マタイの福音書:第7章マタイの福音書第6章第5節~第18節:祈りと断食についての教え

2015年12月26日

マタイの福音書第6章第19節~第34節:お金と所有に関する教え

第6章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about Money and Possessions

お金と所有に関する教え


19 “Don’t store up treasures here on earth, where moths eat them and rust destroys them, and where thieves break in and steal.

19 この地上で宝をたくわえてはいけません。地上では虫が食うし、錆びてだめになりますし、泥棒が押し入って盗んで行きます。

20 Store your treasures in heaven, where moths and rust cannot destroy, and thieves do not break in and steal.

20 あなたの宝を天にたくわえなさい。天では虫も錆びもだめにしないし、泥棒が押し入って盗むこともありません。

21 Wherever your treasure is, there the desires of your heart will also be.

21 あなたの宝のあるところに、あなたの心の願望があります。

22 “Your eye is a lamp that provides light for your body. When your eye is good, your whole body is filled with light.

22 あなたの目はあなたの身体に光をもたらす灯りです。もしあなたの目が良ければ、あなたの全身は光に満たされます。

23 But when your eye is bad, your whole body is filled with darkness. And if the light you think you have is actually darkness, how deep that darkness is!

23 が、あなたの目が悪ければ、あなたの全身は闇で満たされます。もしあなたが光と考えるものが本当は闇なのだとしたら、その闇の深さはどれほどでしょう。

24 “No one can serve two masters. For you will hate one and love the other; you will be devoted to one and despise the other. You cannot serve both God and money.

24 だれも二人の主人に仕えることはできません。なぜならあなたは一方を嫌って、もう一方を愛するでしょうから。あなたは一方に専心して、他方を軽んじるでしょうから。あなたは神さまとお金の両方に仕えることはできません。

25 “That is why I tell you not to worry about everyday life—whether you have enough food and drink, or enough clothes to wear. Isn’t life more than food, and your body more than clothing? 

25 それが、私があなた方に日々の暮らしについて、食べ物や飲み物が十分にあるか、衣類が足りているか、と心配するな、と言う理由なのです。あなた方の命は食べ物より大切なのではありませんか?あなた方の身体は衣類より大切なのではありませんか?

26 Look at the birds. They don’t plant or harvest or store food in barns, for your heavenly Father feeds them. And aren’t you far more valuable to him than they are? 

26 鳥を見なさい。鳥は種を蒔かないし、収穫もしないし、納屋に食べ物を蓄えることもしません。あなた方の天の父が食べさせているからです。あなた方は神さまにとって鳥よりも価値があるのではありませんか?

27 Can all your worries add a single moment to your life?

27 あなた方が心配したからと言って、あなたの人生をほんのちょっとの間でも延ばすことができますか?

28 “And why worry about your clothing? Look at the lilies of the field and how they grow. They don’t work or make their clothing, 

28 なぜ衣類のことで心配するのですか? 野のユリがどのように育つのかを見なさい。ユリは働かないし、衣類を作ることもありません。

29 yet Solomon in all his glory was not dressed as beautifully as they are. 

29 それでも、栄華の中にあったソロモンさえ、ユリのように美しくは着飾っていませんでした。

30 And if God cares so wonderfully for wildflowers that are here today and thrown into the fire tomorrow, he will certainly care for you. Why do you have so little faith?

30 もし神さまが、今日はここにあっても、明日には火に投げ込まれてしまう野の花を、驚くほど気にかけてくださるのだとしたら、神さまは必ずあなた方を気にかけてくださいます。どうしてあなた方の信仰はそれほどまでに小さいのですか?

31 “So don’t worry about these things, saying, ‘What will we eat? What will we drink? What will we wear?’ 

31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、などと言ってそういう物事を心配するのはやめなさい。

32 These things dominate the thoughts of unbelievers, but your heavenly Father already knows all your needs. 

32 こういう物事は不信心者の心を占めるのです。ですがあなた方の天の父は、すでにあなた方が何を必要としているか、すべてをご存じです。

33 Seek the Kingdom of God above all else, and live righteously, and he will give you everything you need.

33 すべての他の事柄よりも、神さまの国を求めなさい。そして正しく生きなさい。そうすれば神さまがあなたの必要なものはすべて与えてくださいます。

34 “So don’t worry about tomorrow, for tomorrow will bring its own worries. Today’s trouble is enough for today.

