マタイの福音書第8章第23節~第27節:イエスさまが嵐を静めるマタイの福音書第8章第14節~第17節:イエスさまがたくさんの人を癒す

2015年12月24日

マタイの福音書第8章第18節~第22節:イエスさまに従うことの代償

第8章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Cost of Following Jesus

イエスさまに従うことの代償


18 When Jesus saw the crowd around him, he instructed his disciples to cross to the other side of the lake.

18 イエスさまは自分のまわりの群衆を見て、弟子たちに湖の反対側へ渡るように指示しました。

19 Then one of the teachers of religious law said to him, “Teacher, I will follow you wherever you go.”

19 するとひとりの律法学者がイエスさまに言いました。「先生、私はあなたのおいでになる所なら、どこへでもついて行きます。」

20 But Jesus replied, “Foxes have dens to live in, and birds have nests, but the Son of Man has no place even to lay his head.”

20 しかしイエスさまは答えて言いました。「狐には住む穴があり、鳥には巣があります。しかし、人の子には頭を横たえる場所さえありません。」

21 Another of his disciples said, “Lord, first let me return home and bury my father.”

21 別のひとりの弟子が言いました。「主よ、まず家に帰って父を埋葬させてください。」

22 But Jesus told him, “Follow me now. Let the spiritually dead bury their own dead.”

22 しかしイエスさまは彼に言いました。「いま私について来なさい。死人は、霊的に死んだ人たちに葬らせればよいのです。」




ミニミニ解説

イエスさまはイスラエル北部のガリラヤ湖の北岸にあるカペナウムの町で伝道活動をしていました。イエスさまがたくさんの人の病を癒し、悪霊を追い出し、権威のある話をして人々を魅了すると、噂は周辺一帯の地域にまで広まり、たくさんの人がイエスさまのまわりに集まって来ていました。イエスさまは自分の回りに集まる群衆を見て、弟子たちにガリラヤ湖の反対側へ渡るとの指示を出しました。本拠地であるカペナウムを出て、別の地域で伝道活動を行うのです。

イエスさまに従っていた律法学者が「どこへでも着いていきます」との意思表明をすると、イエスさまは「狐には住む穴があり、鳥には巣があります。しかし、人の子には頭を横たえる場所さえありません」と告げました。イエスさまに従って伝道の旅に着いて来る、と言うのであれば、その日に寝るところさえ定まらないかも知れない、それくらいの覚悟で着いてきなさい、と告げているのです。ちなみにここで使われた「人の子(Son of Man)」と言う言葉は、イエスさまが話をするときに自分を指してよく使った言葉です。当時のユダヤ人は「人の子」というフレーズを聞くと、旧約聖書の「ダニエル書」にある以下の箇所を連想したはずです。Daniel 7:13-14(ダニエル書第7章第13節~第 14節、「13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」([新改訳])。これは預言者ダニエルが見た幻です。その中で「人の子」は天から雲に乗って現れ、国と権力が与えられて、永遠に滅びることのないその国を支配することになります。

もう一人の弟子は、「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と願い出ます。父が亡くなったので埋葬を済ませなければイエスさまに着いて行けない、と言い訳をしているのです。イエスさまは「いま私について来なさい。死人は霊的に死んだ人たちに葬らせればよい」と、この弟子の願いを却下します。「霊的に死んだ人(the spiritually dead)」は、[KJV]では単に「死人(the dead)」と書かれていますから、ここは「いますぐ着いて来なさい。死人は死人に葬らせればよいから」と言ったことになります。これはどういう意味でしょうか。

この章の第11節にはイエスさまの言葉として「世界中からたくさんの異邦人が来ます。東からも西からも。そして天の王国の祝宴で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に席に着くのです」と書かれていました。イエスさまの時代のユダヤ人のコミュニティで広く信じられていた(そしていまも信じられている)「終末論」の中では、旧約聖書の中で、いまから2000年も前に死んで葬られたことになっている、アブラハム、イサク、ヤコブが、これから将来のどこかのタイミングで、天国へ迎えられる人たちと共に宴席に着くのです。つまりイエスさまの語る「神さまの王国」の伝道では、天国へ迎えられる人に「死」は存在しないことになります。

