マタイの福音書第7章第24節~第29節:強固な地盤の上に建てるマタイの福音書第7章第15節~第20節:木と果実

2015年12月25日

マタイの福音書第7章第21節~第23節:本当の弟子

第7章





(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


True Disciples

本当の弟子


21 “Not everyone who calls out to me, ‘Lord! Lord!’ will enter the Kingdom of Heaven. Only those who actually do the will of my Father in heaven will enter.

21 「主よ、主よ」と私に大声で呼ぶ者がみな天の王国に入るのではありません。天の私の父の意志を実際に行う者だけが入るのです。

22 On judgment day many will say to me, ‘Lord! Lord! We prophesied in your name and cast out demons in your name and performed many miracles in your name.’

22 裁きの日には多くの人が私に言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によってたくさんの奇蹟を行ないました。」

23 But I will reply, ‘I never knew you. Get away from me, you who break God’s laws.’

23 しかし私はこのように応えます。「私はあなた方を知らない。神さまの律法を破る者ども、私から立ち去りなさい。」




ミニミニ解説

今回の部分は「本当の弟子(True Disciples)」とタイトルされていて、イエスさまが、「主よ、主よ」と私に大声で呼ぶ者がみな天の王国に入るのではありません、と宣言する形で始められています。この章の始めのところで「三位一体(さんみいったい)」について説明しました。これは、父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三者は、三つがばらばらであるようで実は一体の神さまなのだ、という考え方です(「カフェオレ」を例にあげて説明しました)。この考え方に基づくと、イエスさまは神さまであり、人は神さまを拝むのと同じ様にイエスさまをも拝むことになりますし、イエスさまは一人一人の人を、天国へ迎えるのか、地獄へ堕とすのか、その最後の裁きの権限も有することになります。これがイエスさまを「主よ、主よ」と呼ぶ理由です。第21節でイエスさまは、自分を「主よ、主よ」と呼ぶ者がみんな天国に入れるわけではなくて、「天の私の父の意志を実際に行う者だけが入る」と言っています。

次の第22節では「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によってたくさんの奇蹟を行ないました」と言う人が、裁きの日にたくさん現れると書かれています。「裁きの日」と言うのは何度か書いてきているように、当時のユダヤ人を中心としたコミュニティで少なからず信じられていた(そしていまも信じられています)「終末論」に基づく考えです。これから先の未来のある日、「最後の日」がやって来て、そのときには神さまがすべての人間に有罪か無罪かの判決を下します。そこで有罪の判決を受けた者は地獄へ堕とされ、無罪の判決を得た者は神さまのいる天国へ迎えられるのです。

三位一体に基づく終末論では最後の裁きを行う裁判官はイエスさまです。新約聖書の中では十字架死のあと復活されたイエスさまは一度天に戻り、神さまの右の座に着きましたが、イエスさまは未来のある日にもう一度戻って来ることを約束していて、その再来(英語で「Second Coming」と言います)の目的の一つが最後の審判なのです。その裁きの席で、裁判官であるイエスさまに対して「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によってたくさんの奇蹟を行ないました」と申し開きをする人がたくさん現れると言うのです。これに付け加えるとすると、この人たちは「だから私を天国へ入れてください」と言いたいのです。

「あなたの名によって」と言うのは、たとえば研究社の英和中辞典で「name」を引くと、「in the name of...」のところに、(2) ...の名において、...の権威にかけて、「in the name of the law(法の名において)」、「commit wrongs in the name of justice(正義の名において悪事を働く)」、と書かれているように、「神としてのイエスさまの権威で」と言う意味です。

またたとえば、John 14:13-14(ヨハネの福音書第14章第13節~第14節には「13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」([新改訳])と書かれていて、イエスさまを信じる者が「イエスさまの名によって」願うことは、それが神さまの意志に沿うものとして、天で神さまの右の座に着くイエスさまがそれを必ず実行してくださるのです。だからイエスさまの名によって行う「預言」(=神さまのメッセージを伝えること)や、「除霊」(サタンの配下にある悪霊を人から追い出すこと)や、「奇跡」(「癒し」に代表される超常的な施術)は、神さまの意志として必ず実現するとされていたのです。

