マタイの福音書第7章第21節~第23節:本当の弟子マタイの福音書第7章第13節~第14節:狭い門

2015年12月25日

マタイの福音書第7章第15節~第20節:木と果実

第7章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Tree and Its Fruit

木と果実


15 “Beware of false prophets who come disguised as harmless sheep but are really vicious wolves.

15 害のない羊に変装してやってくるにせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは実は悪意のある狼なのです。

16 You can identify them by their fruit, that is, by the way they act. Can you pick grapes from thornbushes, or figs from thistles?

16 あなた方は果実によって彼らを見分けることができます。それはつまり彼らの振るまい方からです。あなた方はいばらからぶどうを、あるいはあざみからいちじくを摘み取ることができますか?

17 A good tree produces good fruit, and a bad tree produces bad fruit.

17 良い木は良い果実を生みます。悪い木は悪い実を生みます。

18 A good tree can’t produce bad fruit, and a bad tree can’t produce good fruit.

18 良い木は悪い実を生むことはできないし、悪い木は良い実を生むことはできません。

19 So every tree that does not produce good fruit is chopped down and thrown into the fire.

19 それで良い実を結ばない木はすべて切り倒されて火に投げ込まれます。

20 Yes, just as you can identify a tree by its fruit, so you can identify people by their actions.

20 そうです。あなた方が果実を見て木を見分けることができるように、行動によって人を見分けることができるのです。




ミニミニ解説

今回の部分は「にせ預言者(false prophets)」に気をつけろ、と言う警告文で始まっています。聖書で言う「預言者」は、私たちが一般に言う「予言者」とは異なり、神さまの言葉を預かって話す人のことです。神さまは預言者に「将来起こること」を話させることもありますから、そのときには「預言」が「予言」を含むことになります。

福音書が書かれた当時(それはイエスさまの十字架死~復活の後、30~40年ほど経った頃です)、ユダヤ人のコミュニティを巡回して話をする預言者が数多く存在したようです。たとえば十二使徒に代表されるイエスさまの弟子たちも、「使徒の働き(Acts)」の冒頭部分で、ひとりひとりに聖霊が宿るシーンが描かれています。イエスさまの弟子たちも聖霊の宿りを経て、神さまの霊の力を借りて神さまの言葉を伝えているのですから、やはり預言者になります。彼らは迫害が強まるに伴って順次エルサレムを離れ、パレスチナ内外のユダヤ人や異邦人のコミュニティを巡回してイエスさまについての福音を伝えていました。そうやってパレスチナ周辺を巡回していたのはイエスさまの弟子たちばかりでなく、当時はいろいろな「信仰観」を持つ人たちが、それぞれ自分たちの信じる道を伝えて人々を指導していたのです。その様子は「使徒の働き(Acts)」やパウロの書簡などにも描かれています。

ところで「預言者」は神さまの霊の力を借りて神さまから預かった言葉を伝える人のことなのですが、ある預言者が本当に神さまの言葉を預かって話しているのか、ただそのように主張しているだけで本当は嘘をついているのか、あるいは本人は霊に導かれているつもりで話していても実際は本人の思いこみなのか、これを第三者が見極めるのは困難です。ですが「マタイ」は「にせ預言者に気をつけろ」と警告を発し、にせ預言者は羊の皮をかぶっているが内面は悪意のある狼だとまで言っています。と言うことは「マタイ」の教会から見て、これほどの警告を発しなければならないほどの「危険な教え」を伝える預言者が存在していたと言うことです。

第16節で「マタイ」は、「にせ預言者」を見分ける方法は「果実(fruit)」であり、その「果実」とは「彼らの振るまい(the way they act)」だと書いています。が、それがいったいどのような振る舞いなのかまでは具体的に書いてありません。

今回の部分と似た記述は「ルカ」にも見つかります。Luke 6:43-45(ルカの福音書第6章第43節~第45節)です。「43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」([新改訳])。「良い木は良い実を産し、悪い木は悪い実を生む」「いばらからぶどうは採れず、あざみからいちじくは採れない」と言う内容は「マタイ」と「ルカ」に共通していますから、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」から取られたものとして考えられます。

