マタイの福音書:第6章マタイの福音書第5章第38節~第42節:仕返しに関する教え

2015年12月27日

マタイの福音書第5章第43節~第48節:敵に対する愛についての教え

第5章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about Love for Enemies

敵に対する愛についての教え


43 “You have heard the law that says, ‘Love your neighbor’ and hate your enemy.

43 あなた方は、あたなの隣人を愛し、あなたの敵を憎め、と言う律法を聞いています。

44 But I say, love your enemies! Pray for those who persecute you!

44 しかし私は言います。あなたの敵を愛しなさい。あなた方を迫害する人たちのために祈りなさい。

45 In that way, you will be acting as true children of your Father in heaven. For he gives his sunlight to both the evil and the good, and he sends rain on the just and the unjust alike.

45 そうすることで、あなた方は天の父の本当の子どもとして振る舞うことになるのです。なぜなら天の父は邪悪な人にも良い人にも太陽の光を与え、公正な人にも不公正な人にも、同じように雨を降らせるからです。

46 If you love only those who love you, what reward is there for that? Even corrupt tax collectors do that much.

46 もしあなた方が、あなた方を愛してくれる人たちだけを愛するのなら、それに何の報酬があるでしょうか。堕落した取税人でさえ、同じくらいのことをしています。

47 If you are kind only to your friends, how are you different from anyone else? Even pagans do that.

47 もしあなた方が、自分の友人にだけ親切であるのなら、他の人たちとどこが違うのですか。異邦人でさえそうしています。

48 But you are to be perfect, even as your Father in heaven is perfect.

48 ですがあなた方は完全となるのです。あなた方の天の父が完全であるように。




ミニミニ解説

前回はローマ帝国の支配と重税に苦しむユダヤ人に対して、イエスさまが「敵対してはいけません。誰かが右の頬をたたくなら、左の頬も差し出しなさい。下着が取り上げられるなら、上着も与えなさい」と、抵抗を禁じる「非暴力」の思想を説いたのを読みました。今回はそれに続く部分に書かれた、その言葉の根拠となる思想、「あなたの敵を愛しなさい」についてです。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式で見ると、この言葉もまた「ルカ」の中にも見つかりますので(Luke 6:27/ルカの福音書第6章第27節)、この言葉もやはり「Q資料」(イエスさまの説教集)に含まれていたイエスさま自身の言葉と言うことになります。

第43節、イエスさまは「あなた方は~と言う律法を聞いています」として、「あたなの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言う律法に言及しています。ところが旧約聖書の中にはこの言葉が、このような形ではっきりと具体的に書かれた部分は見つかりませんので、解釈と推測をしなければなりません。

「あたなの隣人」と言うのは恐らく同胞のユダヤ人と、ユダヤ人の律法に従ってユダヤ人の中に寄留して住む異邦人のことだと思います。旧約聖書の律法は、ユダヤ人同士で愛し支え合うことに加えて、ユダヤ人の中に寄留する異邦人にも親切にすることが一貫して書かれています。たとえばDeuteronomy 10:19(申命記第10章第19節)には「あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。」と書いてあります([新改訳])。ここにあるようにユダヤ人が異邦人に親切にするように命じられる根拠は、自分たちがかつてエジプトに寄留して苦しい奴隷生活を送る立場にいたからです。

具体的にどのように親切にするべきかについても、いくつか言及があります。たとえばDeuteronomy 14:28-29(申命記第14章第28節~第29節)には「28 三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。29 あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」とあります([新改訳])。これは三年ごとに収穫の10%をレビ人(ユダヤ十二氏族のひとつで、パレスチナに入ったときに土地ではなくて、寺院周辺の仕事を割り当てられました。神さまの仕事をするレビ族を養うのは残りの十一の氏族の仕事なのです)、異邦人、みなしご、やもめのために分け与えよ、と言う律法です。

一方、「あなたの敵を憎め」の部分の「あなたの敵」とは異教の神を信仰し、イスラエルを宗教的にも政治的にも脅かす周辺国家の異民族のことだと思います。なぜなら旧約聖書は異教を激しく排斥し、必要であれば戦争を通じて異教を信仰する民族を根絶やしにすることさえも肯定しているからです。たとえばDeuteronomy 7:1(申命記第7章第1節)には「あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。」と書かれています([新改訳])。つまりユダヤ人がパレスチナに入るにあたり、先住の民族が追い出されることが肯定されているのです。

