マタイの福音書第9章第18節~第26節:イエスさまが信仰に応えて癒すマタイの福音書第9章第9節~第13節:イエスさまがマタイを呼ぶ

2015年12月23日

マタイの福音書第9章第14節~第17節:断食についての議論

第9章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


A Discussion about Fasting

断食についての議論


14 One day the disciples of John the Baptist came to Jesus and asked him, “Why don’t your disciples fast like we do and the Pharisees do?”

14 ある日、洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスさまのところに来てたずねました。「どうしてあなたの弟子たちは、私たちやファリサイ派がするように断食しないのですか。」

15 Jesus replied, “Do wedding guests mourn while celebrating with the groom? Of course not. But someday the groom will be taken away from them, and then they will fast.

15 イエスさまは答えました。「婚礼に招かれた客たちは、花婿と一緒に祝杯をあげている間に嘆き悲しみますか? もちろんそんなことはしません。ですがいつの日か、花婿が連れ去られる日が来ます。そのときには彼らは断食します。

16 “Besides, who would patch old clothing with new cloth? For the new patch would shrink and rip away from the old cloth, leaving an even bigger tear than before.

16 それに、誰が古い着物の継ぎをするのに新しい布切れを使いますか? なぜなら新しい継ぎは縮んで古い布から破れ落ち、後には前よりも大きな破れ目が残ります。

17 “And no one puts new wine into old wineskins. For the old skins would burst from the pressure, spilling the wine and ruining the skins. New wine is stored in new wineskins so that both are preserved.”

17 また新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はいません。なぜなら古い皮は圧力でやぶけて、ぶどう酒はこぼれ、皮もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。そうすれば両方とも保たれます。」




ミニミニ解説

今回は断食に関する話です。同じ記述が「マルコ」と「ルカ」にも見られます。いつものように、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は「マタイ」と「ルカ」が「マルコ」から採用したと考えられます。いつものように「マルコ」と「ルカ」のそれぞれの記述を見てみます。

「マルコ」は、Mark 2:18-22(マルコの福音書第2章第18節~第22節)です。「18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」 19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」([新改訳])。

「ルカ」は、Luke 5:33-39(ルカの福音書第5章第33節~第39節)です。「33 彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」 34 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」 36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」([新改訳])。

「断食」はユダヤ人の間で一般的に行われていた苦行でした。「断食」の場面は旧約聖書にもたくさん登場します。神さまにお祈りをして願い事をするとき、特にその願いが悲痛であるときに、願い事をする人は断食をし、身にボロをまとい、頭から灰をかぶり、地に伏して祈ります。あるいは神さまに対して自分がどれほど罪深い存在かを自覚したとき、罪を後悔して、申し訳ないと神さまに頭を下げるときにも同じように断食をしました。主であり王であり宇宙の支配者である神さまに対して、どれほど自分がちっぽけで情けなくて汚れた存在であるかを自覚し、それを神さまに示すためにそうしたのだと思います。

今回、イエスさまに質問しているのは、洗礼者ヨハネの弟子です。このヨハネはイエスさまの十二使徒のヨハネとは別人で、イエスさまの先駆けとしてイスラエルに現れ、荒野に人々を集めて「罪を自覚せよ。悔い改めよ。神さまに向き直れ」と説いていた人です。「マタイ」では第3章に登場しました。洗礼者ヨハネの弟子たちも、ファリサイ派の人たちも、いまイスラエルで宗教的な注目を集める人たちはみな等しく断食をしているのに、どうしてイエスさまの弟子たちは断食をしないのか、とたずねたのです。これは「ユダヤ人なら断食しなさい。宗教指導者であるなら弟子に断食させなさい」と言っているのに等しいと思います。

ちなみにファリサイ派は違う動機で断食をしていました。「マタイ」の第6章でイエスさまから指摘されています。Matthew 6:16-18(マタイの福音書第6章第16節~第18節)です。「16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます」([新改訳])。ファリサイ派は週に2回、人に見せるために断食をしていたので、イエスさまから「偽善者」と批判されました。

今回、イエスさまの答えは、「婚礼に招かれた客たちは、花婿と一緒に祝杯をあげている間に嘆き悲しむだろうか。もちろんそんなことはしない」です(「マルコ」「ルカ」では「嘆き悲しむだろうか」の部分が「断食するだろうか」になっています)。たしかに婚礼の祝宴に招かれた客たちが花婿と一緒に断食をして嘆いたり悲しんだりするのは不自然です。ここに書かれた「花婿」とは、イエスさまのことなのです。そして「婚礼に招かれた客たち」は、弟子たちを始め、イエスさまと行動を共にする人たちです。彼らはイエスさまと一緒に行動をして、地上でイエスさまと同じ貴重な時間を共有しています。イエスさまの話に耳を傾け、その権威と洞察に驚き、イエスさまの行う奇跡を目にして、神さまを褒め称えます。これらの一連の出来事が、婚礼に招かれた客たちが花婿と一緒に祝杯をあげている、と書かれているのです。人々がイエスさまとすごす間は、婚礼の祝宴のように大いに楽しむべき時間なのだから、嘆き悲しみ、断食を行うときではないのです。

