マタイの福音書第6章第19節~第34節:お金と所有に関する教えマタイの福音書第6章第1節~第4節:貧乏な人たちに施すことについての教え

2015年12月26日

マタイの福音書第6章第5節~第18節:祈りと断食についての教え

第6章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about Prayer and Fasting

祈りと断食についての教え


5 “When you pray, don’t be like the hypocrites who love to pray publicly on street corners and in the synagogues where everyone can see them. I tell you the truth, that is all the reward they will ever get.

5 あなた方が祈るときには偽善者たちのようであってはいけません。偽善者たちは、みなが見ることのできる街角や会堂で公然と祈ることを好みます。私はあなた方に本当のことを言います。それが彼ら偽善者が受け取る報いのすべてなのです。

6 But when you pray, go away by yourself, shut the door behind you, and pray to your Father in private. Then your Father, who sees everything, will reward you.

6 ですがあなた方が祈るときにはひとりでその場を立ち去り、自分の後ろの戸を閉め、こっそりとあなたの父に祈りなさい。そうすればあなた方の父はすべてが見える方なので、あなた方に報いてくださいます。

7 “When you pray, don’t babble on and on as people of other religions do. They think their prayers are answered merely by repeating their words again and again.

7 あなた方が祈るときには他の宗教の人たちがするように、意味のない言葉をずっとくり返してはいけません。彼らは単に言葉を何度も何度も繰り返すことで、祈りに対する答えが得られると信じているのです。

8 Don’t be like them, for your Father knows exactly what you need even before you ask him!

8 彼らのようであってはいけません。なぜならあなた方の父は、あなた方がお願いをする前から、あなた方が何を必要としているかを正確に知っているからです。

9 Pray like this: Our Father in heaven, may your name be kept holy.

9 このように祈りなさい: 天の父よ。あなたの名前が神聖に保たれますように。

10 May your Kingdom come soon.  May your will be done on earth, as it is in heaven.

10 あなたの王国がすぐに来ますように。あなたの意志が地上でなされますように。それが天でそうあるのと同様に。

11 Give us today the food we need,

11 私たちが必要とする食べ物を今日、私たちに与えてください。

12 and forgive us our sins, as we have forgiven those who sin against us.

12 そして私たちの罪を許してください。ちょうど私たちが私たちに対して罪をなした人たちを許しましたように。

13 And don’t let us yield to temptation, but rescue us from the evil one.

13 そして私たちを誘惑へ引き渡さないでください。私たちを邪悪な者から救い出してください。

14 “If you forgive those who sin against you, your heavenly Father will forgive you.

14 「もしあなた方が、あなた方に罪をなす人たちを許すのなら、あなた方の天の父もあなた方を許してくださいます。

15 But if you refuse to forgive others, your Father will not forgive your sins.

15 しかしあなた方が他の人を許すことを拒むのなら、あなた方の父もあなた方の罪を許しません。

16 “And when you fast, don’t make it obvious, as the hypocrites do, for they try to look miserable and disheveled so people will admire them for their fasting. I tell you the truth, that is the only reward they will ever get.

16 そしてあなた方が断食するときには、偽善者たちのように、すぐにわかるようにしてはいけません。なぜなら偽善者たちは断食に対して人々が称賛するようにと、みじめに髪や服装が乱れたように見せる努力をしているのです。あなた方に本当のことを告げます。それが彼らが受け取るであろう、報いのすべてなのです。

17 But when you fast, comb your hair and wash your face.

17 しかしあなた方が断食するときには、髪をとかし、顔を洗いなさい。

18 Then no one will notice that you are fasting, except your Father, who knows what you do in private. And your Father, who sees everything, will reward you.

18 そうすればあなたが断食していることに誰も気づかないでしょう。あなた方が内証でやっていることを知っている、あなたの父を別にして。そしてすべてをご覧になるあなたの父があなたに報いてくださいます。




ミニミニ解説

第6章は第5章に引き続きイエスさまの語録集です(「マタイ」の第5章~第7章はイエスさまの語録集になっています)。今回はお祈りの仕方についての教えです。

イエスさまがご自身の言葉で弟子に「祈りの方法」を教える箇所は聖書の中でも限定されています。今回の箇所はその数少ない箇所の一つで、自分が神さまにお祈りをするときにどのように祈ればよいのかを知るためのヒントになります。またここでは当時のファリサイ派や宗教学者が行っていた「街角や会堂で公然と祈る」方法と、異教徒が「意味のない言葉をずっとくり返す」方法が否定されています。ファリサイ派や宗教学者は自分たちの祈りを「人に見せるために」行っていました。お祈りのための長大なリストを持っていて、決められた時間や状況になると、寺院や街角や会堂などの人の集まる場所で、まるで公開イベントのようにお祈りを捧げていたようです。人々はその姿を見て感動し、尊敬し、ファリサイ派や宗教学者を熱烈に支持したのです。もうひとつの「意味のない言葉をずっとくり返す」異邦人の祈りは、あらかじめ決められた祈りの言葉をおまじないのようにブツブツと何度も繰り返すタイプの祈りです。たとえば「願い叶え給え。願い叶え給え。願い叶え給え。願い叶え給え・・・」のように。これらのお祈りの方法はイエスさまの言葉で否定されています。

