マタイの福音書第9章第14節~第17節:断食についての議論マタイの福音書第9章第1節~第8節:イエスさまが麻痺した男を癒す

2015年12月23日

マタイの福音書第9章第9節~第13節:イエスさまがマタイを呼ぶ

第9章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Calls Matthew

イエスさまがマタイを呼ぶ


9 As Jesus was walking along, he saw a man named Matthew sitting at his tax collector’s booth. “Follow me and be my disciple,” Jesus said to him. So Matthew got up and followed him.

9 イエスさまが歩いていくと、マタイという名前の人が収税所に座っているのが見えました。イエスさまはマタイに言いました。「私に着いてきて弟子になりなさい。」 そこでマタイは立ち上がり、イエスさまに着いていきました。

10 Later, Matthew invited Jesus and his disciples to his home as dinner guests, along with many tax collectors and other disreputable sinners.

10 後ほどマタイは、たくさんの徴税人やほかの評判の悪い罪人たちと一緒に、イエスさまと弟子たちを食事の客として自分の家に招きました。

11 But when the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with such scum?”

11 しかしファリサイ派の人たちはこれを見て、イエスさまの弟子たちにたずねました。「なぜあなた方の先生は、あんな人間のくずたちと食事をするのですか。」

12 When Jesus heard this, he said, “Healthy people don’t need a doctor -- sick people do.”

12 イエスさまはこれを聞いて言いました。「健康な人は医者を必要としません。病人が医者を必要とするのです。」

13 Then he added, “Now go and learn the meaning of this Scripture: ‘I want you to show mercy, not offer sacrifices.’ For I have come to call not those who think they are righteous, but those who know they are sinners.”

13 それからイエスさまは付け加えました。「さぁ、行って次の聖書の言葉の意味を学びなさい。『私はあなたにいけにえを捧げるのではなく、憐れみを示して欲しい。』 なぜなら私は自分たちが正しいと思う人たちではなく、自分たちが罪人だと知っている人たちを招くために来たのです。」




ミニミニ解説

今回はイエスさまがマタイを弟子に呼んだときの話です。今回と同じ記述は「マルコ」と「ルカ」にも見られます。いつものように、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は「マタイ」と「ルカ」が「マルコ」から採用したと考えられます。いつものように「マルコ」と「ルカ」のそれぞれの記述を見てみます。

「マルコ」は、Mark 2:13-17(マルコの福音書第2章第13節~第17節)です。「13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」 17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」([新改訳])。

「ルカ」は、Luke 5:27-32(ルカの福音書第5章第27節~第32節)です。「27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」 31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」([新改訳])。

明らかに同じ話なのに、弟子に呼ばれた人が「マルコ」「ルカ」では「レビ」になっています。オリジナルの「マルコ」に書かれている名前と、それを採用した「ルカ」で使われている名前がどちらも「レビ」なのですから、「マタイ」の記述者だけが「レビ」の名前を「マタイ」に置き換えたと考えられます。これについては「レビ」と「マタイ」は同一人物を指し、マタイは別名がレビだったのだ、という説明がされることもありますが、他にそれを裏付ける記述がありませんので、実際のところはわかりません。

イエスさまがカペナウムの町を歩いていると、「収税所」に座っている男が目に入りました。「収税所」は町の中に設けられていて、商売で売買される物品の取り引きにかかる税金や、道路や橋を通る人に課される通行税を集めるための徴税人が座っていた場所のようです。ローマ帝国はこの手のいわゆる間接税を集める徴税人をユダヤ人の中から入札で決定していました。ローマ帝国の募集に対して「自分はこれだけの間接税を納税できる」と金額を提示し、最高額を提示した人が徴税人に選ばれる仕組みです。

ローマ帝国から徴税人に任命されたら、提示額を期限までにローマ帝国に納めるのが徴税人の任務ですが、往々にしてこれらの徴税人は人々から入札額以上の税金を集め、余った分を自分の収入にしていたのです。ユダヤ人でありながら自分たちを征服したローマ帝国のために自国民からお金を集めて運ぶことを仕事にして、さらに「徴税」の名目で必要以上のお金をかすめ取って私腹を肥やすようなことまでしていたので、徴税人は最低の罪人として人々から蔑まれ、ユダヤ人のコミュニティからつまはじきにされていました。これはローマ帝国の巧妙な属国支配の作戦です。民衆の怒りをユダヤ人の中で吸収させることで、直接の怒りがローマ帝国に向かないようにすり替えているのです。

