マタイの福音書第7章第12節:黄金律マタイの福音書第7章第1節~第6節:他の人をさばくな

2015年12月25日

マタイの福音書第7章第7節~第11節:効果のあるお祈り

第7章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Effective Prayer

効果のあるお祈り


7 “Keep on asking, and you will receive what you ask for. Keep on seeking, and you will find. Keep on knocking, and the door will be opened to you.

7 求め続けなさい。そうすればあなた方は求めるものを受け取ります。探し続けなさい。そうすれば見つけます。戸を叩き続けなさい。そうすればあなた方に戸が開かれます。

8 For everyone who asks, receives. Everyone who seeks, finds. And to everyone who knocks, the door will be opened.

8 なぜなら求める者は誰もが受け取るからです。探す者は誰もが見つけます。戸を叩く者には戸が開かれます。

9 “You parents -- if your children ask for a loaf of bread, do you give them a stone instead?

9 親たち、あなた方の子供がパンを求めるとき、あなた方は代わりに石を与えますか?

10 Or if they ask for a fish, do you give them a snake? Of course not!

10 あるいは子供が魚を求めるとき、あなた方は蛇を与ますか?もちろんそんなことはありません。

11 So if you sinful people know how to give good gifts to your children, how much more will your heavenly Father give good gifts to those who ask him.

11 つまりあなた方、罪深い人たちが子供に素晴らしい贈り物を与える方法を知っているのなら、あなた方の天の父は、求める人たちにどれほどたくさん、素晴らしい贈り物を与えるでしょうか。




ミニミニ解説

求める人には与えられる、探す人は見つける、戸を叩く人には扉が開かれる。これがイエスさまの約束です。「受け取ります」の英文は「you will receive」となっていて、ここで使われている「will」は未来を表しますが、「will」のニュアンスはそれが将来起こることだけでなく、その確率についてまったく疑問がない強い確信を持っていることを表しますから、「受け取るでしょう」ではなくて「受け取ります」と訳しました。

求める人には与えられる、って本当だろうか、と思う人はいるかも知れませんが、イエスさまがお祈りの仕方のところで教えてくださったように、一度、ひとりになれる静かなところに座って、目を閉じ、頭を垂れて、声を出して「神さま、お願いです。私は~が欲しいのです」と、求めてみれば良いと思います。そのように求められた全知全能の神さまは果たしてどのように応じるか、それが第9節以降に書かれています。子供から「~が欲しいんだけど」と言われた親はどのように感じるでしょうか。親は「そうか、欲しいのか」と受け止めて、何とかそれを与える方法はないか、あるいは、どうやってその希望に応えたらよいだろうか、と考えを巡らせます。時と場合によっては「与えないこと」や「代わりに何かを教えること」が子供のためになると考えることもありますが、パンを求められているのにわざわざ石を与えたり、魚を求められているのに蛇を与えて、子供に意地悪をしてやろう、子供にギャフンと言わせてやろうなどと考える親はいないでしょう。

私たちがお願いをする神さまは全知全能なのです。宇宙を創造し、宇宙を支配する方です。あらゆる能力を持ち、すべてのことを知っています。時間さえも超越しています。その神さまが人間を創造されたときには、愛情を込めてわざわざ自分の姿を模して造られた、と旧約聖書の最初に書いてあります。その方が、私たちから「お願いがあります」と真摯に呼びかけられて、それに善意と誠意をもって応えない理由がありません。

「ルカ」には11:9-13(第11章第9節~第13節)に同じ記事があります。いつもの「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」の両方に記載されているこの部分は、イエスさまの説教を集めた「Q資料」に収録されていたイエスさまご自身の言葉だと考えられます。「9 私は、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」([新改訳])。

「ルカ」では私たちのお願いに対して神さまがくださるものが「聖霊」であると書いています。「聖霊(Holy Spirit)」は父なる神さま、子なるイエスさま、と共に「三位一体(さんみいったい)」を形成します。神さま、イエスさま、聖霊は、三体であるようで実は一体の神さまなのだ、という考え方です。「コーヒー」と「砂糖」と「ミルク」が「カフェオレ(コーヒー牛乳)」を作っているようなものだと教える人もいます(私はあまり好きな教え方ではありませんが)。カフェオレを飲むと口の中で、「コーヒー」と「砂糖」と「ミルク」のそれぞれの存在を感じることができますが、どこの部分がそれなのかを明確に言うことはできません。三者が一緒に混じり合うことでカフェオレになっているからです。

「聖霊」は聖書の中であちこちに登場します。聖霊は「霊」であり、人に宿ります。「クリスチャン」は、人がイエスさまについての福音を信じて神さまに対する信仰を表明したときに、それを聞き届けた神さまから聖霊が与えられ、聖霊がその人に宿って抜けられないように封印された存在であると考えられています。そのように聖霊が身体に封印された状態になると、自分の中に神さまを宿すことになりますから、自分は神さまと共に歩み、神さまからあらゆる意味で祝福を受けることになります。このことがあらゆる「素晴らしい贈り物」の源泉、スタートであると考えれば、求める人たちに「聖霊」をくださるという解釈も成り立つかも知れません。なお「聖霊」は「天使」ではありません。天使は私たちと同様に神さまが創造したもので、天で神さまに仕える存在です。




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