これに対してイエスさまがすすめている方法は、第6節にあるように、どこかの部屋へ入って戸を閉めて一人になり、自分個人の祈りの時間を持つ方法です。そうやって神さまに祈るわけですが、実はここに書かれている「あなたの父に祈りなさい(pray to your Father)」は当時のユダヤ人には大変ショッキングな言葉なのです。と言うのは当時のユダヤ人にとっては神さまは名前を言うことさえ恐れ多い存在で、神さまと接するのはユダヤ人の中でただひとり「大祭司」の役目であり、それも一年に一度だけ入ることのできる寺院の最深部で、定められた儀式にのっとってようやく接することが許された遠い遠い恐れ多い存在だからです。その神さまを一般のユダヤ人が「私の父」などと気安く呼ぶなど、とうてい許されません。もし神さまを指して「あなたの父に祈りなさい」などと言う言葉が聞かれれば、イエスさまは冒涜の罪で逮捕されてしまいかねません。

神さまと接することができたのはユダヤ人の中でもただひとりの大祭司だけ、それも一年に一度だけ定められた清めの儀式を経てからのことでした。それは人間が汚れているからです。神聖なる神さまは汚れている人間とは直接接することができないし、人間も神さまの神聖さ故に直接接すれば生きることはできません。その一方で、いま私たちが神さまを「自分の父」と呼んで、直接お祈りができるのはイエスさまがいるからです。新約聖書に書かれた「福音」(良い知らせ)は、いまから約2000年前に救世主イエスさまが私たち人類全体の罪を背負ったいけにえとして捧げられ、そのイエスさまが流した血が私たちの罪の汚れを洗い流したから、私たちは臆することなく神さまの前に出られるようになった、と伝えています。

そのように考えると、「マタイ」の第6章でまだ十字架にかかっていないイエスさまが「あなたの父に祈りなさい」の言葉を言うのは少し早すぎる、順序が合わないのではないかと思います。これは「マタイの福音書」が書かれたのはイエスさまの十字架死~復活の30年以上後のことなので、いくぶんか物事の前後関係が無視されてしまっている面があるのだと思います。

驚くべきは、第8節の「あなた方の父は、あなた方がお願いをする前から、あなた方が何を必要としているかを正確に知っている」の記述です。何度か書いてきているように、神さまは私たちの心を見る方なので、私たちが何を求めているかをすべて知っているのです。また「私たちが何を求めているか」については、「自分が本当は何を求めているのかさえわからない」と言う方もいるでしょう。私は、神さまが見る私たちの心とは、私たちが意識できる「表層心理」の部分ばかりでなく、私たちの記憶や感情や動機の源になっている膨大な「深層心理」の部分までもを含むのだと思います。ですので私たち自身でさえ気づかない、私たち自身でさえ知ることのできない、「自分が本当に望んでいること」さえも、神さまには手に取るようにわかるのです。そして神さまは「全知(omniscient)」の存在なので、あらゆる人の心を読み、宇宙に起こるすべての出来事の様子や関係を把握しています。時間さえ超越しているのです。そうやってすべての情報を統べながら、次に何を起こせば、その人のために本当に一番良いのかを計画し、実行されているのです。

ここで大事なのは、神さまが、私たちが何を必要としているかを知っていて、私たち人間を愛し、私たち一人一人に最良の計画を用意されているとしても、神さまはなお、私たちの言葉で神さまに呼びかけることを愛される、と言うことです。たとえすべてを知っていても、神さまは私たち自身の拙い言葉で、私たちの希望をお聞きになりたいのです。神さまはそれをお聞きになって、ご自身の計画を変更されるのだと思います。


主の祈り

第9節~第15節の部分にイエスさまが「このように祈りなさい」と言って書かれているお祈りの言葉は「主の祈り」と呼ばれています。

「主の祈り」は「ルカ」にも見つかります(Luke 11:1-4/ルカの福音書第11章第1節~第4節)。一方前回までの第1節~第8節は「マタイ」だけに見つかる記述です。ですので「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、 第1節~第8節は「マタイ」の著者独自の資料であり、第9節以降は「Q資料」から来ているイエスさま自身の言葉になります。ただ「マタイ」の主の祈りは第9節~第13節の4節ありますが、「ルカ」の主の祈りは第11章の第2節~第4節の3節と短く、そう言う意味では「ルカ」の「主の祈り」と合致しない「マタイ」の部分は、「マタイ」の著者独自の資料と言えるかも知れません。

前回イエスさまは、私たちがお祈りをする際には、どこかの部屋へ入って戸を閉めて一人になり、自分個人のお祈りの時間を持ちなさい、と教えました。今回はそうやって一人になって神さまと向かい合う時間を持ったら、そのときには第9節以降に書かれている「主の祈り」ように祈りなさい、と言うことになるでしょう。ここからは実際にイエスさまが教える「主の祈り」の内容を見ていきます。



まず「主の祈り」の最初の句、第9節です:

9 Pray like this: Our Father in heaven, may your name be kept holy.

9 このように祈りなさい: 天の父よ。あなたの名前が神聖に保たれますように。

上の和訳は[NLT]を私が日本語訳したものですが([拙訳])、[新改訳]の日本語訳は以下のようになっています。「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名(みな)があがめられますように」。また英語の方は、[KJV]では「After this manner therefore pray ye: Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name.(拙訳:だからこの方法にならって祈りなさい:天にいる私たちの父よ、あなたの名前が神聖なものとしてあがめられますように)」となっています。

上にも書きましたが、「主の祈り」の最初の呼びかけの言葉「天の父よ」は当時のユダヤ人が神さまに向けて気安く使える言葉ではありませんでした。神さまの名前自体があまりに神聖で畏れ多く、口に出すことさえはばかられていましたし、そのような畏れ多い存在である神さまに向かって「父よ」などと気安く呼びかけることなど問題外でした。そう言う意味で「主の祈り」は冒頭から革新的なのです。私たちがいまお祈りをするときに神さまに「父よ」や「天のお父さん」と呼びかけるのか、あるいは「神さま」と呼びかけるのか、その呼びかけ方はともかくとして、それ以前に私たち人間が直接神さまに話しかける、と言う行動自体がまったく新しいパラダイムなのです。これまでは神さまに呼びかけるのはユダヤ人でただひとり大祭司の役目でした。しかしイエスさまの十字架死を経た後は私たちも直接神さまに話しかけることができる。これが「福音」(良い知らせ)の意味そのものなのです。

続いて「あなたの名前が神聖に保たれますように」とあります。ここにある「名前」と言う言葉は特別な意味を持つ言葉です。日本語にも「名前」を使ったイディオムがたくさんあります。「名をあげる」「名をなす」「名を遂げる」「名を残す」「名が高い」「名に恥じない」「名を傷つける」「名を汚す」「名前が泣く」「名を貸す・借りる」「名をただす」「名を売る」などなど。これを見ると「名前」とはその人物自身、その人の存在、その人のアイデンティティを表す言葉なのだと思います。

神さまは旧約聖書の最初に地上に最初の人間アダムを置き、続いてアダムが一人でいるのはよくないからと、獣や鳥を連れてきてアダムに名前を付けさせました。Genesis 2:19(創世記第2章第19節)「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった」([新改訳])。

人は何かに名前をつけてその存在を他と区別し、その時点からそれを名前で呼んでいきます。どんな名前をつけようかと悩み、名付けた後もこんな名前で良かったのかな、などと思っていた名前も、何度も繰り返しその名前で呼ばれるうちに、その名前が不思議と定着していきます。もともと名前のなかった存在にその名前がつけられたのか、その名前で呼ばれているからこそ、その存在であるのか、前後の関係がわからなくなるくらい、その存在と名前は一致して、逆に他の名前で呼ぶことが不自然になっていきます。「名付け」と言う行為はもともと神さまの技でしたが、旧約聖書にあるように、神さまは同じことを特別に人間にもさせるようにしたのです。そして「名前」とは「存在」そのものなのです。ですから「あなた(神さま)の名前が神聖に保たれますように」と言うのは、「あなた(神さま)が神聖に保たれますように」「神さま自信が神聖なものとしてあがめられますように」の意味です。

つまりお祈りの冒頭で神さまに捧げられるべき言葉は「神さまがあがめられますように」と言う願いです。自分のことでも、世の中のことでもなく、神さまについての願いです。福音書の中で律法学者がイエスさまに「律法の中で最も大切なものはどれか」とたずねる場面があります。そこでイエスさまは二つを回答しますが、最初にあげたのがMatthew 22:37(マタイの福音書第22章第37節)に書かれている「そこでイエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』([新改訳])です。神さまの目に正しく映るために律法を守りたいのなら、まず全身全霊で神さまを愛する気持ちを持ちなさい、とイエスさまは教えました。それが表れたのが主の祈りの冒頭にあるこの言葉なのです。



次の句は第10節です:

10 May your Kingdom come soon.  May your will be done on earth, as it is in heaven.

10 あなたの王国がすぐに来ますように。あなたの意志が地上でなされますように。それが天でそうあるのと同様に。

[新改訳]の日本語訳は以下のようになっています。「御国(みくに)が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」となっています。英語は[KJV]では「Thy kingdom come, Thy will be done in earth, as it is in heaven.(拙訳:あなたの王国が来ますように。あなたの意志が地上でなされますように。天では既にそうあるように)」となっています。

第9節で「どうぞ神さまの名前があがめられますように」と祈った後に続くのは、「あなたの王国」、神さまが王として君臨する世界、つまり神さまの支配の到来を待ち望む言葉です。もともとこの世の中、この世界、この宇宙は旧約聖書の最初に書かれているように神さまが創造して始めたものであって、たったいまこの瞬間も全知全能の神さまが支配しています。そういう意味では神さまの支配は最初から到来しています。ところが神さまの意図は他のところにあります。神さまが特別に自分の姿を映して創造した人間は神さまの意志に反してそれぞれが好き勝手な生き方をしていて、人間の心には神さまの存在がほとんど見つからないのが実情です。「神さまの王国」と呼べる場所は、その国民であるすべての人間が神さまを王としてあがめ、全身全霊で神さまを愛するような世界です。第10節はそういう神さまの王国を待ち望む言葉なのです。

