マタイの福音書第7章第7節~第11節:効果のあるお祈りマタイの福音書:第7章

2015年12月25日

マタイの福音書第7章第1節~第6節:他の人をさばくな

第7章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Do Not Judge Others

他の人をさばくな


1 “Do not judge others, and you will not be judged.

1 他の人をさばいてはいけません。そうすればあなた方もさばかれません。

2 For you will be treated as you treat others.  The standard you use in judging is the standard by which you will be judged.

2 なぜなら、あなた方が他の人にするように、あなた方もされるからです。人をさばくときにあなた方が使う基準が、あなた方がさばかれる基準なのです。

3 “And why worry about a speck in your friend’s eye when you have a log in your own?

3 それから、どうしてあなた方は友人の目の中の小さなちりを気にかけるのですか。自分の目の中には丸太があるのに。

4 How can you think of saying to your friend, ‘Let me help you get rid of that speck in your eye,’ when you can’t see past the log in your own eye?

4 どうしてあなた方は友人に「あなたの目の中のちりを取るのを手伝ってあげましょう」と言おうなどと考えられるのですか。あなた方は自分の目の中の丸太の向こうが見えないのに。

5 Hypocrite! First get rid of the log in your own eye; then you will see well enough to deal with the speck in your friend’s eye.

5 偽善者め。最初に自分の目の中の丸太を取り除きなさい。そうすれば、友人の目の中のちりに対処できるくらいによく見えるでしょうから。

6 “Don’t waste what is holy on people who are unholy.  Don’t throw your pearls to pigs! They will trample the pearls, then turn and attack you.

6 聖なるものを不浄な人々に使って無駄にしてはいけません。豚に真珠を投げてはいけません。豚は真珠を踏みにじり、向き直ってあなた方に襲いかかります。




ミニミニ解説

今回の「人をさばくな」は英語では「Do not judge others」となっています。「judge」と言う単語の意味は「よく考えて意見を言う/決める」です。なのでここでは他の人の言動や姿を見て、その人について何かしらの意見を決めたり言ったりするな、と取ることができます。

どうして人をさばいてはいけないか、その理由が第1節に書いてあります。それは「自分がさばかれないため」です。「自分がさばかれる」と聞くときに当時のユダヤ人が頭に思い描くのは「終末論」の考え方です。終末論では、いつか来る「終わりの日」に神さまによる「最後の審判」が行われるとされます。神さまは最後の審判の場で、ひとりひとりの人間についての判決を下し、「善」なのか「悪」なのか、つまりは天国行きなのか、地獄行きなのか、を決めるのです。これが「自分がさばかれる」ときです。終末論は聖書全体であちこちに登場します。新約聖書では福音書の中にも、パウロの書簡の中にもところどころに顔を出します。新約聖書巻末の「ヨハネの黙示録」は全体が終末論を書いています。終末論に結びつけてこの「人をさばくな」を考えると、自分がさばかれないように、言い換えれば、神さまによる最後の審判で有罪の判決を受けないようにするためには、自分も人を有罪に定めるな、と取ることができます。人を有罪に定めるのは神さまです。神さまに代わって、「あの人は天国に行けるね」「あの人はきっと地獄へ落とされるよ」と自分が最終判決を下すようなことをしてはいけない、と戒めているのです。

さて肝心の自分の話です。果たして自分は最後の審判で天国へ迎えられるのでしょうか、あるいは地獄へ堕とされるのでしょうか。以前から繰り返し書いているように、神さまの善悪の判断基準はとてつもなく高いので、あらゆる人間が例外なく、毎日のように繰り返し「悪」を行って神さまをガッカリさせながら生きているはずです。そして「罪(sin)」の語源が「的を外すこと」にあり、すなわち私たちが神さまの期待を外してガッカリさせることが「罪(sin)」なのであれば、最後の審判ではすべての人間が有罪の判決を受けて地獄へ堕とされることになります。ところがもし、そんな人間の中に「善」の判決を受けて天国へ迎えられる人がいるのだとすれば、その人は何かの理由で神さまから罪を「許された」と言うことになります。神さまをガッカリさせ続けた罪を許されて、特別に天国入りを許可されたことになります。新約聖書はそういうことが起こるよ、と教えています。それは、私たちに代わってすべての人間の罪を背負う「いけにえ」が、私たちをさばく側の神さまから、しかも一方的に用意されると言う話、私たちはその無償の贈り物を受け取るだけでよい、という私たちの側には何も失うもののない、とても良い話、それが「福音(=良い知らせ)」の意味なのです。

なので、ここでイエスさまが「人をさばくな」と言うのは、最後の審判でさばかれないように、神さまから自分の罪を許していただきたかったら、自分も同じように人を許しなさい、と言う意味と解釈できます。神さまは人の心をご覧になるのですから、将来に不安を抱いたり(前回のところに書かれていました)、不必要なプライドを持って奢ったり、人に対して怒りを抱いたり、異性を見て倫理的に許されない欲情を抱いたり、そうやって神さまをガッカリさせることは生きている以上、後を絶ちません。それを全部許していただいて神さまのいる天国へ迎えられたいと言うのなら、自分も同じように人を許しなさい、と言うのです。