聖書にはその根拠も書かれています。たとえばDeuteronomy 12:29-31(申命記第12章第29節~第31節)には次のように書かれています。「29 あなたが、入って行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から絶ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、30 よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう、と言わないようにしなさい。31 あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである」([新改訳])。つまり聖書によると、彼ら(七つの異邦人の民族)は主(神さま)が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえした」人たちとされているのです。だから彼ら(七つの異邦人)の国々は、ユダヤ人がパレスチナに入ったときに神さまによって絶ち滅ぼされ、根絶やしにされてしまったのです。

つまり私は「あたなの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言う律法とは、ユダヤ人の同胞とユダヤの律法に従ってユダヤ人の中に寄留して生きる異邦人を愛しなさい、その一方で、異教の神を信仰し、イスラエルを宗教的にも政治的にも脅かす周辺国家の異民族を憎みなさい、と言うことだと解釈しました。ところが第44節、イエスさまはいつものように「しかし私は言います」と始めて、おどろくべきことを口にします。「あなたの敵を愛しなさい。あなた方を迫害する人たちのために祈りなさい」。ここで「あなた方を迫害する人たち」とは、イエスさまの時代に旧約聖書の教えをあてはめると、ユダヤ人を支配して重税を課す「ローマ帝国」のことです。ユダヤ人から見ればローマ人は、ユダヤの神さまとは別の神々を信仰する異邦人です。ユダヤ人に、そのローマ人を愛せ、と言うのは旧約聖書の教えを根底からくつがえすような信じられない言葉なのです。

第45節で、イエスさまは「敵を愛する」ことの根拠を言っています。「なぜなら天の父は邪悪な人にも良い人にも太陽の光を与え、公正な人にも不公正な人にも、同じように雨を降らせるから」です。確かに、もし主である全知全能の神さまが、どのような人にも分け隔てなく太陽の光を与え、同じように雨を降らせるのであれば、ちっぽけな私たちひとりひとりの人間が特定な人を指さして「あの人は好き」とか「あの人は嫌い」などの判断をして、それで態度や行動を変えるようなことはあってはいけないのではないか、と思います。

神さまはもし誰かが、神さまが憎み忌み嫌うようなことを行うのであれば、旧約聖書の中で行ったように、その人を絶ち滅ぼすことも、根絶やしにすることもできる方なのです。神さまの「愛」は私たちの考える「博愛」とは異なります。聖書の中の神さまの愛は、極めて私的で、また一方的なのです。天には独立した「人格」を持つ「神さま」と言う固有の存在があり、その神さまが下す判断に基づいて、神さま自身がそれを実行に移します。こう書くと横暴に聞こえるかも知れませんが、何しろ神さまは地球と宇宙を創造された方なのですから、それをその方の好きにすることについて、私たちはとやかく言える立場ではないのです。たとえば私たちが、倫理と道徳の基準に非常に厳格な王様が支配する絶対王制の国に住んでいて、すべてはその王様が決めることなのでそれには絶対に逆らえない、と考えていただければ良いと思います。「道を外した」人に厳しい処断が下されるからこそ、国内の倫理と道徳が守られ、結果として国民は平安に暮らせるようになるのです。そのような主であり王様である神さまが、同じように太陽の光を与え同じように雨を降らせる人たちを、私たちはとやかく言う立場にはないと思うのです。

では「とやかく言う」のをやめるレベルを通り越して、イエスさまが言うように、自分が嫌う敵を愛したり、さらにはその人たちのために祈るレベルにまで持って行くにはどうしたら良いのでしょうか(ここではユダヤ人にとって、「祈る」と言う言葉が私たちが考えるよりもはるかに重い意味を持つことを念頭に置いてください)。神さまが、自分の憎む人間を絶ち滅ぼすことができるのだとしたら、果たして自分が絶ち滅ぼされない、つまり自分が神さまから憎まれていないと言う保証はどこにあるでしょうか。だいじょうぶ、自分は道徳的に悪いことはしていない、と言い切れるでしょうか。ちょっとは悪いかも知れないけど、絶ち滅ぼされるほどには悪くない、とか・・・。旧約聖書の中で神さまの逆鱗に触れて滅ぼされた人たちが、いまの私たちの基準から考えて当然滅ぼされるべき、とは到底思えません。神さまは厳しい方なのです。私たちはここまでイエスさまの言葉として、情欲を抱いて異性を見たり、他者に対して怒りを抱いたら、それは神さまが憎み忌み嫌う「罪」に他ならない、と言うのを読んで来ました。これほどの崇高な基準を満たして自分は神さまに憎まれない、神さまをガッカリさせないと言えるような人間が、地球上にどれほどいると言うのでしょう。私はそんな人は一人もいないと思います。