イエスさまが「死人は死人に葬らせればよい」と言うときの、埋葬をする側の死人とは、天国へ入れないことが決まっている人たちのことです。神さまら見て「汚(けが)れている」と言う理由で天国へ迎えられない人は、最後の裁きの後で「いのち」から切り離されて地獄へ堕とされます。この人たちは私たちの目にはいま生きているように見えても、神さまから見ればすでに死人なのです。だから「死人は死人に葬らせればよい」ということになります。一方で、私たちが遠い昔に死んだと思っているアブラハム、イサク、ヤコブは神さまの目から見れば生きていることになります。これから神さまの王国の伝道活動に着いて行きたいと願い出る以上は、人々に一般に信じられている死とは違う次元の話を説いていくのだから、「まず家に帰って父を埋葬させてください」などとは言うな、と言うのです。

しかし、ここでは本当に死んだ自分の親の葬儀をほったらかしにして、イエスさまに着いていくことが求められているのでしょうか。私個人はそれは違うと思います。おそらくこの弟子は眠る場所さえおぼつかず、保守的なユダヤ人からの迫害を免れない、そんな大きな苦難が待ち受ける伝道の旅に怖じ気づいて、なんとかカペナウムに残れないだろうか、と考えて、イエスさまに言い訳をしたのだと思います。イエスさまは多くの弟子たちの前で、弟子たちに覚悟を決めさせるため、この弟子の言い逃れを引き合いに出して、「死人は死人に葬らせればよい」と言ったのだと思います。

今回と同じ話は「ルカ」にも見られます。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」に共通の今回の部分は、イエスさまの語録集である「Q資料」から採用されたと考えられます。「ルカ」の同一箇所は、Luke 9:57-62(ルカの福音書第9章第57節~第62節)です。「57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」 58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」  60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」 61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」 62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」([新改訳])。

「ルカ」では三人目の弟子が登場して、「家の者にいとまごいに帰らせてください」と願い出ています。この人は、もしかするとカペナウムではなくて近隣の村から来た人で、出発する前に家族に別れを告げさせてくれ、と言うのです。イエスさまは、それは「手を鋤(すき=農具)につけてからうしろを見る」ような行為であり、神さまの国にふさわしくない、とまで言っています。私はこのエピソードも、イエスさまが冷酷に家族との別れをも禁じていると取るのではなく、二番目の人と同様、伝道の旅に怖じ気づいて逃げ出すための口実を持ち出した弟子に対して厳しく接することで、弟子たち全員に覚悟を迫ったのだと思います。

私は今回の部分を読んで、以前教会で「自分は妻よりも子供よりもイエスさまを愛している」と言う牧師さんや信者の話を聞いて、そんなことがありえるものか、教会とはそんなことを教えているのか、と反感を持ったことを思い出しました。が、後から考えると私は「自分は妻よりも子供よりもイエスさまを愛している」と言う言葉を、「自分は妻よりも子供よりも教会を愛している」と取り違えていたのでした。彼らが「妻よりも子供よりも」愛すると言っている対象は「イエスさま」であって、牧師さんや教会のクリスチャンの仲間ではありません。自分が忠誠を尽くす対象はイエスさまなのです。もしここで「イエスさま」と言う言葉がしっくり来ないのであれば、ここで言われるイエスさまは三位一体の教義で、神の一つの位相としてのイエスさまのことですから、「神さま」と同格です。ですのでこの言葉を言い換えれば、「自分は妻よりも子供よりも神さまを愛している」と言うことになります。いまこの瞬間、自分が愛する配偶者や子供と時間や空間を共にできる幸せ、それはすべて、この世の中を創造し、いまも支配し続ける王としての神さまがいるからです。配偶者や子供を愛することの大前提が、主である神さまの存在なのです。何よりも神さまを褒め称え、何よりも神さまに感謝する気持ちが優先しなければ信仰は成り立ちません。それがクリスチャンの「自分は妻よりも子供よりもイエスさまを愛している」と言う言葉になるのです。真に褒め称え、忠誠を尽くすべき相手は神さまただひとりであって、教会はそのための手段のひとつです。今回の話でも、イエスさまが弟子たちに求めているのは、すべてに優先させて神さまを褒め称え、神さまに感謝する気持ちなのです。








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