ところが「ルカ」にはこの前後に「にせ預言者を警戒せよ」という言葉は見あたりませんので、「マタイ」は独自の判断で、イエスさまの「良い実・悪い実」の話を「にせ預言者を警戒する話」の中に織り込んで構成したのかも知れません。「マタイ」の教会はパレスチナ周辺で、救世主イエスさまに関する福音を伝えていましたが、そのときに出会った人たちの中に「間違った解釈の福音」を伝える人たちがいて、そのことを警告する必要を強く感じていたのかも知れません。しかし考えてみれば、十字架刑に会う前のイエスさまが弟子たちに話をしている場面で、イエスさま自身が「間違った福音を伝える、にせの預言者に気をつけろ」と言うのは不自然です。ですので、具体的な「悪い実」への言及を避けながら、「にせ預言者に警告せよ。預言者は良い実・悪い実で見分けよ」と構成したのかも知れません。

「ルカ」は、判断基準となる「実」とは「倉から出てくる物」であり、「人の口は心に満ちているものを話す」として、つまりその人の話す言葉の内容が、その人の心であり、「実」である、と言う書き方をしています。私自身も、自分の話す言葉を自分の耳で聞いて、「なんで自分はこういう言い方をしてしまうのだろう」とか、「なんで自分はこんなことを言ってしまったんだろう」とガッカリすることがたくさんあります。が、それはつまり私がそう言う人間だから、そういう心の持ち主だからに他ならず、言い間違いでもなんでもないのです。私自身でさえコントロールできない深層の心を映した言葉が、そのまま口から出てくるのだと思います。

「ルカ」のこの部分はMatthew 15:18~19(マタイの福音書15章第18節~第19節)のあたりを思い起こさせます。イエスさまがペテロとの問答の中で語る言葉です。「18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。 19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」([新改訳])。ここではイエスさまは具体的な例をあげて、「口から出るもの」は、すなわち「心から出るもの」であり、「その人を汚す」としています。たいそうな単語が並んでいますが、福音書的な解釈をすれば、悪い考え、殺人(=人を憎いと言う言葉)、姦淫(=倫理的に許されない肉欲から出る言葉)、不品行(=不道徳)、盗み(=他の人の持ち物を欲しがる言葉)、偽証(=うそ)、ののしり(=他の人への文句)となります。これらはみんな私自身の口から出たことに思い当たる事柄ばかりです。これらの言葉は神さまをガッカリさせます。そして神さまの期待への裏切りは、その人の「罪(sin)」としてその人を霊的な「汚れ(けがれ)」の状態に置くのです。「ルカ」はこのときのイエスさまの言葉と「木の実」の話を合わせた形で前述の部分に構成したのかも知れません。

また今回の部分では「マタイ」は、最初と最後に「振る舞い」や「行動」によって人を見分けることができる、と書いています。ここで考えられるのは「マタイ」の教会は、もともと保守派のユダヤ人の層から出て来た教会と考えられているので、引き続きモーゼ五書の律法に定められた戒律をある程度重視していた可能性は高いと思います。「マタイの福音書」は、ファリサイ派を激しく批判していますから、律法や戒律の遵守を偏重して、それこそが神さまの目に正しく映る鍵だという考えは否定しますが、その一方で、あまりにも戒律を軽視するような行き過ぎたリベラル行動にも警告を発していたのかも知れません。

第19節に書かれている、「良い実を結ばない木はすべて切り倒されて火に投げ込まれます」は「マタイ」にも「ルカ」にも登場する洗礼者ヨハネの言葉で(つまり「Q資料」に含まれている)、ファリサイ派とサドカイ派に向けられた批判です。Matthew 3:9-10(マタイの福音書第3章第9節~第10節)を引用します。「9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」([新改訳])。「ユダヤ人だから」と言う理由だけで神さまの目に正しく映っていると思ったら大間違いで、「良い実」を結ぶことが大切であり、そうでなければ「切り倒されて、火に投げ込まれます」と書かれています。この「火に投げ込まれる」と言う表現も終末論の最後の裁きを感じさせます。



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