イエスさまは裁きの日には、そういう主張をする人がたくさん現れると言っています。ところがイエスさまによると、「主よ、主よ」とイエスさまを大声で呼ぶ者がみな天国に入れるのではないし、それどころか、第23節ではイエスさまから「私はあなた方を知らない。神さまの律法を破る者ども、私から立ち去りなさい。」と突き放されてしまう人が少なからずいる、と言うのです。

今回の部分と同様の内容は「ルカ」にも見られます。前々回に読んだ第13節と第14節に書かれていた「狭い門」に続く部分ですので連続して読んでみます。Luke 13:23-27(ルカの福音書第13章第23節~第27節)です。「23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』 27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』」([新改訳])。いつもの「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は「マタイ」・「ルカ」に共通の内容なのでイエスさまの語録集である「Q資料」から来ていることになりますが、内容が若干異なります。

「マタイ」が「道」と「門」でたとえた部分が、「ルカ」では「門」と「戸」で書かれています。戸を閉めた「主人」に対して、人が「ご主人様、開けてください」と懇願しますが、「主人」は「あなたがたがどこの者か、私は知らない。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい」と突き放しています。「ルカ」を読んだだけでは、この「主人」が誰なのかはわかりません。この話を聞いてユダヤ人が普通に頭の中に思い浮かべるのは「最後の裁き」の場面であり、その場合の裁判官は「神さま」です。「マタイ」ではイエスさま自身が「『主よ、主よ』と私に大声で呼ぶ」「私はあなた方を知らない」「私から立ち去りなさい」と「私」の視点で発言していますから、おそらくオリジナルのイエスさまの発言に近い「ルカ」の言葉に、「マタイ」では独自にイエスさまを神格化する「三位一体」の考え方を構成したと考えられます。

また「ルカ」では主人に懇願する人たちが「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました」と言っていますが、「マタイ」ではここが「預言」「除霊」「奇跡」の行為に置き換えられています。これを合わせて考えると、イエスさまの福音を伝える「マタイ」の教会の周辺で、イエスさまの名前を使って「預言」「除霊」「奇跡」を行う人たちがたくさん現れ、その人たちが伝える「福音」の考え方が「マタイ」の教会の考え方とは異なっていたのだと思われます。前回はそれが「にせ預言者(false prophets)」に気をつけろ」と言う警告文になって現れ、「にせ預言者」は「振る舞い」や「行動」によって見分けることができる、と書いていました。今回もイエスさまは「神さまの律法を破る者ども、私から立ち去りなさい」と結んでいますので、これらの「にせ預言者」の行動は律法の観点から見て、「マタイ」の教会が考える「あるべき姿」から逸脱しており、そこについて大いに警戒していたのでしょう。

「ルカ」と「マタイ」で書き口が異なるとは言え、オリジナルのイエスさまの言葉に近いと考えられる「ルカ」からも明らかなのは、自分はどう考えても神さまの目に正しく映っている、だから天国に迎えられると考えている人が、最後の裁きの席で神さまから「あなた方がどこの者か私は知らない。不正を行なう者たち、みな出て行きなさい。」と言われてしまう、そういうことが起こる、と言うことです。ポイントは有罪と無罪、地獄行きと天国行きを決めるのは自分ではなく、裁判官であり王である神さまであること、聖書で言う「罪(sin)」は、私たちの考える「犯罪(crime)」とは異なり、「罪(sin)」は「神さまの期待を裏切ること」「神さまをガッカリさせること」だと言うこと、そしてそういう観点ではあらゆる人間が神さまの期待を裏切っているのだから有罪であり、つまり人間全員が地獄行きだと言うことです。だから「自分はどう考えても神さまの目に正しく映っている、だから天国に迎えられる」と考えている時点でアウトである可能性が高いのです。もともと有罪の人間をわざわざ無罪扱いにして天国へ迎えると言うことは、そこで神さまによる「許し」が行われたと言うことです。だとしたら、その「許し」の意味を正しく理解して神さまに心から感謝し、本来なら自分が受ける理由のない「許し」が自分のような人間に与えられたことを申し訳なく思って反省し、だとしたら神さまのために自分に何ができるかを謙虚に考えてそれを実行に移すべきだと思います。それが神さまの意志を行うことになるのではないか、と思います。







english1982 at 17:00│マタイの福音書 
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