では果たして何が起こったらそのような「神さまの王国」「神さまの支配」と呼べる状況が実現するのでしょうか。ユダヤ人やクリスチャンの間には「黙示文学(Revelation/Apocalypse)」とか「終末論(eschatology)」と呼ばれる、聖書や周辺のユダヤ文献の中から「この世の終わりに何が起こるか」を読み取ろうとする分野の学問があります。たとえばその中ではこれから先のある日、地上に天変地異が起こり、 再来されるイエスさまが地上に降り立ち、最後の裁き(最後の審判)が行われる、と言うような解釈もされています。その黙示文学上の「終末」が訪れるときこそが、「神さまの王国」「神さまの支配」の到来だと考えることができます。

一方、もし「神さまの王国」と呼べる場所が、その国民である人間が神さまを王としてあがめ、全身全霊で神さまを愛するような世界なのだとしたら、いま現在のこの世の中にあっても、神さまを王としてあがめ、全身全霊で神さまを愛することができるのならば、その人にとっての「神さまの王国」「神さまの支配」は既に始まっている、と言うこともできるでしょう。

両者は互いに矛盾する内容ではありません。後者の自分個人の内面に始まる「神さまの王国」は、自分でその実現にチャレンジする王国です。全身全霊で神さまを愛すること、その証として、王であり主である神さまの目の中に正しく映るように生きることはとても難しいことです。そう言う人は、日々、大好きな神さまを裏切ってガッカリさせてしまう情けない自分と向き合って残念に思いながらも、そんなちっぽけで愚かな自分をいつも見守り、導き、祝福してくださる神さまからの大きな愛に感謝して生きるのです。実はそう言う人は、そうやって生きているうちに、神さまの存在を確信できる不思議な出来事にたくさん出会うのです。そしてその不思議な経験のひとつひとつが、最初は荒唐無稽に思えていた「黙示文学」や「終末論」の議論を、「もしかしたら・・・」と自分の中で真剣にスタートさせるからです。



次の句は第11節です:

11 Give us today the food we need,

11 私たちが必要とする食べ物を今日、私たちに与えてください。

[新改訳]の日本語訳は以下のようになっています。「私たちの日ごとの糧(かて)をきょうもお与えください」となっています。英語は[KJV]では「Give us this day our daily bread.(拙訳:私たちに今日私たちの毎日のパンを与えてください)」となっています。

「our daily bread(日ごとの糧)」と言うのは、その日の分の食事のことです。毎日、その日の分だけの食事を与えてください、と言う意味です。

ユダヤ民族は紀元前1500年頃(つまりいまから3500年前頃)にモーゼに率いられて、奴隷状態にあったエジプトを脱出して、約束の地、今のパレスチナを目指しました。その途中、パレスチナを目前にしてユダヤ人たちは12人の偵察隊を送り込みます。やがて偵察隊は戻ってきますが、その大半が落胆した様子なのです。なぜならパレスチナに住んでいる先住民族は体格も大きく勇猛だから、自分たちが戦いを挑んでもまず勝ち目はないだろうと言うのです。ユダヤ民族はこの報告を聞くと怖じ気づいて、先に進むことを拒みました。

神さまはユダヤ民族がエジプトを脱出するときにはエジプト軍の追撃を振り切るために、みなの見ている前で紅海を二つに割り、海底を徒歩で進ませました。エジプト軍が後ろから追って来ると海の水を元に戻して海中に沈めて壊滅させてしまいました。神さまがエジプト脱出時にユダヤ民族に見せた奇跡はこの他にもたくさんありました。ユダヤ人たちはとんでもない奇跡の数々を自分たちの目の前で目の当たりにしたわけです。ところがユダヤ人たちはそれほどの力を持つ神さまが味方についているのに、「パレスチナの先住民族は巨大で恐い」と弱音を吐いて進むことを拒んだのです。神さまはこの「不信仰」を見て怒り、結果としてユダヤ民族は40年間にわたって砂漠を放浪させられる羽目になりました。40年間と言うのは弱音を吐いた世代が全員死に絶えるまでの期間として設定されたものです。

ただ、この40年の間、神さまはユダヤ民族に知らんぷりをして放置しておいたわけではなくて、その証拠に40年の間、着物や靴はまったくすり切れなかったと言う記述がありますし、毎日の食べ物や水も与えたのです。ユダヤ民族が砂漠で食べたのは「マナ」と呼ばれる食べ物です。それは夜の間に宿営の回りに降りた夜露が消えると荒野の地表に生じる白い霜のようなもので、コエンドロ(コリアンダー)の種のようで、それを集めて食べると味は蜜を入れたウエハースのようだったと聖書に書かれています。ユダヤ人たちは「これは何だろう」と言いながら食べたので、この食べ物をヘブライ語で「マナ(「これは何だろう」)と名付けました。