34 だから明日のことを心配するのはやめなさい。明日は、明日の心配を連れてきます。今日の心配だけで、今日には十分です。




ミニミニ解説

今回の部分の前半にはイエスさまの三つの話が納められています。「宝の話」、「目の話」、「二人の主人」の話です。

まず「宝の話」です。

Luke 12:33-34(ルカの福音書第12章第33節~第34節)に以下の記述があります。「33 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。34 あなた方の宝のあるところに、あなた方の心もあるからです」([新改訳])。明らかに今回の「宝の話」と同じところから出ている言葉ですが、ルカでは、この部分までに至る文脈が多少異なりますし、第33節には、朽ちることのない宝を天に積むためには自分の持ち物を売り払え、と具体的な指示も書いています。どちらにしても「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「Q資料」(イエスさまの語録集)から書かれていることになります。

また言わんとしているのは、私たちの蓄えるべき「宝」は、虫が食ったり、錆びたり、泥棒に盗まれる可能性のある「地上の何か」であってはならず、天に積まれる「朽ちることのない何か」であるべきだと言うことです。その「何か」が果たして何なのかは第21節に書かれています。ここは[KJV]では「For where your treasure is, there will your heart be also.(拙訳:なぜならあなたの宝があるところに、あなたの心もあるからです)」と書かれており、つまり私たちの心をいつも占めているものが、私たちの「宝」だと言うことになります。私たちの心にいつもあるもの、私たちがいつも考えていること、気にしているものが私たちの宝なのです。それが物欲・金銭欲、成功欲・名誉欲、肉欲等であったり、地上の偶像を追い求めているようであれば、それは壊れたり、失われたり、奪われたりする地上の宝を追い求めていることになります。ここでも神さまは私たちの心がどこにあるかをご覧になっている、と言うことです。

続いて「目の話」です。

Luke 11:33-36(ルカの福音書第11章第33節~第36節)に以下の記述があります。「33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。34 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます」([新改訳])。灯した灯りを枡の下に置く話はマルコの第4章に登場する話です。ルカではこの話と、今回の「目の話」を合体させた形でひとつの教えの話に構成しています。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「目の話」も「Q資料」(イエスさまの語録集)から書かれていることになります。

「目」は光を関知する器官であって、私たちの目が良ければ光を感じて明るいと認識し、逆に目が悪ければ光を感じることができずに周囲が暗いと感じます。もちろんイエスさまはそんなことを言っているのではなくて、それを比喩にして心の中の光、心の中の明るさと暗さの話をしているのです。「心の目」が良ければ、自分が光の中にいるときに明るいと感じることができるし、逆に「心の目」が悪ければ、自分が光の中にいてもそれを明るいと感じることができません。自分がもし、周囲が暗くて心細く、これから進むべき道や、事態を打開する出口の光が見えないことを不安に感じているのだとしたら、それは「心の目」が悪いために「光」を感じられない状態なのです。

第23節ではさらに、「もしあなたが光と考えるものが本当は闇なのだとしたら」と書かれています。もしいま自分が、自分の将来はバラ色に光り輝いている!と信じていた「光」が、実は本当は闇だったとしたら、と言うたとえです。「宝の話」で触れたように、物欲・金銭欲、成功欲・名誉欲、肉欲、偶像などに光を見ているのだとしたら、それはある日壊れたり、失われたり、奪われたりするニセモノの光だからです。そういう光を追いかけていると、いざその光が失われたときに、初めて周囲の真の暗さを知ることになります。

最後は「二人の主人の話」です。

Luke 16:13(ルカの福音書第16章第13節)に以下の記述があります。「13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「二人の主人の話」も「Q資料」(イエスさまの語録集)から書かれていることになります。

イエスさまの時代は奴隷が存在した社会ですから、「主人に仕える」と言うのは奴隷の話です。奴隷は主人の所有物ですから、一人の奴隷が二人の主人を持つことはありません。奴隷は必ずひとりの主人に帰属しているのです。イエスさまは「だれも二人の主人に仕えることはできません」と言っています。「マタイ」の第24節は、[KJV]では「No man can serve two masters」となっていて、主語は「No man」です。イエスさまが「だれも」と言ったとき、これは奴隷に限った話ではありません。

