2015年12月27日
マタイの福音書第5章第33節~第37節:誓いに関する教え
第5章
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- マタイの福音書第5章第13節~第16節:塩と光についての教え
- マタイの福音書第5章第17節~第20節:律法に関する教え
- マタイの福音書第5章第21節~第26節:怒りに関する教え
- マタイの福音書第5章第27節~第30節:姦淫に関する教え
- マタイの福音書第5章第31節~第32節:離婚に関する教え
- マタイの福音書第5章第33節~第37節:誓いに関する教え
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- マタイの福音書第5章第43節~第48節:敵に対する愛についての教え
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)
Teaching about Vows
誓いに関する教え
33 “You have also heard that our ancestors were told, ‘You must not break your vows; you must carry out the vows you make to the Lord.’
33 あなた方は私たちの祖先が「誓いを破ってはならない。主に立てた誓いは成し遂げなければならない」と言われたのを聞いています。
34 But I say, do not make any vows! Do not say, 'By heaven!' because heaven is God’s throne.
34 しかし私は言います。どんな誓いも立ててはいけません。「天にかけて」と言ってはいけません。なぜなら天は神さまの王座だからです。
35 And do not say, ‘By the earth!’ because the earth is his footstool. And do not say, ‘By Jerusalem!’ for Jerusalem is the city of the great King.
35 「地にかけて」と言ってはいけません。地は神さまの足台だからです。「エルサレムにかけて」と言ってはいけません。エルサレムは偉大な王の町だからです。
36 Do not even say, ‘By my head!’ for you can’t turn one hair white or black.
36 「私の頭にかけて」と言ってもいけません。あなたは一本の髪の毛さえ白くも黒くもできないのだからです。
37 Just say a simple, ‘Yes, I will,’ or ‘No, I won’t.’ Anything beyond this is from the evil one.
37 「はい、そうします」とか「いいえ、しません」とだけ言いなさい。これを越えることはすべて邪悪な人からの言葉なのです。
ミニミニ解説
今回は「誓い」に関する掟です。この部分は「マルコ」や「ルカ」には記述は見つかりません。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、これは「マタイ」の独自の資料に基づく記述です。
最初にイエスさまが第33節で言う、ユダヤ人の祖先が聞かされた「誓いを破ってはならない。主に立てた誓いは成し遂げなければならない」の言葉が旧約聖書のどこにあたるのかですが、このとおりに書かれた部分は見つかりません。が、ユダヤ人が神さまに「誓う」ことについて書かれた部分は少なからずあります。たとえばLeviticus 19:12(レビ記第19章第12節)「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である」([新改訳])。Numbers 30:2(民数記第30章第2節)「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない」([新改訳])などです。
旧約聖書には「ウソの誓いをしてはならない」「神さまに誓ったことは必ずそのとおりに実行しなければならない」と書かれているのですが、これを前提にして、イエスさまは第34節で「しかし私は言います。どんな誓いも立ててはいけません」と言います。そして使ってはいけない言葉として「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」「私の頭にかけて」をあげています。これはどう言うことかと言うと、イエスさまの時代にはこれらの言葉が、本来の意味を失って、まったく意味をなさない単なる枕詞のように使われてしまっていて、イエスさまはそれを戒める意味で言ったのだと思います。
たとえば自分が誰かに何かを約束するときや、ウソを言っていない、真実を述べているんだ、と強調するときには、日本人の中にも「神に誓ってもいい」とか「天に誓って言うけど」と言う枕詞をつける場合があります。この人たちは本当に神さまに誓ったり、天に誓ったりしているわけではなくて、自分が言葉にして告げる約束や真実がどれほど真剣で正しいものであるかをただ強調したいだけなのです。果たして日本人は「神に誓ってもいい」とか「天に誓って言うけど」と言う枕詞が付加されることで、その人に対する信用度をいくらかでも上げるでしょうか。ちょっと疑問です。その人を信頼するかどうかの判断基準は、こういう言葉ではなくて、どこか他のところにあるのではないでしょうか。
どうやらイエスさまの時代にも「天にかけて」や「地にかけて」の言葉はユダヤ人によって枕詞のように乱発されていたのです。イエスさまはこれらの言葉の本来の意味を伝えます。つまり、これらの「誓い」の言葉は、自分たちが信仰する神さまに言及する言葉なのだから、そもそも口にすること自体が恐れ多いことなのであり、旧約聖書で定められているとおり、軽い気持ちで使ってはいけないのだ、と戒めます。ユダヤ人にとっては神さまの名前を口にすることさえもがタブーだったのです(聖書の中でもユダヤ語で神さまを間接的に指す言葉は日本語では「主」のような言葉で書かれています)。だからこれらの「誓い」の言葉も、同じくらいの重みを持って使わなければいけないのです。
そもそも「何かを神さまに約束できる」と考えること自体がおごりです。これまでに第5章で引き合いに出されてきた私たちの罪を例にあげると、たとえば「私は今後絶対に怒りません」とか、「今後絶対に女性を見て情欲を抱きません」などと言ったらそれはウソになります。それは生きている限り不可能でしょう。もちろん心の底からそれを願って誠実な気持ちでこれを言う人もいるでしょう。でもそれはその人が「自分はできる」と自分の能力を信じている、と言う意味ですから、ある日どこかで神さまに対する誓いを守れていない自分を見つけて、自分に裏切られた気持ちになり、落ち込んだり自己卑下したりするのではないでしょうか(実はそのときこそが、自分が神さまを必要としていることを認識するときでもあるのですが)。自分で責任の取れないことは、神さまの名前を出して誓ってはいけないのです。なぜならイエスさまの言葉を借りると私たちは「一本の髪の毛さえ白くも黒くもできない」つまらないちっぽけな存在だからです。
最後の第37節を私は[NLT]の英語をそのまま和訳して、「はい、そうします」とか「いいえ、しません」とだけ言いなさい、と訳しましたが、これはどういう意味なのでしょうか。「誓いの言葉」を添えるようなことはせず、シンプルに必要なことだけを言え、と言う意味なのでしょうか。いまひとつよくわかりません。同じところを[新改訳]で見てみると「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」と書かれています。[KJV]では「But let your communication be, Yea, yea; Nay, nay: for whatsoever is more than these cometh of evil.」となっていて、ここを訳すと[新改訳]と同様、「YesはYes、NoはNo」と言いいなさい、となっています(後半省略)。
ここは私の推測になりますが、[NLT]の「はい、そうします」とか「いいえ、しません」だと聖書の原文のニュアンスと違ってしまうような気がします。ここは「是非」の話をしているのであって、「是は是、非は非とだけ言いなさい、それ以上のことを言うと悪となる」の意味なのではないかと思うのです。では「是は是、非は非」とは何のことなのでしょうか。「是は是、非は非」とは、つまり「正しいことは正しいこと、間違ったことは間違ったこと」の意味です。聖書の世界観から見た世の中の「正しいこと」「間違ったこと」とは、「神さまを絶対視することだけが正しい」「自分を絶対視することは間違い」と言うことになります。
english1982 at 16:00│マタイの福音書