マナについて神さまの指示は「各自がその日に自分の食べる分だけを集めるように」でした。が、中には余計に集めて翌朝まで取っておいた者もいました。するとそのマナには虫がわいて悪臭を放ったそうです。神さまが「毎日与える」と言っているのだから余計に集める必要はないのです。明日のことはまったく心配しないでその日の分だけ食べれば良いのです。ところが心配になってちょっとだけ余計に集めてしまう。明日の朝、マナがいつものように降りていたら、そのときには取っておいた古いマナを捨てればいいや、と言うようなつもりで。この考え方はよくわかります。明日のことが心配だからちょっと備えをしておく。保険を掛けておくのですね。ところがこれは神さまから見れば、神さまの言葉を信じない「不信仰」なのです。

他の誰でもない神さまが「与える」と約束したものは「当たり前」に期待しなければいけないのです。明日の朝、太陽が東から昇ることに期待しない人は誰もいないでしょう。みんな明日になればまた太陽が昇ると信じている。それと同じレベルの期待値で神さまを待たなければいけません。そして明日の朝、太陽が東から昇ることについて、神さまに感謝する人がどれほどいるでしょうか。何かを「当たり前」だと思って、感謝の気持ちもなく受け取ってはいけないのです。「当たり前」に期待することと、「当たり前」だと思わずに感謝すること。神さまは私たちにそれを求めているのです。

第11節の「私たちが必要とする食べ物を今日、私たちに与えてください」と言うのはそう言う意味です。私たちが必要としている「今日の分」を与えてください、と言うお願いは、その「今日の分」をいただけることに感謝すると同時に、それ以上を求めないという覚悟です。

神さまが私たちに与えるものは食べ物ばかりに限りません。自分の能力や成長も、人との出会いも、与えられる機会も、そのタイミングも締め切りも、すべてがピッタリであるように計画されているのです。それらを「足りない」とか「好ましくない」と思ったり、先々を心配して思い煩うのはどうしてでしょうか。それは私たちが自分で善し悪しの基準を決めて、明日までに、来年までに、何歳になるまでに、死ぬまでにと期限を切っているからです。

神さまはすべてを持っており、すべてを知っており、時間を超越しています。そこから私たちをご覧になり、私たちを愛し、私たちに最善の結果がもたらされるように、私たちに必要なものを、ピッタリの分量でピッタリのタイミングで与えてくださいます。それについて心配したり、不満を言ったりしてはいけないのです。「私たちが必要とする食べ物を今日、私たちに与えてください」とお祈りして、毎日毎日その日の分を与えてくださる神さまに感謝すべきなのです。



次の句は第12節です:

12 and forgive us our sins, as we have forgiven those who sin against us.

12 そして私たちの罪を許してください。ちょうど私たちが私たちに対して罪をなした人たちを許しましたように。

[新改訳]の日本語訳は以下のようになっています。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」となっています。英語は[KJV]では「 And forgive us our debts, as we forgive our debtors.(拙訳:そして私たちの負債(借り・負い目)を許してください。私たちは私たちの借り主を許します)」となっています。

イエスさまが教える「主の祈り」は、ここまでまず神さまを褒め称え、続いて神さまの支配する王国を待ち望み、そして毎日の恵みをお願いして感謝しました。第12節では自分を許してくれるようにと懇願しています。「許しを乞う」と言うことは自分に罪悪があることを自覚しなければできません。私たちはどうして神さまに許しを乞わなければならないのでしょうか。[NLT]では許しを乞う理由の罪悪は「our sins(私たちの罪)」と書かれていますが、[新改訳]はここを「私たちの負いめ」とし、[KJV]は「our debts(私たちの負債/借り/負い目)」となっていますから、原語(ギリシア語)の罪悪を表す言葉はきっと神さまに対する「借り」とか「借金」の意味なのでしょう。私たちは何を神さまに借りているのでしょうか。

自分は死んだ後で何かしらの形で「裁き」を受けるのかも知れない、と考えている人はけっこういるのかも知れません。そういう人にそれはどんな裁きなのかときいてみると、それはきっと自分が生きている間に行った「良いこと」と「悪いこと」が天秤ばかりのようなものにかけられて、「良いこと」の方が重ければ天国行き、「悪いこと」の方が重ければ地獄行き、そんな裁きなのではないか、と説明してくれたりします。聖書の中では、その最後の裁きをする方が神さまなのですよ、と言っても、もともと最後の裁きを予期している人は驚かないかも知れません。今回の節で許して欲しいと祈っている、その神さまに対する「借り」とか「借金」と言うのは、天秤ばかりによる判定と同じような意味です。どうやら私たち一人一人の人間には会計書が用意されているらしく、そこには自分の人生で神さまに対する収支の決算がプラスかなのかマイナスなのか、黒字だったのか赤字だったのか、その明細が書かれている、そういう意味です。

ではどんなときに自分の会計書にマイナス(=「借り」)が記載されるのでしょうか。それは私たちが神さまをガッカリさせたときなのです。ではどんなときに神さまはガッカリされるのでしょうか。その拠り所は神さまがモーゼを通じてユダヤ人に授けた「律法」にあります。これは旧約聖書の最初の五冊、モーゼ五書と呼ばれる「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Leviticus(レビ記)」「Numbers(民数記)」「Deuteronomy(申命記)」のことです。この中に書かれている神さまの視点での基準は、狭義では「十戒」に代表される「~するな」と言う掟の類ですが、ユダヤ人向けに書かれている儀式的な内容を別にすれば、私たち日本人が読んでも倫理的、道徳的に違和感のない内容ばかりです。