私たちは奴隷と同様、ただ一人だけの主人を持たなければならないようです。奴隷は主人の所有物として、自分個人の利害や感情を忘れ、ただ主人だけのために働くことが求められます。「神さま」を心に置いて神さまだけのために生きる人は神さまの奴隷、「お金」を心に置いてお金だけのために生きる人はお金の奴隷と言うことです。

最初の「宝の話」では、自分の心を占めるものがその人の宝なのだと説かれましたが、ここでは、実は自分はその宝の奴隷なのだ、と言っています。これはちょっと考えさせられる視点です。自分の心に物欲・金銭欲、成功欲・名誉欲、肉欲、偶像などを置いて、いつかそれを手に入れよう、いつかそれを自分の支配下に置いてやろうと目論見ながら生きているつもりでも、実は自分はその宝のために働く奴隷だと言うのです。確かにそうかも知れません。自分に与えられた時間、能力、体力、そしてお金。これらは私たち一人一人に与えられた有限の資源です。だれもがこれらを費やしながら人生を生きるわけですが、逆に言えば人生とは、これらの資源を費やして、その対象のために奉仕しているようなものです。私たちは自分の宝に仕える奴隷なのです。私たちは誰の奴隷として、たった一度の人生を送るべきでしょうか。地上の富と天の神さまが相いれないものなのであるのなら、どちらの主人のために自分の大切な資源を使うべきか、よく考えてみるべきだと思います。



今回の部分の後半部分、イエスさまが「心配するのはやめさない」と命ずる部分は、私は個人的に大好きな箇所で、何度も繰り返し読んでしまいます。読むたびに前向きな気持ちに満たされて勇気が出てくるからです。「神さまが鳥や花などの創造物をどれほど愛しているか、わからないのか」。「神さまは鳥や花以上に自分のことを大切に思ってくださることがわからないのか」。「あなた方の信仰はそれほどまでに小さいのか」。イエスさまはこのようにたたみかけてきます。

そして第31節は、「心配するのはやめなさい」と結ばれます。これはイエスさまが「どうですか。心配するのはやめたらいかがですか」と提案しているのではありません。「心配するのはやめなさい」と、師として弟子たちに命じているのです。イエスさまの命令に従えずに、あいかわらずあれこれと思い悩む日々を送るのであれば、それは私の信仰が弱いと言うことですし、そしてその様子をご覧になる神さまは、いっこうに神さまを信じようとしない私を見てガッカリされるのです。

私はユダヤ民族のエジプト脱出を思い出します。ユダヤ人たちは、数々のとんでもない奇跡を目の当たりにして(たとえば目の前で紅海が真っ二つに割れて海底を歩いて向こう岸へ渡れるとかです)、そのたびに神さまを褒め称えはするのですが、時間が経つといつの間にか神さまのことを忘れてしまい、あれこれと不満を言い始めます。これを見たモーゼが「まだわからないのか?いつになったらわかるのか?」と業を煮やしたのと同じことです。イエスさまは私たちに「まだわからないのか?いつになったらわかるのか?」ときいているのです。

第31節~第32節には「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」との悩みは、不信心者の心を占めるものだと書かれています。そして、神さまは私たちの心をご覧になるのですから、私たちが何を必要としているか、それをすべてご存じだとも言うのです。

ここで神さまがご存じの「私たちが必要としているもの」とは、私たち自身が頭の中で考えるものとは次元が違うのだろうと私は思います。たとえば私が「お金が欲しい」と思っているとします。私がそれをお祈りの形で神さまに伝えようと伝えまいと、神さまは私の心をご覧になっていますから、私の考えていることはご存じなのです。これはイエスさまがお祈りの方法を弟子たちに教える箇所にも書いてありました。Matthew 6:8(マタイの福音書第6章第8節)の後半部分です。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」([新改訳])。 

