものは必ず旅先で見つかる。だからわざわざ自分で持っていく必要はない」なのだと思います。神さまを信じる者は先々を思い煩う必要がない、と言うのは旧約聖書にまで通じる教えだからです。たとえばユダヤ民族は紀元前1500年頃にモーゼに率いられて奴隷状態のエジプトから脱出して約束の地パレスチナを目指しますが、途中で神さまの怒りを買って、砂漠を40年間放浪する羽目になりました。その間、神さまはユダヤ民族に「マナ」と呼ばれるパンのような食べ物を毎朝空から降らせて与えました。その際に神さまは「毎朝与えるから、その日に必要な分だけ取りなさい」と命じたのに、中にはもしもに備えて翌日の分まで集める者もいて、この「不信仰」がモーゼを怒らせます。神さまが「与える」と約束したものは必ず与えられるのです。宇宙を運行しているのは神さまです。神さまが「与える」と約束したことが起こる確度は、明日の朝、東から太陽が昇るのと同じくらいの期待度で待っていて良いです(誰か疑っている人はいますか?)。神さまの言葉をどれだけ字面どおりに信じて、その日の分だけのマナを取って、翌日のことを何も心配することなく過ごせるか、神さまはそれをご覧になっているのです。

でも実際のところはどうだったのでしょうか。第11節でイエスさまは、自分の衣食住を確保する方法として、ある町に入ったら、滞在の間、自分を居候させてくれる家を探しなさい、と命じています。なにしろ使徒たちは町に入るとイエスさまから与えられた力を使って、病人を癒し、死人を生き返らせ、皮膚病に冒された者を治し、悪霊を追い出すと言う奇跡を次々と行うのです。それほどパワフルな預言者に対して「どうか我が家に滞在してください」という申し出が出るのは普通だと思います。であればきっと弟子たちには衣食住の心配はなかったのです。この「その町を去るまでその人の家にとどまりなさい」と言う命令は、使徒たちが多数の奇跡の技を行うにつれて、もっともっと厚い待遇を提供して豪華にもてなして、なんとか自分の家へ招こうという「招待競争」が始まるのを防ぐための言葉だったのかも知れません。

第12節、使徒を滞在させる家が決まったら、使徒はその家のために祝福をお祈りします。神さまの意志を忠実に遂行するイエスさまが自分の代理として送り出す使徒なのです。その使徒が「この家に祝福あれ」と神さまにお祈りすれば、必ず神さまの祝福がその家に降り注いだことでしょう。ですがもし何かの理由で、使徒がその家は祝福にふさわしくないとか、祝福に値しないと判断した場合には、第13節、使徒たちはその祝福を撤回し、さらに第14節、足のちりを払い落としてその家や町を去ります。この「足のちりを払い落とす」という行為は、その土地との「絶縁」を示す強力な怒りのアピールなのです。この世の終わりに来る最後の審判で、私たちの行き先は、神さまの祝福を受ける天国か、神さまから切り離される地獄のどちらかしかありません。使徒は足のちりを払う「絶縁」の仕草で、その町の行く末を暗示しているのです。

第15節にある「ソドム」と「ゴモラ」は旧約聖書に登場する町の名前です。ソドムにはユダヤ民族の父であるアブラハムの甥のロトが家族と共に住んでいました。神さまの使いがソドムの町を訪れてロトの家に宿泊したとき、町の男たちはロトの家の戸口に殺到して神さまの使いを引き渡すように要求しました。町の男たちは神さまの使いとの同性愛の性交を求めていたのです。そうしているうちに、ソドムとゴモラの上には天から硫黄の火が降り、町も住民も植物も壊滅します。ロトの家族はかろうじて脱出できたのでした。何ともおぞましいひどい話です。ですがソドムとゴモラがそれほどひどい存在だったと言うのに、最後の審判の日には、イエスさまが送り出す使徒を拒む町に比べると、ソドムとゴモラの方がまだましだ、と言われてしまうと言うのです。








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