イエスさまの時代にはファリサイ派と呼ばれる政治結社があり、ユダヤの最高議会に議席を持っていました。ファリサイ派の中心は律法学者たちですが、彼らはこの掟を613の条項に整理していたそうで、「自分たちはこれらをすべてを守っている。だから自分たちは神さまの目に正しく映っている」と自負し、民衆の尊敬と支持を集めていました。ところがイエスさまはこのファリサイ派を「偽善者」と呼んで激しく批判しました。表面上は善人を装ってはいるが、内面はドロドロに汚れていると言うのです。当時の人たちはこれを耳にして大変驚いたことでしょう。

イエスさまが言うには神さまは人の心をご覧になるのだから、たとえば殺人未遂があったとき、「結果として殺さなかった」からそれを「律法にかなっている」として無罪とするのではなくて、それ以前に、人に対して怒りを抱いたら、神さまから見れば、それはその人を殺したのと同じ罪を犯したことになる、とイエスさまは言うのです。同様に「結果として姦淫を犯さなかった」から良いのではなくて、倫理的に関係を持つことが許されない異性を見て心に情欲を抱いたら、やはり神さまはそれだけで、その人が姦淫を犯したのと同じようにガッカリされる、と言うのです。もし決算書がそうやって神さまがガッカリするたびにマイナスとしていちいち記録されのだとしたら、私たちの決算書はマイナスの記録の連続になるのではないでしょうか。

決算書には「プラス」側の記録だってもちろんあるでしょう。私たちが神さまを喜ばせたことは「プラス」として記録されるはずです。しかしそれもイエスさまの言うように、「見せかけの善行」ではなくて、「心の底から」の行動として神さまを喜ばせたときにだけプラスとしてカウントされるのだとしたら、果たして自分の決算書にはプラスの記録がどれくらいあるのかまったく自信が持てません。自分ではずっと善意のつもりでやって来たことなのに、ある日それが自分のエゴに他ならないと気づく、などと言うことも私にはありました。この場合もマイナス評価となるのでしょうか・・・。

どちらにしてもいつの日か、どこかで行われる神さまの最後の裁きに向けて、「たぶんだいじょうぶだ。自分の決算書はきっとプラスだろう」などと決めつけてギャンブルに出ることなど、私にはとてもできません。どう考えてもマイナスなのだろうと思いますし、そもそもそのような「私はだいじょうぶ」と言う態度が、ファリサイ派が「高慢」として批判されたようにマイナスにカウントされるのではないでしょうか。私は日々、自分は神さまをガッカリさせてばかりの連続だと思っています。だから私は「神さま、ごめんなさい。どうか私の罪を許してください」といつもお祈りしてします。第12節の前半の「私たちの罪(あるいは負い目)を許してください」と言うのはそう言う意味だと思います。

第12節の後半は、「ちょうど私たちが私たちに対して罪をなした人たちを許しましたように」となっていて、ここは「we have forgiven」と現在完了形で書かれています。英語の現在完了形は、過去にすでに起こったことについて、現在との関係を強く表現したいときに使う語法です。

自分から差し出すものが何もないのに、神さまに大して「どうか私の罪を許してください」と毎日繰り返しお願いするのは大変虫の良い話だと思っています。まずは主であり王である神さまに頭を低くしてお願いをすることが第一ですが、そうやってお願いをするのなら、こちらからも何かを差し出さないといけないと思うのです。ですから第12節の後半に書かれているのは、そういう虫の良いお願いをする以上は、少なくとも自分は他の人に対して個人的な怒りや恨みを抱くような真似はしていないことの確認でしょう。でもどうしてここが現在完了形で書かれているのでしょうか。

少なくとも私は日々、自分に対して罪をなす人、つまり私をガッカリさせる人を許せていません。私は自分勝手に決めた思いこみで生きていて、知らない間にまわりの人にいろいろと期待しているのです。そして誰かがその期待を裏切るような行動をすると、「どうしてそうなっちゃうのかなぁ」と失望したり、頭に来たり、イライラしたりします。寛大に広い心で受け入れることがなかなかできません。だから私個人は、主の祈りのこの部分は「ちょうど私たちが私たちに対して罪をなした人たちを許しましたように」とはお祈りできません。今日もまたイライラしたり怒ったりしてしまったことを神さまに謝罪して、自分はそれでも神さまの目に正しく映るような人になりたいので、どうか助けてください、とお願いするばかりです。

ただときどき、自分の心があまりにも汚れているのに辟易して、私がこんなことを繰り返し考えているのをご覧になっている神さまはさぞかしガッカリされているのだろうなぁ、と情けない気持ちになっているちょうどそのときに、誰かが普段なら自分が失望したり怒ったりするであろう場面に出会うと、その人をそのまま受け入れて許している自分を見つけることがあります。そんなときには「あぁ、自分はいまこの人を確かに許したなぁ」と感じて、これかも知れないな、この気持ちを忘れずに大事にしたいな、いつもこのような心持ちでいたいな、と思うのです。この「自分はいまこの人を許した!」と言う気持ちですが、もし英語で表現するとしたら、「I have forgiven this person!」と現在完了形で言うのがピッタリなのかも知れない、と思ったりします。



「主の祈り」の最後、第13節~第15節です。主の祈りそのものは第13節で終わっていて、第14節と第15節は「罪を許す」ことについてのイエスさまの言葉です:

13 And don’t let us yield to temptation, but rescue us from the evil one.

13 そして私たちを誘惑へ引き渡さないでください。私たちを邪悪な者から救い出してください。

14 “If you forgive those who sin against you, your heavenly Father will forgive you.