個人的な話になりますが私は何年か前にバイクで大きな事故を起こしました。会社の帰りに夜の暗い道をファミリーバイクで走っていて、横の路地から黒い猫が飛び出して来たのにまったく気づかなかったのです。気づいたのは猫がすでにバイクの真下に来たときで、私はとにかくびっくりして急ブレーキとハンドルで猫を避けようとして転倒したようなのです(実はこのあたりの記憶がありません)。私は脳しんとうを起こして意識を失い、気がついたのは救急車の中でした。頭部をどこかに打ち付けたらしく、顔に大けがをして前歯が何本か折れました。

私はこの事故の後でいろいろと考えました。まず自分が大きな事故に遭うのだ、と言うことを受け止めました。どうやら私はクリスチャンになった時点で、自分は神さまに守られているのだから、きっと安全に人生を送ることができるのだろう、と勝手に決めつけていたのです。これまでも危ない目に会ったけれども不思議と大けがをすることなく生きてきました。私はそれが神さまの庇護だったのだと、そしてクリスチャンになったことでそれが最大に強化されたのだと決めつけていたのです。が、実際はこうやって大きな事故に遭いました。私は「今回の事故は打ち所が悪ければ死んだのだろうな」と思いましたが、それほどの大きな怪我を負ったのです。

それから私はこの事故の「程度」を考えるようになりました。私は死にかけたのですが、死にませんでした。でも自分の命の意味を真剣に考えるほどの大きな事故でした。もしこのときの事故が、こうやって私がびびるくらいに十分に大きくなかったら、私はこれを自分の教訓としなかったでしょう。なので私はこの事故の「程度」が、死なない程度には軽いが、深刻に自分の命のことを考える程度には重くなるように、綿密に計画されている、そこに神さまのコントロールが働いていると感じたのです。

そして、ここはみなさんにうまく伝わるかどうかわかりませんが、私はこの体験を経て、今回自分は死ななかったけれども、自分の死の後に「死後の世界」があることについての確信も深めたのです。私たちひとりひとりが持っている「命」は、神さまのところへ行くまでの間の「猶予期間」だと思うのです。この間に私たちは、できるだけ神さまの目に正しく映ることができるように努力できます。その「猶予期間」が終わるとき(つまり私たちの言葉で「死ぬ」とき)、私たちは死後の世界へ移ります。その死後の世界で何が私たちを待っているのかはわかりませんが(聖書の中から死後の世界をさまざまに解釈して描くことは可能ですが、ここでは割愛します)、少なくとも私たちには「死」までの間の「猶予期間」を地上で過ごしているのです。

そしてこの「猶予期間」とは、繰り返しになりますが、もし神さまが自分の憎む人間をいつでも好きなときに絶ち滅ぼすことができる方なのだとしたら、そして地上に生きる私たちが誰ひとりとしてイエスさまの示すような崇高な基準を満たすことができずに、毎日繰り返し神さまをガッカリさせているのだとしたら、神さまが私たち人間に示してくださる「恩恵」のたまものに他なりません。つまり「猶予期間」は「恩恵の期間」なのです。

情欲を感じずに異性を見ることも、他人に怒りを感じずに過ごすことも、そして今回イエスさまが言われたように、自分が嫌う敵を愛してその人たちのために祈ることも、私たちにはまず不可能です。が、それが神さまの求める「正しい人間の姿」として、こうして聖書の中で教えられているのですから、私たちは自分がどれほどその基準から遠く離れているのかを自覚し、それについて神さまに申し訳ないと思い、にもかかわらず毎日を守りと祝福のうちに送らせていただけることを感謝するべきです。そして自分の考える方法で、とにかく「神さまの目に正しく映ること」を全力で指向すべきなのです。そのことは、第48節に書かれています。私たちは完全(perfect)」を目指さなければなりません。それは私たちの天の父、つまり神さまが完全だからです。そして第45節にあるように「そうすることで」、私たちは「天の父の本当の子どもとして振る舞うことになるのです」。

ちなみに第46節にある「堕落した取税人」とは、ローマ帝国のためにユダヤ人から税金を取り立てる仕事をしていた人たちです。この人たちは自分たちの敵であるローマ帝国のために、同胞から税金を搾り取る仕事に就き、しかもその税制を利用して私腹を肥やしていたためにユダヤ人からは忌み嫌われていました。









english1982 at 14:00│マタイの福音書 
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