ところで私が「お金が欲しい」と思うとき、私は本当にお金が必要なのでしょうか。お金は紙幣だったり硬貨だったり、あるいは通帳に書かれた数字だったりするので、お金そのものには物質的な価値はありません。私はそのお金という手段/媒体を使って何をしたいと言うのでしょうか。神さまはきっとそれさえもご存じなのです。

私がお金を使って手に入れたいもの、それが家なのか、車なのか、洋服なのか、教育費なのか、レジャーなのか、わかりませんが、そういうものを手に入れたとして、それで私はどうしたいのでしょうか。私がそうやって手に入れる「何か」があるとして、それは最終的に私に幸せをもたらすのでしょうか。それは私の深層心理の中に埋め込まれている部分で、私と言う「人物」や「アイデンティティ」にも通じる部分です。私自身にさえわからない、私が本当に求めるもの、心をご覧になる神さまは、それさえもご存じなのです。

神さまはそう言うことをすべて何もかもご存じの状態で、「お金が欲しい」と思う私をご覧になって、「さてどうしたものか」と考えられます。そして全知全能、つまり世の中のすべてを知り尽くし、すべてをコントロールする力を持ち、時間さえ超越する神さまは、私個人に最善と思われる事柄を計画してくださいます。だとしたら私が思い悩む必要はないのです。

理屈はなんとなくわかります。そして、これに対して「でも」と思ったら、聖書のここの箇所を読むのです。するとイエスさまが「まだわからないのか?」と問いかけてくださいます。あれほどものすごい奇跡を見て、どうして信じられないのだろう、とユダヤ人を愚かに思うことなどできません。ガリラヤ湖の真ん中で船の上から水上を歩いて来るイエスさまを目撃したペテロは、自分も船から水面へと足を踏み出して同じように水面を歩いてイエスさまに近づいていきます。ところが途中でちょっと恐くなって、イエスさまへの信仰をぐらつかせた瞬間、水の中へと落ちて行くのです。私だっていつもそうです。どんな奇跡を見せていただいても、たとえ私をイエスさまを目の前に置いていただいても、私は必ずちょっと恐くなったり不安を感じたりするのです。そうやって私たちの不信心はいつも神さまをガッカリさせてしまうのです。

今回の部分の最初(第25節)は「That is why I tell you not to worry about everyday life(拙訳:それが、私があなた方に日々の暮らしについて心配するな、と言う理由なのです)」と始められています。前半に書かれていたのは「宝の話」、「目の話」、「二人の主人」の三つの話でした。この中で言われていたのは、地上ではなくて神さまのいる天に宝を積みなさい、心の目を開いて自分が霊的な光の中にいることを見定めなさい、自分の人生を神さまのために生きなさい、との教えでした。それがイエスさまが私たちに「日々の暮らしについて心配するな」と言う理由だと言うのです。

今回の結びの部分、第33節でも同じことが確認されています。「すべての他の事柄よりも、神さまの国を求めなさい。そして正しく生きなさい」。これは王である神さまの支配を待ち望み、王である神さまの視点で、神さまの目の中に正しく映るように生きることを追い求めなさい、と言う意味です。この節の続きは「そうすれば神さまがあなたの必要なものはすべて与えてくださいます」となっています。これはイエスさまが私たちに対して示されている「約束」です。そのように生きれば、私たちが日々思い悩む、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と言うような世俗の問題はすべて 神さまによって解決されてしまいますよ、そういうご褒美がありますよ、と言うのです。

これは貧困さえ喜びとして迎えられるような、ある種の宗教的な「悟りの境地」とは違う意味だと思います。たとえば今回の話の例でも、第29節にユリの美しさをソロモンと比べる部分がありますが、ソロモンは神さまに愛され、イスラエルが最大の栄華を誇ったときにエルサレムに黄金の神殿を築いた王です。また、ユダヤ民族の父祖のアブラハムも神さまの祝福を受けて大変な富豪となった様子が書かれています。イエスさまの弟子たちでさえ、断食のような苦行をするよりも、イエスさまと地上で過ごす限られた時間を祝宴のように楽しめ、と言うような記述があります。つまり「すべての他の事柄よりも神さまの国を求める人、神さまの目の中に正しく映ることを追求する人は、物質的にも豊かに祝福されるのです。きっと世俗の悩みなど感じることはないくらいの物質的な大きな祝福があるのです。





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