14 「もしあなた方が、あなた方に罪をなす人たちを許すのなら、あなた方の天の父もあなた方を許してくださいます。

15 But if you refuse to forgive others, your Father will not forgive your sins.

15 しかしあなた方が他の人を許すことを拒むのなら、あなた方の父もあなた方の罪を許しません。


第13節の[新改訳]の日本語訳は「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」となっています。英語は[KJV]では「And lead us not into temptation, but deliver us from evil: For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.(拙訳:そして私たちを誘惑へと導かないでください。逆に私たちを邪悪から救い出してください。なぜなら王国も、力も、栄光もあなたのものだからです。アーメン)」となっています。

私たちが引き渡されることを恐れる「誘惑(temptation)」とはなんでしょうか。それは私たちが神さまをガッカリさせる「罪(sin)」への誘惑だと思います。以前にも書きましたが、聖書に書かれている罪が「心に想念が生まれ」「その想念を育て」「行動を起こし」「それを隠す」、四つのステップで完成するのだとしたら、私たちが引き渡される「誘惑」とは、私たちの心に悪しき想念を生み、その想念を密かに育てたいと思わせ、行動を起こすようにとけしかけ、自分の行動を恥じる余り隠し通させようとする「誘惑」でしょう。

1 Corinthians 10:13(コリント人への手紙第10章第13節)には「あなた方の会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」([新改訳])と書かれています。神さまは私たちに耐えられないほどの試練に会わせることはありませんが、逆に考えれば、私たちが試練に会うことは神さまの想定内であり、その試練の厳しさの「度合い」さえも、恐らく私たちが学ぶべきことを学んで抜けられるように絶妙にコントロールされている、と言うことです。試練は私たちがそこから何かを学びとり、後に備え、整えられるために与えられているのかも知れません。

「私たちを誘惑へ引き渡さないでください」と言う願いは、私たちが出会う試練が、たとえ耐えられないことがないようなレベルにコントロールされているとしても、試練そのものは本当につらいので(つらくなければ試練の中で何かを学び取ることはできないでしょう)、試練そのものをなるべく避けて通らせてください、と言う願いにも解釈できますし、「引き渡さないでください」と言う言葉を考えると、神さまが怒りの余りに試練のレベルを最大にしたり、ときには私たちが耐えられないレベルにまで引き上げることを恐れているようにも読めます(旧約聖書の中にはそういう場面もたくさんありますので)。あるいはイエスさまが第5章で教えてくれたように、第21節からの「怒りに関する教え」や、第27節からの「姦淫に関する教え」を考えると、罪は四つのステップで構成されると学んで知っていて、できるだけ早い段階でこの四つのステップから抜けなければならないとか、罪を自分の力でコントロールしようなどとは考えずに誘惑からはとにかく全速力で逃げた方がよい、とはわかっているつもりなのに、結局「怒り」や「情欲」の感情を不必要に育てている自分を見つけて激しく落ち込んだりします。どうせ誘惑に抗することもできずに罪のステップへと落ちてしまうのであれば、「誘惑」そのものがない方がよっぽど良いのです。だから「誘惑」そのものを、なるべく与えないでください、と考えても良いと思います。試練は本当に辛いので、少なくとも私は、私を育ててくださるための試練なのであれば、喜んで受けますから、どうぞ私に試練を与えてください、と言う気持ちにはなれません。

[NLT]では省かれてしまっているようですが第13節の終わりには、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」([新改訳])と明らかにお祈りを締めくくる言葉ありますから、第14節と第15節は「主の祈り」を教えた後でのイエスさまの言葉の位置づけになります。最初にこの「主の祈り」は、「ルカの福音書」にも記載がある、と書きましたが、「ルカ」の「主の祈り」も、多少の表現の違いはありますが、やはり第13節の内容で終わっています。第14節と第15節は「マタイ」にしか見あたりませんから、ここは「マタイ」独自の資料からの記述と思われます。

第14節、「もしあなた方が、あなた方に罪をなす人たちを許すのなら、あなた方の天の父もあなた方を許してくださいます」は、「あなた方に罪をなす人たち」、つまり自分を神さまの立場に置き換えて考えれば「自分の予期に反して自分をガッカリさせるような人たち」を許すのなら、神さまも私たちを許してくださる、と言う話です。これがどれほど難しいことか、私は日々実感します。私はいつの間にか、意識的にも無意識にも少なからず周囲の人に何かしらの「期待」をして生きており、その期待から外れることが起こるたびにガッカリしたり、頭に来たりします。神さまも同じように私を見て、ガッカリしたり頭に来たりしているのだとしたら、それは私に期待していただいていると言うことにもなります。だから私も、たとえばガッカリしたり、頭に来ても、その人たちを許さなければいけないのだ、と思うのですがこれがとても 難しい。