イエスさまはそんな男にわざわざ声をかけて、「私に着いてきて弟子になりなさい」と言ったのです。これは大変ショッキングな出来事です。イエスさまの周囲にいた人たちからすれば、イエスさまはこともあろうに徴税人に声をかけ、それどころか弟子になるように招いたのです。どうしてそんなことをするのだろうといぶかったはずです。徴税人はユダヤ人が一番関わり合いになりたくない人たちの部類なのですから。

声をかけられたマタイはすぐにイエスさまに着いていきます。自分で選んだ道とは言え、ユダヤ人のコミュニティで誰からも相手にされなかったであろうマタイは、あろうことか、いま町の噂を独り占めにしているイエスさま本人から声をかけられ、弟子になるようにと誘われたのです。感激して飛び上がって着いていったのではないでしょうか。

マタイは喜びのあまりか、イエスさまを自宅に食事に招きます。マタイは徴税人なので、ユダヤ人からは相手にされませんから、一緒に食事をするのは同じ徴税人の仲間や、他にもコミュニティから村八分にされているようなそんな嫌われ者ばかりです。ファリサイ派の人たちはそれを見て、「なぜあなた方の先生は、あんな人間のくずたちと食事をするのですか」と厳しく批判しました。ユダヤ人は「汚(けが)れ」を嫌い、恐れます。何が人を汚すかは、旧約聖書の中の律法書に記載されているほか、イエスさまの時代にはそれに加えて口頭伝承されてきた慣習法も同じように重視されていました。ユダヤ人から必要以上のお金を巻き上げて私腹を肥やす徴税人の行為は、考え方によっては泥棒に等しいですから、その人たちと行動を共にすること、その人たちの家に入ること、その人たちと食事をすることは、すべて律法上の「汚れ」と解釈されるのです。ファリサイ派は律法の先生として人々に聖書を教える権威を持ち、自分たちだけが律法のすべてを守り、神さまの目に正しく映る純白無垢の存在だと自負していた人たちですから、イエスさまの行動はまったく許容できません。

ファリサイ派の批判に対するイエスさまの言葉は、「健康な人は医者を必要としません。病人が医者を必要とするのです」です。「健康な人」と言うのは「自分は健康だと思う人」のことです。そういう人は医者の必要性を感じません。逆に「なんだか調子が悪いな、もしかしたら病気かな」と自分の不調を自覚する人が、「心配だから医者に診てもらおうかな」と医者の必要性を感じるのです。

イエスさまの言葉の最後にありますが、「自分は正しい」と自負する人は誰からの助けもいらないのです。自分はなんだかまずいと思う、このままでは自分は良くないと思う、怖い、不安だ、どうしたらよいかわからない、そういう自覚のある人が神さまにすがるのです。

イエスさまが「行って聖書の言葉の意味を学びなさい」として旧約聖書から引用しているのは、Hosea 6:6(ホセア書第6章第6節)です。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」([新改訳])。「いけにえ」は旧約聖書の律法に定められたユダヤ人の義務です。が、ここに預言者ホセアが神さまから預かった言葉として書かれているのは「神さまはいけにえよりも誠意を喜ぶ」という言葉です。たとえ律法どおりに「いけにえ」を捧げても、正しい心で捧げなければ意味をなさないのです。イエスさまはファリサイ派の行動は誠意の伴わない、表面的な偽善である、と批判しているのです。そして徴税人と同じテーブルで食事をするイエスさまの行動は、律法に反しているように見えても、誠意ある行動として神さまの目に正しく映っているのです。







english1982 at 21:00│マタイの福音書 
マタイの福音書第9章第14節~第17節:断食についての議論マタイの福音書第9章第1節~第8節:イエスさまが麻痺した男を癒す