今回の部分は「ルカ」にも見つかります。つまり「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分はイエスさまの説教集である「Q資料」から来ているということです。Luke 6:37(ルカの福音書第6章第37節)です。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」([新改訳])。ここでは明確に「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と書かれています。「赦す」ことについては「マタイ」では第6章の第14節~第15節に書かれていました。「14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」([新改訳])。イエスさまの福音を信じて神さまに許していただきたいのなら、自分も人を許すことで、神さまに自分が変わったことを示さなければならないのです。

第2節には「あなた方が他の人にするようにあなた方もされる」、「あなた方が人をさばくときに使う基準が、あなた方がさばかれる基準」と書かれています。これと似た記述は「ルカ」では別の文脈で登場します。さきほどの引用の続きのLuke 6:38(ルカの福音書第6章第38節)です。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」([新改訳])。つまり「ルカ」では自分が人に気前よく与えれば、同じ基準で自分も与えられる、と書いています。おそらくイエスさまは「あなたが他人に対して使うのと同じ基準・量りを、神さまは今度はあなたに対して使う」と言うようなことを言われたのでしょう。「マタイ」はその言葉を「さばき」の文脈で用い、「ルカ」は同じ言葉を「祝福」の文脈で用いました。どちらにしても私たちの心がどこにあるかは、他人に対する言動に表れてくると見られているようで、さばきにせよ、祝福にせよ、神さまが私たちにしてくださることは、私たちが他人に対してどのような行動を取るかで決まってくるようです。

第3節~第5節は友人の目の中にある小さなチリと、自分の目の中にある大きな丸太の話です。同じ記述は「ルカ」にも見られます。Luke 6:41-42(ルカの福音書第6章第41節~第42節)です。「41 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。42 自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」([新改訳])。これは自分が根本的な間違いを犯していることに気づかないのに、どうして他の人の非を咎めることができるのか、と言う戒めでしょう。この文脈から解釈すれば自分が気づかないでいる「根本的な間違い」とは、自分はすべての人間と同様に、本来なら最後の審判で有罪判決を受けて地獄へ堕とされて当然の存在だ、と言うことです。そのことを適切に理解しないままに、「あなたは間違っている」「あなたにはよく物事が見えていない」などと人を批判することには意味がないのです。

第5節は、「偽善者め」と書き始められています。イエスさまは福音書の中ではファリサイ派を繰り返し「偽善者」と呼んで激しく批判しますから、この「根本的な間違い」を犯している人たちへの批判は同じようにファリサイ派へ向けられているのだと思います。ファリサイ派は、自分たちはモーゼが神さまから預かった律法のすべてを守る清浄なユダヤ人だから、その理由で神さまから愛され、当然天国へ迎えられると信じ、そのように主張していました。そればかりか、自分たちのように律法を守らない人たちを激しく批判していたのです。人々はファリサイ派を尊敬し称賛しましたが、ファリサイ派はそのような民衆の支持を誇りにしていたのです。これをイエスさまは「目の中に丸太があることに気づかない人たち」と称しているのです。

最後の第6節は「豚に真珠」の話です。この話はマタイだけに登場しますので、いつもの「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は「マタイ」の「独自の資料」と言うことになります。と言うことはイエスさまの説教集から来た言葉ではなく、「マタイ」が独自の判断でここに差し込んだと判断されます。内容は「聖なるものを不浄な人々に使って無駄にしてはいけません」とあり、それは「豚に真珠を投げるようなもの」と書かれています。つまり「聖なるもの」=「真珠」、「不浄な人々」=「豚」と言うことです。真珠はイエスさまの当時の高価な宝物です。「聖なるもの」は真珠のように貴重なもの、それは「神さまについての教え」と考えて良いでしょう。「マタイ」の教会の独自資料ですから、特にイエスさまに関する「福音」と考えても良いのではないでしょうか。

ではこれを与えてはいけない「不浄な人々」とは誰のことでしょうか。「豚」はユダヤ教では犬と並んで忌み嫌われる動物です。旧約聖書のLeviticus 11(レビ記第11章)やDeuteronomy 14(申命記第14章)には食べて良い動物と食べてはいけない動物を、清い動物、汚れた動物として定めている箇所ですが、豚は汚れているから、食べてはいけないし、死体に触れてもいけない、と書かれています。ユダヤ人にとって豚のように汚れた存在とは誰なのでしょうか。通常、ユダヤ人にとっての「不浄な人々」とはユダヤ人ではない外国人(異邦人)のことなのですが、当時の「マタイ」の教会では外国人への伝道活動も行っていたでしょうから、必ずしも外国人を指していたとは考えられません。そして第6節の後半には、この「不浄な人々」が、「神さまの教え=イエスさまの福音」を踏みにじり、さらには向き直って「マタイ」の教会に襲いかかって来ると書かれています。「マタイ」の教会は福音を伝道する上で、さまざまな困難や迫害に直面していたでしょう。たとえばローマ帝国からの迫害、キリスト教を異端とみなすユダヤ教保守派からの攻撃、さらには自分の教会の中にいて教会の調和を乱す類の人たち。具体的にこの部分が、この中の誰かを指してか、あるいはそれ以外の他の誰かを指して「不浄な人々」と呼んでいるのか、これだけの記述ではわかりません。





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