この大いに楽しむべき「婚礼の祝宴」についても、私たちの認識より重い意味があることを知っておいた方が良いでしょう。ユダヤ人の婚礼は成人男子の人生上の大きなイベントのひとつで、結婚が成立すると祝宴は一週間を費やして行われ、ほぼ町中の人たち全員が招待されるそうです。これは自主的なイベントではなくて、婚礼をそのように行うことが慣習であり義務なのです。たとえば招待を行うホストの側で、この一週間の期間の間に食べ物や飲み物を欠かすようなことがあれば、それほどの恥辱はありません。それほどの意味を持つイベントなのですから、ユダヤ人が断食を忘れて「大いに楽しむ」ことは、ユダヤ民族共同体の義務なのです。

ところが「いつの日か、花婿が連れ去られる日」が来るのです。これはイエスさまが逮捕され、十字架にかけられ、殺されることを指しています。そしてそのときに弟子たちは断食するのです。これはいつのことなのでしょうか。イエスさまは十字架死の三日後、かねてからの予告どおりに復活し、弟子たちの前に姿を現して弟子たちを驚かし、弟子たちは大喜びしました。ここから弟子たちは、再び地上でイエスさまと同じ時間を共有し始めたことになります。またイエスさまはその後で、弟子たちの見ている前で天へ戻ってしまいますが、やはりイエスさまの予告どおりに、入れ替わりに聖霊が訪れて弟子たち一人一人の身体に宿りました。ですからイエスさまは、墓の中にいた三日間を除けば、十字架の前も後も、ずっと弟子たちと一緒にいることになります。イエスさま自身も伝道活動の中で、神さまの王国を待ち望みなさい、と言いながら、別の場所では、イエスさまを信じる人にはすでに神さまの王国は始まっている、とも言っています。

では弟子たちはいつ断食するのでしょうか。たとえばこのように考えることができると思います。いまから約2000年前、イエスさまがイスラエルに現れて福音を伝え始めました。イエスさまが地上にいた間、イエスさまと共にいた人たちは、婚礼の祝杯のような時間を共有したのです。でも弟子たちはその「婚礼」の意味を正しく理解しないままに祝杯をあげていたのです。やがてイエスさまは逮捕され十字架にかけられましたが、弟子たちは復活したイエスさまに会って、初めて福音の意味、十字架の意味を本当に正しく理解し、イエスさまはそれ以降、再び弟子たちと同じ時間を過ごすことになりました。

いまイエスさまの福音の意味を知らない人は、復活したイエスさまに会う前の弟子たちと同様、福音の真の意味を知り、自分の罪深さを思い知り、自分を嫌悪し、嘆き悲しむとき、旧約聖書の中のユダヤ人が「断食」したときのような心持ちを体験することになります。神さまに対して本当に申し訳ないと思い、頭を垂れて心から謝罪したいと思うような気持ちです。自分はクリスチャンだと思って長く教会に通っている人にも、ある日、目からウロコが落ちるように、本当の福音の意味がわかって、深い悲しみと神さまの慈悲の愛の深さの喜びに満たされることがあります。こういう人たちもこのときに「断食」を体験します。そしてイエスさまを真の意味で知った後も、自分の日々の行動の中に神さまに対して恥ずかしいと思う部分を見つけるたびに、情けなくなり、打ちのめされて、お祈りの中で神さまに謝罪して頭を垂れます。このときにはクリスチャンも「断食」を体験します。またクリスチャンの中には、旧約聖書の中のユダヤ人がそうであったように、神さまに悲痛な願いをするときに実際の断食をする人もいます。これがイエスさまの弟子たちがする断食なのではないかな、と私は思います。

最後に服に布で継ぎをあてる話とワインを革袋に詰める話が出てきます。穴の空いた古い服を修理するために新しい布を使って継ぎをあてると、新しい布が縮むに連れて古い服を引き裂いてしまう。まだ発酵を続けている新鮮なワインを、硬化して弾力を失った古い革袋(当時のワインの貯蔵方法)に入れると、発酵のガスで革袋が破れてしまう、というたとえです。イエスさまはこの二つのたとえ話で、イエスさまの伝える神さまの国の到来についての話が、伝統的なユダヤ民族の考え方とは異なるパラダイムで語られる、まったく新しい考え方なので、古い律法の解釈や口頭伝承されてきた慣習法のしきたりを尺度にして、善し悪しを計ることはできないのだ、と言っているのだと思います。







english1982 at 20:00│マタイの福音書 
マタイの福音書第9章第18節~第26節:イエスさまが信仰に応えて癒すマタイの福音書第9章第9節~第13節:イエスさまがマタイを呼ぶ