マタイの福音書第8章第28節~第34節:イエスさまが悪魔に取り憑かれた二人の男を癒すマタイの福音書第8章第18節~第22節:イエスさまに従うことの代償

2015年12月24日

マタイの福音書第8章第23節~第27節:イエスさまが嵐を静める

第8章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Calms the Storm

イエスさまが嵐を静める


23 Then Jesus got into the boat and started across the lake with his disciples.

23 それからイエスさまは舟に乗り、弟子たちと共に湖を横切り始めました。

24 Suddenly, a fierce storm struck the lake, with waves breaking into the boat. But Jesus was sleeping.

24 突然、激しい嵐が湖を襲い、波が船の中に入ってきました。しかしイエスさまは眠っていました。

25 The disciples went and woke him up, shouting, “Lord, save us! We’re going to drown!”

25 弟子たちは行って、「主よ、私たちを助けてください。溺れてしまいます!」と叫びながらイエスさまを起こしました。

26 Jesus responded, “Why are you afraid? You have so little faith!” Then he got up and rebuked the wind and waves, and suddenly there was a great calm.

26 イエスさまは答えました。「なぜ怖がるのですか。あなた方の信仰はなんと小さいのでしょう。」 それからイエスさまは起き上がり、風と波を叱りつけました。すると突然、無風状態になりました。

27 The disciples were amazed. “Who is this man?” they asked. “Even the winds and waves obey him!”

27 弟子たちは驚いて言いました。「この人はいったい誰なのだろう。風や波までもがこの人に従うとは。」




ミニミニ解説

前回までガリラヤ湖北岸の町、カペナウムで伝道活動をしていたイエスさまは、自分のまわりに集まってくるたくさんの群衆を見て、弟子たちにガリラヤ湖の反対側へ渡るとの指示を出しました。

ガリラヤ湖はイスラエル北部にある湖です。南北に20キロ、東西に13キロ程度の大きさの淡水湖です。地図で見るとわかりますが、アラビアからアフリカまで南北に走る巨大な谷があり(ヨルダン大峡谷帯)、その谷底を流れて死海に注ぎ込むのがヨルダン川です。ガリラヤ湖はこの峡谷の谷底が深くえぐれたところに水がたまってできた湖です。成り立ち上、湖面は東西が切り立った崖になっていて、谷の上の高地から強烈な風が崖を吹き下ろして来ると湖面が突然荒れます。ですので、今回描かれているような突然の嵐はガリラヤ湖では珍しいことではありません。十二弟子のうちペテロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟はカペナウム出身でガリラヤ湖の漁師ですから、漁の最中、このような嵐に見舞われることには慣れているはずです。逆に言えば、慣れている漁師たちでさえ、ガリラヤ湖の嵐を危険視していると言うことです。

今回と同じ記述は、「マルコ」と「ルカ」にも見られます。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は「マタイ」と「ルカ」が「マルコ」から採用したと考えられます。

「マルコ」は、Mark 4:36-41(マルコの福音書第4章第36節~第41節)です。「36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」 39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」([新改訳])。

「ルカ」は、Luke 8:22-25(ルカの福音書第8章第22節~第25節)です。「22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」([新改訳])。

漁師さえもが恐れる突然の嵐の中で、イエスさまは眠っています。どうやらイエスさまは周囲の状況がどれほど荒れても、それを気にかけたり、心配したりすることはないようです。逆に、うろたえる弟子たちには「なぜ怖がるのですか。あなた方には信仰がないのですね」と言っていますから、イエスさまの心の平安を支えているのは神さまに対する信仰なのです。不安や心配が心を占めることが後を絶たないので、「自分の信仰は弱い」「自分は信仰が薄い」と悩む人は多いようです。イエスさまは嵐の中にあっても神さまを信じて眠ることができます。この嵐は、私たちの周囲を吹き荒れる別の意味での嵐の比喩なのかも知れません。自分の周囲の環境や状況がどれだけ荒れても、神さまを信じて心の平安を保つことができる、それほどの強い信仰をイエスさまは弟子たちに見せているのです。

嵐に翻弄される船の中で大騒ぎする人々を見て、あるいは先行きの見えない暗く荒れた環境の中で、失望したり、心配したり、うろたえる人々を見て、神さまは、そんなに自分を信用できないのか、とガッカリされていることでしょう。神さまは私たちが、どんな状況下でもイエスさまのように心の平安を保ち、心に希望の光を宿している姿を望まれているのです。ですが世の中のいったい誰がイエスさまほどの信仰を持てると言うのでしょうか。旧約聖書の中ではモーゼに率いられてエジプトから脱出したユダヤ民族が、数々のとてつもない奇跡を、自分たちの目で繰り返し目撃しながら、次の日にはもう不平不満を漏らして神さまの怒りを買います。新約聖書ではイエスさまの伝道活動に最後まで同行し、イエスさまの話を直接聞き、イエスさまの数々の奇跡を目の前で目撃した弟子たちが、イエスさまの逮捕の際には自分の命惜しさに散り散りになって逃げ出しました。

モーゼやイエスさまと直に接した人たちでさえ、こうなのです。いまを生きる私たちには神さまをガッカリさせないほどの信仰を持つことなど、そもそも不可能なのです。神さまの意志に背くこと、神さまをガッカリさせることを「罪(sin)」と呼び、罪は神さまから見て「汚(けが)れ」なのです。汚れにまみれた私たちは、神さまの国である神聖な天国には入れません。だから私たちには、神聖な神さまと、汚れた私たちの間の橋渡しをしてくださる救世主が必要なのです。だから、イエスさまの「なぜ怖がるのですか。あなた方には信仰がないのですね」の言葉は、「信仰の弱さを恥ずかしく思え」と言う叱咤の言葉として真摯に受け止め、たとえば旧約聖書のモーゼやヨシュアやカレブやエリヤのように、勇気を出して前向きに生きようと考えても良いですし、あるいは謙虚に神さまに自分の弱さを謝罪して、自分には救世主が必要だと素直に認め、神さまの側からイエスさまが送られたことについて改めて感謝して、神さまを崇拝し賛美しても良いのです。どちらも人がただ神さまだけにすがり、神さまを尊び拝む姿になっていることには変わりありません。私個人は後者の方が多いと思います。







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