マタイの福音書第9章第27節~第34節:イエスさまが目の不自由な人を癒すマタイの福音書第9章第14節~第17節:断食についての議論

2015年12月23日

マタイの福音書第9章第18節~第26節:イエスさまが信仰に応えて癒す

第9章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Heals in Response to Faith

イエスさまが信仰に応えて癒す


18 As Jesus was saying this, the leader of a synagogue came and knelt before him. “My daughter has just died,” he said, “but you can bring her back to life again if you just come and lay your hand on her.”

18 イエスさまがこのことを話していると、会堂の指導者が来てイエスさまの前にひざまずいて言いました。「たったいま私の娘が死にました。ですが、もしあなた様が来て、娘の上に手を置いてくだされば、あなた様は娘を生き返らせることができます。」

19 So Jesus and his disciples got up and went with him.

19 それでイエスさまと弟子たちは、立ってその人と一緒に行きました。

20 Just then a woman who had suffered for twelve years with constant bleeding came up behind him. She touched the fringe of his robe,

20 ちょうどそのとき、十二年の間、出血が続いて苦しんでいる女性がイエスさまの後ろに近づいて来ました。その女性はイエスさまの着物のふさに触りました。

21 for she thought, “If I can just touch his robe, I will be healed.”

21 と言うのは、その女性が「もし私がイエスさまの着物に触ることさえできれば、私は癒される」と考えたからです。

22 Jesus turned around, and when he saw her he said, “Daughter, be encouraged! Your faith has made you well.” And the woman was healed at that moment.

22 イエスさまは振り向き、女性を目にすると言いました。「娘よ。元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治したのです。」女性はそのときに治りました。

23 When Jesus arrived at the official’s home, he saw the noisy crowd and heard the funeral music.

23 イエスさまがその指導者の家に到着すると、騒がしい人たちが見え、葬式の音楽が聞こえて来ました。

24 “Get out!” he told them. “The girl isn’t dead; she’s only asleep.” But the crowd laughed at him.

24 イエスさまは人々に言いました。「出て行きなさい。少女は死んでいません。眠っているだけです。」しかし群衆はイエスさまをあざ笑いました。

25 After the crowd was put outside, however, Jesus went in and took the girl by the hand, and she stood up!

25 群衆が外へ出されると、イエスさまは中へ入り、少女の手を取りました。すると少女が立ち上がりました。

26 The report of this miracle swept through the entire countryside.

26 この奇跡の報告は、その地方全体に広まりました。




ミニミニ解説

今回は会堂管理者のヤイロと、イエスさまの着物のふさに触って癒された女性の話です。同じ記述が「マルコ」と「ルカ」にも見られます。いつものように、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は「マタイ」と「ルカ」が「マルコ」から採用したと考えられます。いつものように「マルコ」と「ルカ」のそれぞれの記述を見てみます。

「マルコ」は、Mark 5:21-34(マルコの福音書第5章第21節~第34節)です。「21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」 24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」 32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」([新改訳])。

「ルカ」は、Luke 8:40-48(ルカの福音書第8章第40節~第48節)です。「40 さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。41 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。42 彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。43 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、44 イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。45 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。46 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。47 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。48 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」([新改訳])。

オリジナルの「マルコ」の記述が一番詳しくてわかりやすいです。「マルコ」の今回の部分は、「マタイ」で言えば第8章が終わったところ、イエスさまと一行がガリラヤ湖の対岸から戻った場面から始まります。湖の向こうから戻ってきたイエスさまを迎える形でたくさんの群衆が岸辺に集まってきます。その中に会堂の指導者のヤイロがいました。会堂(シナゴーグ)はユダヤ民族の各町や村にある施設で、週末にはすべての男性がそこに集まって祈りを捧げ、聖書の勉強のために律法の先生から話を聞きました。平日は年少者のための学校として使われていました。揉め事や争いごとがあれば、その解決の場所はやはり会堂でした。会堂はユダヤ民族の生活の中心だったと思います。日本の「お寺」のようではありますが、ユダヤ教では寺院はエルサレムにひとつだけしかありません。

