マタイの福音書:第8章マタイの福音書第7章第21節~第23節:本当の弟子

2015年12月25日

マタイの福音書第7章第24節~第29節:強固な地盤の上に建てる

第7章






(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Building on a Solid Foundation

強固な地盤の上に建てる


24 “Anyone who listens to my teaching and follows it is wise, like a person who builds a house on solid rock.

24 「私の教えを聞いてそれに従う者はみな賢明です。ちょうど固い岩の上に家を建てる人のようです。

25 Though the rain comes in torrents and the floodwaters rise and the winds beat against that house, it won’t collapse because it is built on bedrock.

25 どしゃ降りの雨が降り、洪水が押し寄せ、風が打ちつけても、その家は倒れません。なぜならその家は岩の上に建てられているからです。

26 But anyone who hears my teaching and doesn’t obey it is foolish, like a person who builds a house on sand.

26 ですが、私の教えを聞いてそれに従わない者はみな愚かです。ちょうど砂の上に家を建てる人のようです。

27 When the rains and floods come and the winds beat against that house, it will collapse with a mighty crash.”

27 雨と洪水が来て、風が打ちつけると、ものすごい音を立てて倒壊します。」

28 When Jesus had finished saying these things, the crowds were amazed at his teaching,

28 イエスさまはこれらのことを語り終えると、群衆はその教えに驚きました。

29 for he taught with real authority -- quite unlike their teachers of religious law.

29 それはイエスさまが本当の権威をもって教えたからです。それは律法の先生たちとは大違いなのでした。




ミニミニ解説

第5章からスタートしたイエスさまの「山の上の説教(The Sermon on the Mount)」は今回の部分で終了です。これはイエスさまの締めくくりの言葉になります。同じ内容が「ルカ」にも見られます。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は「マタイ」と「ルカ」に共通ですから、イエスさまの説教を集めた「Q資料」に含まれていた話と言うことになります。

「ルカ」に見られる同内容の部分はLuke 6:47-49(ルカの福音書第6章第47節~第49節)です。「47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」([新改訳])。

イエスさまの締めくくりのメッセージは明快です。人が「賢明」か、あるいは「愚か」かは、イエスさまの話を聞いて、それを実行に移すかどうかで、分かれるのです。イエスさまの教えを実践する人は賢明、実行に移さない人は愚か、と書かれています。では「賢明」であるためには具体的に何を実行すればよいのか、と言うことになりますが、それは第5章から第7章を読み返してみればわかるのですが、私は基本的に「イエスさまの言葉を実践する」とは、「いつも神さまの目を意識して生きる」ことだと思っています。

自分の行動を、自分の言葉を、そして自分の心をご覧になった神さまは、果たしていま喜んでくださっているだろうか、あるいはガッカリされているだろうか、といつも意識して生きることです。ただ、できるだけ神さまを喜ばせるような生き方をしたいと心がけているのですが、正直言って、私は神さまをガッカリさせてばかりなので、それを大変申し訳なく思っています。ですが私は神さまの導きや、守りや、祝福を毎日受けていることを感じます。ときには奇跡と呼んでいいようなことさえ起こります。私のような愚か者にそうやって目をかけてくださる神さまに心から感謝します。

私は、Luke 18(ルカの福音書第18章)で、エルサレムの寺院に祈りを捧げに行った取税人の話が好きです。登場するのは人々からの称賛と支持を集めていた律法の先生であるファリサイ派の一人と、ローマ帝国の手先となって人々から税を取り立てて私腹を肥やし、人々から汚らわしい存在として忌み嫌われていた取税人です。Luke 18:9-14(ルカの福音書第18章第9節~第14節)です。「9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10 ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」([新改訳])。

神さまが「義」、つまり正しいと認めたのは、自分を罪人だと、つまり神さまの期待を裏切ってばかりの存在だと認め、その恥ずかしさに顔も上げられず、自分の胸を叩いて苦悶しながら、神さまに憐れみを乞う人です。周囲がどのように評価するかとはまったく関係なく、自分が神さまの目にどのように映るかだけを意識して、申し訳ない、情けない、恥ずかしいと苦悶し、神さまに憐れみを乞う人が義とされています。私もこれを読み、自分の立場を忘れず、いつも神さまを褒め称えて感謝し、そして私の罪を許していただけるように憐れみを乞うて生きていきたいと思っています。

第28節によると、人々はイエスさまの話を聞いて大変驚いたのでした。その理由はイエスさまの教え方が、いつも会堂で自分たちに聖書の律法を教えてくれるファリサイ派の聖書の先生たちと異なり、人々はそこに「権威」を感じたからと書かれています。「権威(authority)」は新明解国語辞典では「ずば抜けた実力や すぐれた判断力の累積によって支えられた、他を威圧し、追随せしめる人がただよわせる雰囲気。また、そのような雰囲気をただよわせる人」と書かれています。臨場感のあるとても良い定義だと思います。イエスさまの話を聞いた人たちは、イエスさまの言葉の中にただならぬ雰囲気や力を感じて、この人について行きたい、もっとこの人の話を聞きたいと思ったのです。それはファリサイ派が律法の遵守の表面的な意味を、ファリサイ派の視点で人々を見下すように語ったのに対し、イエスさまは律法が神さまによって与えられた意味や意図を、人間を愛する神さまの視点から語ったからでしょう。人々はこれこそが聖書の本当の意味だったのだと深く納得したのでしょう。









english1982 at 16:00│マタイの福音書 
マタイの福音書:第8章マタイの福音書第7章第21節~第23節:本当の弟子