最近は家族については、期待に反することを言われたり、されたりしても、ガッカリしたり、頭に来たりすることが少なくなってきました。それをそのまま受け入れながら、家族を愛している自分を見つけます。私は家族と関わるのが大好きで、自分の時間やお金や労力を優先的に家族のために使いますが(好きなことに使うので苦になりません)、こういう心持ちになれたのはそういう「与えてきた」結果なのかも知れない、と思ったりします。「神さまは、与えるものにはあふれるほどの祝福をもって応えられる」と聖書に書かれている通りだな、とも思います。そしてもし「そう言う心持ち」を家族の外側にまで拡大しようと思うのなら、家族の外側の人たちに対しても自分の時間やお金や労力を惜しみなく使い始めればよいのかも知れませんが、自分の心の中には、いつもそれをスタートしない言い訳があるのです。でもそれって結局は「与えるものにはあふれるほどの祝福をもって応えられる」を信じていないことになりますから、私は自分の不信仰を恥じます。

第15節には、「しかしあなた方が他の人を許すことを拒むのなら、あなた方の父もあなた方の罪を許しません」と書かれていますから、このような状態では神さまは私を許してくださらないのだろうな、と思います。そして決して許されない私がこうして神さまと交わることができるのは、私の代わりに十字架にかかってくださったイエスさまのおかげです。



最後の断食に関する話は「マタイ」だけに見られる記述です。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」、の公式が成り立つのであれば、ここは「マタイ」独自の資料から書かれていることになります。

「断食」は旧約聖書の中にもたびたび登場する苦行で、ユダヤ人は神さまとのコミュニケーションを密で研ぎ澄まされたものとする必要があるとき、たびたび断食を行いました。たとえばEsther 4:16(エステル記第4章第16節)では国外追放中に滅ぼされようとしているユダヤ人を守るため、勇気ある行動を決断したエステルが言います。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」([新改訳])。エステルは王妃なのですが、禁を犯して自分から王の前へ出る決断をしました。場合によってはそれによって死罪を受けるかも知れません。エステルは、その自分のその行動に対して神さまの守りと導きが欲しいのです。だから自分も侍女も断食をし、同じ時期にシュシャンと言う場所にいるユダヤ人全員で断食をするように告げます。断食をしながら頭から灰をかぶり、神さまの前に身を伏して神さまの守りと導きを乞い願うのです。

「断食」自体がつらいことですし、そのような苦行をしてまで神さまとの深い交わりを求める姿は人々の尊敬を集めます。イエスさまの時代に「律法をすべて守っている」「だから自分たちは神さまの目に正しく映っている」と豪語して人々の称賛と支持を集めていたファリサイ派は、毎週木曜日と月曜日の二回、断食をしていたそうです。これは神さまから律法を預かってユダヤ人に授けた旧約聖書最大の預言者であるモーゼが、その律法を受け取るためにシナイ山に登った日と下山した日だと言われています。イエスさまの言葉によると、この間、ファリサイ派の人たちは髪や服装を乱し、ことさら哀れに見えるような努力をして、人々から「ファリサイ派の人たちはすごいなぁ」と思われるように外見を取り繕う努力をしていたのでした。

ですがイエスさまは逆のことを言います。「 しかしあなた方が断食するときには、髪をとかし、顔を洗いなさい。そうすればあなたが断食していることに誰も気づかないでしょう」と。善行は誰にも気づかれずにこっそりとやりなさい、と言う教えはこの章の最初にも書かれていました。第3節~第4節です。「3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」([新改訳])。自分の右手でやっている善行を左手に知られないくらい、こっそりとやれ、と言うのです。

善行は人に見せるためにするのではなく、ただ「善を行うことが正しい」と信じるからするのです。そして自分の善行が誰にも知られなくても、それを見ている神さまがいて、必ず報いてくださると書かれています。心をご覧になる神さまは私たちの善行を見ているだけでなく、それを行うときの心まで見ています。自分の善行の動機がどこにあるのか、私は自分でもときどきわからなくなります。たとえば自分がひたむきに善行を続けてきたつもりでも、何かのきっかけで気持ちが弱くなっているときに、自分の善行を見続けていたはずの人から追い打ちになるような言葉で突き放されたとき、それを意外に感じている自分を見つけると、あぁ、結局自分は見返りを期待して善行を行ってきたのか、と悲しくなることもあるからです。たまたま私に追い打ちをかけたその人も、何かのきっかけでそのときだけ気持ちが荒れていたのかも知れないのですから、自分が悲しむより先にその人の気持ちを思いやってあげられないのか、と反省することしきりです。最近は私はそうやって迷ったときにはゴチャゴチャ考えないで、動機はともかく、ただ善を行うようにしたい、と思っています。


english1982 at 21:00│マタイの福音書 
マタイの福音書第6章第19節~第34節:お金と所有に関する教えマタイの福音書第6章第1節~第4節:貧乏な人たちに施すことについての教え