ヤイロはおそらく、ある共同体で会堂の管理を任されていた人ですから、人々の尊敬を集める誇り高い仕事に就いていた人です。会堂は聖書を教える場所ですから、「死」に関する理解も、聖書の教えに基づいて誰よりもよくわかっていたはずです。が、実際に自分の娘が死にかけると、それを宗教的に素直に受け入れることを拒み、娘の命を守るためにイエスさまのところへ出てきました。共同体の誰が見ているかわからないのに、ヤイロはかまわずにイエスさまの前にひざまずき、娘を助けて欲しいと懇願します。なお、「マルコ」「ルカ」では、ヤイロは死にかけた娘を救うために来ていますが、「マタイ」では「たったいま私の娘が死にました」と死んでから出てきたことになっています。

話を聞いたイエスさまはヤイロの家へ向かうことにします。きっとヤイロの信仰に裏打ちされた行動を見てのことでしょう。するとたくさんの群衆もイエスさまに着いていきます。群衆を引き連れて、押し合いへし合いしながらの前進です。ヤイロは死にかけている娘を思い、一刻でも早くイエスさまを連れて行きたいので、思うように進まない集団を見て相当ヤキモキしていたと思います。

その群衆に紛れて、一人の女性が近づいてきます。この女性は12年間も出血が止まらずに苦しんでいるのでした。これは女性に特有の病気なのだと思います。おそらく生理の期間が過ぎても出血がとまらず、それが12年も続いているのです。「マルコ」によると女性は病気の治療のために財産を使い果たし、それでも出血は止まらないのでした。あらゆる病を癒してしまうと言うイエスさまの噂を耳にして、藁にもすがる気持ちでやって来たのでしょう。

実はこの女性は、聖書の律法によると人と接触してはいけないのです。律法では女性の生理は「汚(けが)れ」にあたり、生理の期間でないのに出血がある場合にも、それは同じように「汚れ」になります。旧約聖書のLeviticus 15:19-27(レビ記第15章第19節~第27節)を引用します。「19 女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。20 また、その女の月のさわりのときに使った寝床はすべて汚れる。また、その女のすわった物もみな汚れる。21 また、その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。22 また、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。23 その女の床であっても、すわった物であっても、それにさわった者は夕方まで汚れる。24 また、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる。彼が寝る床もすべて汚れる。25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。26 彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。27 これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる」([新改訳])。

女性はこの律法をよく知っていながら、押し合いへし合いする群衆の中を進み、イエスさまの後ろへ迫ります。「もしあの方の着物に触りさえすれば私の病は癒される」という信念だけが女性を動かしているのです。イエスさまに到達する前の間、群衆の中をかき分けて進んだために、女性はたくさんの人に触れたことでしょう。これらの人々は律法では同じように「汚れ」の状態となったのです。ついに女性はイエスさまに追いついて、イエスさまの着物の「ふさ」に触れました。「ふさ(fringe)」は、やはり律法で身につけることが義務づけられている装飾です。たとえば、Numbers 15:38(民数記第15章第38節)には、「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。」([新改訳])と書かれているように、当時のユダヤ人の着物の端には房飾りがついていたのです。ちなみにファリサイ派は、この房飾りを必要以上に大きくして、人々の注目を集めようとしていました。Matthew 23:5(マタイの福音書第23章第5節)です。「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」([新改訳])。

女性がイエスさまのふさ飾りに触れた瞬間、女性の病気は癒されてしまいました。女性にはその治癒が体感できたのです。12年間患い苦しんできた病が、瞬時に治るのを感じる。これはきっととんでもなく素晴らしい体験だと思います。ところがあろうことか、目の前にイエスさまが突然振り向き、「だれがわたしの着物にさわったのですか」とたずねました。弟子たちは、自分たちの師はいったい何を言い出すのだろうといぶかります。これだけの群衆です。たくさんの人がイエスさまにぶつかっています。それなのに「だれがわたしの着物にさわったのですか」の質問はないでしょう。質問の意味がわかりません。

