マタイの福音書第5章第33節~第37節:誓いに関する教えマタイの福音書第5章第27節~第30節:姦淫に関する教え

2015年12月27日

マタイの福音書第5章第31節~第32節:離婚に関する教え

第5章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about Divorce

離婚に関する教え


31 “You have heard the law that says, ‘A man can divorce his wife by merely giving her a written notice of divorce.’

31 あなた方は律法が「男は妻に離婚を告げる書面を渡すだけで妻を離縁できる」と言うのを聞きました。

32 But I say that a man who divorces his wife, unless she has been unfaithful, causes her to commit adultery. And anyone who marries a divorced woman also commits adultery.

32 しかし私は言います。妻を離縁する男は、妻が浮気をしたのでなければ、妻に姦淫を犯させることになるのです。そして誰でも離別された女性と結婚する男も姦淫を犯すことになるのです。




ミニミニ解説

今回は「離婚」に関する掟です。この部分は「マルコ」や「ルカ」にも似た記述が見つかります。たとえばMark 10:11(マルコの福音書第10章第11節)にある「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです」([新改訳])」の記述です。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、これは「マルコ」にもともと書かれた話ということになります。

聖書に書かれている「結婚」は、いまの私たちの考える結婚とは違います。日本でも自由な恋愛を経ての結婚が実現したのはつい最近のことです。好きな人と結婚して、お互いの意見が合わなければ離婚する、そういう結婚が当たり前の世の中になったのは戦後しばらく経ってからのことでしょう。旧約聖書の中の律法が書かれたとされるのは、いまから約3,500年前、イエスさまの時代はいまから約2,000年前、どちらも「結婚」は家と家との縁組みであり、結婚する本人同士の意志とは縁遠い時代の話です。

第31節に書かれている、律法に記載された「男は妻に離婚を告げる書面を渡すだけで妻を離縁できる」の部分を読むと、現在の離婚届みたいなものか、と想像しがちですが、状況は少し異なります。時代は男尊女卑の古代の話です。イエスさまが「あなた方は聞きました」と言っているのは律法の中のおそらく次の部分です。Deuteronomy 24:1-4(申命記第24章第1節~第4節)です。「1 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、4 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない」([新改訳])。

ここで律法が言っているのは、ある男性が結婚した妻を気に入らなくなったので離縁したところ、その女性が他の男性と結婚したのだが、その男性(次の夫)からも離縁されるか、その男性が死んでしまった場合、最初にこの女性を離縁した男性は、再びその女性と結婚することはできない、と言うルールです。つまり「再婚を禁じる場合」についての規定です。ところがイエスさまは第31節で、ユダヤ人たちが「男は妻に離婚を告げる書面を渡すだけで妻を離縁できる」と言う律法を聞かされていると言っています。そのような記述は旧約聖書の中には見つかりません。イエスさまの時代には「scribe(スクライブ)」と呼ばれる律法の専門家(教師)がいて、聖書に書かれている律法の他に、その律法を日常生活の各場面にどのように適用していくべきか、いわゆる運用規定の細則のようなものを管理していました。きっとその中には「男は妻に離婚を告げる書面を渡すだけで妻を離縁できる」と言うルールがあり、その根拠がDeuteronomy 24:1-4(申命記第24章第1節~第4節)の冒頭にある「離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」だと言っていたのでしょう。実際にはそうやって、然るべき手続きを踏めば、一方的に男性が女性を離縁できた世の中だったのだと思います。ですがその根拠を律法のこの部分に求めるのは、かなりの「こじつけ」だと思います。

さて、イエスさまが「しかし私は言います」と注意を喚起して言っている言葉を読んでみると「妻を離縁する男は妻に姦淫を犯させる」「離別された女性と結婚する男も姦淫を犯す」と書かれていて、離婚は姦淫につながるとして、基本的には離婚に反対する教えのようです。これを私たちはどのように受け止めるべきか考えてみました。もし世の中の結婚がすべてうまく行ったとしたらそれは素晴らしいことだと思います。また最初から離婚のことを考えて結婚する人と言うのも少ないでしょう。結婚する人は、結婚の中に何か良いことがある、結婚とは素晴らしいものだ、自分はこの結婚をなんとしても成功させたい、と考えて結婚するのではないでしょうか。これに対して「男は妻に離婚を告げる書面を渡すだけで妻を離縁できる」というルールは、なんだか結婚を最初から離婚を想定した単なる手続きのようにとらえています。結婚とはそんな安っぽいものではなくて、神さまが引き合わせる男性と女性が結ばれるものです。それを単なる紙切れだけの手続きのようにとらえて書面を渡して解消しよう、などと言う考え方は、姦淫を犯すのと同じくらい神さまをガッカリさせるのですよ、と言う意味ではないでしょうか。

なお「マタイ」と「マルコ」を比較してみると、「マタイ」ではオリジナルの「マルコ」に「妻が浮気をしたのでなければ」と言う一言が追加されています。また「マルコ」では夫と妻のそれぞれの立場で書かれていたものが、「マタイ」では視点が男性側だけになっています。これは「マタイ」を記して教本としていた教会(あるいは教会群)が、ファリサイ派に代表される保守的なユダヤ人主体の派閥から出てきていることに関連しているのだと思います。オリジナルのイエスさまの言葉に「妻が浮気をしたのでなければ」と言う言葉をわざわざ付加したのは律法的な味付けですし、夫と妻の視点で書いていたものを、わざわざ「妻に姦淫を犯させる」と男性側からの視点に書き換えたのも、男性主体の保守派の雰囲気を感じさせます。








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