マタイの福音書第7章第15節~第20節:木と果実マタイの福音書第7章第12節:黄金律

2015年12月25日

マタイの福音書第7章第13節~第14節:狭い門

第7章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Narrow Gate

狭い門


13 “You can enter God’s Kingdom only through the narrow gate. The highway to hell is broad, and its gate is wide for the many who choose that way.

13 神さまの王国へは、あなた方は狭い門だけから入れるのです。地獄への道幅は広く、その道を選ぶたくさんの人たちのための門は広いのです。

14 But the gateway to life is very narrow and the road is difficult, and only a few ever find it.

14 ですがいのちへの入り口はとても細くて、道は困難です。そして、ほんの少数の人たちがそれを見つけるのです。




ミニミニ解説

この話には「神さまの王国」=「いのち」であり、ここに至る門は困難で狭く、見つける人も少ない。一方、地獄へ至る道は平坦で広く、門も広いと書かれています。

「いのち」と「死」の対立は旧約聖書の律法の中にも見られます。「Deuteronomy(申命記)」はモーゼ五書と呼ばれる律法書の最後の本ですが、これはいよいよユダヤ民族が約束の地、パレスチナに入るにあたり、モーゼが律法の総復習のような形でユダヤ人たちに言って聞かせた本です。その中のDeuteronomy 30:15(申命記第30章第15節)には「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く」([新改訳])と書かれています。神さまの目の中に正しく行動して神さまからの祝福と「いのち」を得るか、神さまの期待を裏切って神さまをガッカリさせ、結果として災いと「死」の道を歩むのか、その選択はあなた方に委ねられているのですよ、と言っているのです。またユダヤ人にとっての「いのち」と「死」は、終末論の考え方で、「終わりの日」に神さまによって行われる「最後の審判」で、一人一人の人間が振り分けられる先でもあります。そのときの判決で、一人一人の人間が、神さまの国へ迎えられて「いのち」を得るか、地獄へ堕とされて「死」ぬこととなるか、それが決まるのです。

「いのち」と「死」へ至る経路として、「マタイ」では「highway」「road」と書かれている「道」と、「gate」「gateway」と書かれている「門」の二つが書かれています。エルサレムもそうですが、パレスチナの町は周囲をぐるりと城壁で囲まれた城塞都市です。町に到達するためには「道」を歩いて長い旅をし、町に到達したら中に入るためには城壁に何カ所か設けられた「城門」を通り抜けなければなりません。これと同じ比喩で「街道」と「門」が「経路」として描かれているのです。そして「いのち」へ至る道は困難で門は狭く、「死」へ至る道は平坦で門は広いのです。また「いのち」へ到る道を見つける人は少ないし、「死」へ至る道をたどる人がたくさんいる、と書かれています。

この記述は「ルカ」では少し違った文脈に見られます。Luke 13:23-24(ルカの福音書第13章第23節~第24節)です。「23 すると、『主よ。救われる者は少ないのですか』と言う人があった。イエスは、人々に言われた。24 努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」([新改訳])。「救われる者」と言う言葉が少なからず終末論を感じさせますが、「救われる」ためには「努力して」(つまり「困難な道を経て」でしょうか)、「狭い門」から入らなければならないのです。その理由は「入ろうとしても、入れなくなる人が多い」から、とされています。

「福音」では「いのち」に至る経路は「イエスさま」です。何度も書いてきているように、私たち人間は例外なく神さまの期待を裏切り続けていて、創造主であり、支配主である神さまをガッカリさせながら生きています。神さまの善悪の判断基準は恐ろしく高く、誰もその基準を満たすことはできません。つまり、「最後の審判」の判決では全員が「死」の判決を受けて地獄へ堕とされる立場にあります。

旧約聖書の律法によると人間の「死罪」は、他の人の「死」によって白紙に戻せることになっています。他の人がいのちを失うことで、自分の死罪の代償とできるのです。これを「罪の購い(あがない)」と言います。お金や品物で罪や失敗の埋めあわせをすると言う意味です。

神さまは自分が愛情を注いで創造した人間が、自分の期待を裏切って結果として死への道をたどるのをご覧になっています。それがたとえ人間の犯した過ちによるものであっても、自分の愛する人間が死の道をたどるのは嫌なのです。神さまは「神聖」な存在です。一方、人間の裏切りによる「罪」は神さまにとっては「汚(けが)れ」にあたります。ですからどれほど人間を愛していても、罪で汚れたそのままの状態で、人間を自分のいる天国へ迎え入れることはできないのです。

そこで神さまは、人間の罪を背負い、人間の身代わりになっていのちを失う存在を、神さまご自身の側から用意されました。それがイエスさまです。イエスさまが十字架の上で流された血が私たちの罪を洗い流したのです。このイエスさまを用いた神さまの救済策を信じる人は無償で天国への切符がもらえるのですよ、と言うのが「福音」(「良い知らせ」の意味)です。この「いのち」は、神さまが一方的にくださるものなので、私たちの側に失うものはなにもありません。ただ「ください」と言えばよいのです。私たちは神さまの期待を裏切り放題で、神さまを何度も繰り返しガッカリさせているのに、神さまはそんな私たちを許して天国へ迎えてくださいます。これは本当にありがたいことですし、神さまの気持ちを考えると本当に申し訳のないことです。なんとか神さまの目の中に正しく映って、少しでも神さまに喜んでいただけるように、がんばりたいと思う毎日です。

と言うわけで私たちの身代わりになった「イエスさま」が、私たちが天国へ入ることができる唯一の経路なのです。John 10:9(ヨハネの福音書第10章第9節)には次のように書いてあります。「私は門です。だれでも、私を通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」([新改訳])。この経路を選ぶのに必要なのは「信じます」と言うシンプルな言葉だけなのですが、多くの人がそれを言うことを拒みます。天国へ至る道を困難で狭いものにしているのは、人間の頑固な心です。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「狭い門」の話は、部分的には「ルカ」にも記載されているものの、ほぼ「マタイ」独自の構成と考えて良いのかも知れません。「マタイ」の教会は、「福音」をユダヤ人や外国人へ伝道しながら、ローマ帝国や保守派ユダヤ人層から迫害を受け、さらには教会内部で異なる考え方をする派閥にも対処しなければならなかったはずで、これらのさまざまな苦難に立ち向かう状況とイエスさまが神さまのもとへ到達する唯一の道であり門なのだという教えを合わせて、今回の話が構成されたのかも知れません。




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