ですが質問の意味を理解している人がひとりだけいました。その女性はイエスさまのすぐ後ろにいました。女性はもうビックリです。律法を犯して群衆の中を進み、汚れた身体であることを知りながら、人々の羨望を集めているイエスさまに触れたのです。周辺からたくさんの群衆が集まっていましたから、きっとこの女性の病のことを知っていた人も何人かは含まれていたでしょう。女性は突然振り向いたイエスさまに驚愕し、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言う言葉に観念し、恐れおののきながらその場にひざまずいて真実を告げました。するとイエスさまの口から出てきたのは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」と言う優しい言葉でした。イエスさまを信じる気持ち、ただひとりイエスさまに希望を託してすがりつこうとする気持ち、その気持ちをついには律法違反さえ気にもとめない大胆な行動にまで結びつけたもの、イエスさまの背中を追いかけて、この女性を突き動かし続けたたもの、それが信仰なのです。その信仰があったから、あなたの病は治ったのだ、とイエスさまは告げます。

イエスさまはたくさんの人が押し合いへし合いしていく中で、自分の中から癒しの力が出ていくのを感じました。イエスさまに本当に「触れる」という行為、それはただイエスさまに物理的に接触することとは異なる、イエスさまから治癒の力を引き出す「真の接触」なのです。女性はイエスさまの着物の縁に着いているふさ飾りに、ほんのちょっとだけ触れるだけで良かったのです。他の人たちがドスンドスンと乱暴にぶつかっていく中で、イエスさまはこの女性の「触れる」ことにだけ、気づいたのでした。私たちもこの女性のように神さまに触れることを追求しめなければなりません。神さまからの祝福や守りや導きを求めるのなら、神さまからそれらを引き出すような、真の接触をしなければなりません。

さて娘が死にかけているヤイロは、遅々として進まないイエスさま一行にヤキモキしていたのに、途中で後ろからイエスさまに触れた女性が現れて、しばらくの間、前進が止まってしまいました。ヤイロは、あぁ、早くしてくれ、早くしてくれと、居ても立ってもいられないような状態だったことでしょう。


続いてヤイロの娘が、死から息を吹き返す話です。同じ記述が「マルコ」と「ルカ」にも見られます。同じように、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、こちらの部分は「マタイ」と「ルカ」が「マルコ」から採用したと考えられます。いつものように「マルコ」と「ルカ」のそれぞれの記述を見てみます。

「マルコ」は、Mark 5:35-43(マルコの福音書第5章第35節~第43節)です。「35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」 36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」 40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。) 42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。」([新改訳])。

「ルカ」は、Luke 8:49-56(ルカの福音書第8章第49節~第56節)です。「49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」 50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」 51 イエスは家に入られたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょに入ることをお許しにならなかった。52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」 53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。54 しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」 55 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。56 両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」([新改訳])。

こちらも「マタイ」の記述が、オリジナルの「マルコ」の話を驚くほど大幅に短縮していることがわかります。実際の話は「マルコ」を読む方がわかりやすいです。「マタイ」ではヤイロは娘が死んでからやって来たことになっていましたが、オリジナルの「マルコ」では、ヤイロは娘が死にかけているときにイエスさまの元へ向かったことになっていて、イエスさまがヤイロの家へ向かう間に娘は死んでしまったようです。ヤイロの家から訃報を持った使いが来て、娘は死んでしまったので、もうわざわざイエスさまに来てもらう必要はなくなった、と告げます。それでもイエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい」と言ってヤイロの家へ向かいます。ヤイロは会堂の指導者という地域の尊敬を集める地位にありながら、自分の会堂でも聖書の先生を務めるであろうファリサイ派の反感を買うのを承知で、イエスさまの元へ出向き、その足下にひれ伏して自分の家へ来て少女の上に手を置いてくれと懇願したのでした。この後でヤイロは会堂の指導者の職を失うことになるのかも知れません。ヤイロはそれでもイエスさまを信じて行動を起こしたのです。イエスさまはそのヤイロの信仰を見て、ヤイロの家へ向かいました。ですので訃報が到着しても、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言ってヤイロの家へ向かうのです。

一行がヤイロの家に着くと「人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしている」とか、「騒がしい人たちが見え、葬式の音楽が聞こえて来た」とか書かれています。これは葬式に仰々しい音楽を奏でる演奏家や、激しく泣き叫ぶことを専門職にする女性(「泣き女」などと言う)を呼ぶことが「立派な葬式」だとする慣習によるものです。これは中国、韓国、の他にも世界各地に散見される文化です。一行が到着したときには、すでにこういう人たちが呼ばれて立派な葬式を演出していたと言うことは、ヤイロの家まではけっこうな距離があったと言うことですし、つまり少女は死んでからずいぶん長い時間が経っていたということになります。

イエスさまは到着すると「少女は眠っているだけだ」と告げて人々の失笑を買いながら、弟子の中から、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人と少女の両親だけを連れて中に入ります。この三人の弟子はイエスさまの側近で、この後もさまざまな重要なイベントでイエスさまと行動を共にします(ヤコブとヨハネは兄弟です。ペテロの兄弟のアンデレは側近には含まれません)。イエスさまは家の中に入ると少女の手を取り、「タリタ、クミ(少女よ、あなたに言う、起きなさい)」と命じます。すると死んでいたはずの少女が起き上がり、歩き始めます。三人の弟子と両親はこの蘇生の瞬間を自分の目で見たことになります。人々はこれに大変驚きます。

死んだはずの人間が息を吹き返す話は旧約聖書の中にも出てきますが件数は限られています。イエスさまが行う蘇生の奇跡も福音書の中にたくさん出てくるわけではありません。

イエスさまはヤイロの家で「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです」と言いますが、これは冗談を言っているのではなくて、どうやら本当にそうなのです。少女は死んでおらず、眠っているだけなのです。 私たちの考える「死」と聖書に書かれている「死」は、違うイベントなのです。私たちは死ぬことがすべての終わりと考えていますが、聖書によると、神さまが造られた「魂」はどうやら不滅のようで、私たちが考える「死」は、永遠に続く魂が途中で通り抜けるひとつのイベント、つまり滅び行く肉体との分離のことなのです。

その不滅の魂が、私たちの考える「死」のイベントを経て、最終的にたどり着く場所は二つ、天国と地獄です。天国に入る魂は、そこで神さまと合流しますが、地獄へ行く魂は神さまから切り離されることになります。聖書ではこの最終的に神さまから切り離されるポイントを「死」と呼んでいるようです。 何度も書いてきていますが、地上にいるすべての人は、何かしらの形で神さまの期待を裏切り、神さまをガッカリさせています。これは罪「(sin)」と呼ばれ、神さまに対する「汚(けが)れ」の状態ですので、そのままでは神聖な神さまと合流することはできません。

聖書に書かれている「罪」の汚れを洗い流す手段は、いけにえの「血」による浄化です。イエスさまはその目的で神さまが、その必要もないのに、わざわざ一方的に私たちに差し出してくださった贈り物なのです。イエスさまが十字架の上で流した血がすべての人の汚れを洗い流しました。私たちはただ「ありがとうございます」と言ってこれを受け取ればよいことになっています。 私たちの側には失うものの何もない、たいへん都合の良い話です。これがイエスさまに関する話が「良い知らせ」と呼ばれるゆえんです。この「良い知らせ(Good News=Gospel)」に、日本では「福音(ふくいん)」と言う言葉をあてました。この神さまの計画を知り、イエスさまがが十字架の上で流した清い血が自分の罪を洗い流すと信じる人には天国への道が開かれます。一方で、最後までこの福音を信じない人は、汚れを洗い流すことができませんので、これから来る「終わりの日」に開かれる最後の審判で有罪が宣告され、その後で神さまから完全に切り離されて地獄へ堕とされます。これが「死」です。でも魂は不滅ですから、地獄へ堕とされた魂は、そこで永遠に苦しむことになるのです。

イエスさまによると私たちの考える「死」は、その「終わりの日」のイベントを待つ間、「眠っているだけ」の状態のようです。神さまの視点での「永遠」に比べれば、私たちが地上で過ごす時間はほんの一瞬なのでしょうから、「タリタ、クミ」の言葉で、少女に与えられた地上での時間を少しだけ延ばしたところで、大きな違いはないのかも知れません。イエスさまはたんたんと、少女に食事を取らせるように、と命じます。 このような「死」の考え方は、日頃から聖書に親しんでいるユダヤ人にも、きっと正しく伝わることはないのでしょう。少女に対してイエスさまが行ったことは、死者を復活させる奇跡の蘇生術として、そこだけが誇張されて伝えられていくのが関の山なので、イエスさまはこのことをだれにも知らせないようにと、厳しく命じたものと思います。








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マタイの福音書第9章第27節~第34節:イエスさまが目の不自由な人を癒すマタイの福音書第9章第14節~第17節:断食についての議論